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二 右に出る者
「佐藤雪子。今回もお前にやられたよ」
「前川君。そんな事ないわ」
学校の廊下。張り出された順位。一番に記された佐藤雪子。二番に書かれた同級生の前川と並んで見上げていた。
「少しはやり返せると思ったんだけどな。理科だけか」
「たまたまよ」
謙遜する雪子。前川は白い歯を見せた。
運動もできる彼は学校の人気者。親は室蘭鐵工所の社長。生徒会長の前川。雪子は副会長を務めていた。実力を認めてくれている前川は、貧乏な雪子にも平等だった。
こんな二人。放課後、教師の手伝いをしていた。そして帰ろうと玄関にやってきた。
「あれ。私の靴に何か入っているわ」
「また恋文じゃないのか」
「困るわ」
雪子の困り顔。前川は真顔になった。太い眉。黒襟の学生服。実直な彼は雪子に語り出した。
「俺には理解できぬが、相手は真剣に書いているんだ。お前はちゃんと返事をしないとならないぞ」
学生帽の彼の声。しかし雪子は小さくため息をした。
「わかっているけれど。それは一方的じゃないかしら」
「女は男に従うものだぞ」
……また始まった。
古い考えの前川。雪子は反論するのを諦め家路についた。
翌朝。学校内。雪子は女子生徒数人に渡り廊下に呼び出された。
「あなた。北海道文芸コンクールで優秀賞を取ったそうね」
「そうですけど」
「あれは私の作文でしょ。私の作文を盗んだくせに」
「……違いますけど」
冷静な雪子。しかし彼女は自分の作文を取り出した。
「ほら。私の読んだ本と、あなたの読んだ本が同じでしょう」
「課題図書です。同じ人はたくさんいます」
「言い訳なんか聞きたくないわ。これを読んだ人が言ったのよ。あなたが私の作品を奪って、そして先生に取り入って推薦してもらったんだって」
「嘘です」
「うるさい!」
彼女は雪子を足蹴にした。彼女は冷たい廊下に倒れた。
「政治家の子だっていうけど、あんた妾の子でしょう。生意気なのよ」
「そうよ。どうせ先生に取り入っているくせに」
「……」
言い訳しても無駄。雪子はただ彼女達を見つめていた。
「何よその眼。いい加減にしなさいよ」
「美人だからって偉そうに」
彼女達は雪子の髪を引いた。しかしここに誰かの声がした。
「やめろ!そこで何をしているんだ」
「みんな、逃げるよ」
倒れた雪子を置き、彼女達は逃げていった。
「大丈夫か、雪子」
「前川君。ありがとう」
手を貸してもらい立ち上がった雪子。顔に引っ掻き傷。床には彼女の黒髪が散乱。前川は表情を潜らせた。
「先生を呼ぶか」
「いいえ。もういいの私。掃除をして帰るから」
「俺も手伝う」
「いいの。前川君も、巻き添えを食うから」
「雪子」
この時、男子友人が前川を呼ぶ声がした。
「行ってちょうだい。私もすぐ行くから」
「わかった」
憮然とした顔の前川。それでも仲間のところへ戻っていった。
……別に。いつものことだもの。
不遇な雪子。一人掃除をし、教室へ戻った。
翌日の教室。雪子が挨拶しても誰も返してくれなかった。
……今度は何が原因なのかな。
時折やってくる無視の態度。それでも雪子は自分の席に座ろうとした。
「あ」
椅子は水浸し。机の中に雪が詰められていた。
見渡すとニヤニヤしている女子達がいた。そばに座る男子は素知らぬ顔。しかし教師が入ってきた。規律、礼、着席の合図。しかし。雪子は座れなかった。
「どうした。佐藤」
「先生。雪がついて濡れてしまいました」
「そうか」
「拭いてから、座ります」
クラスの後ろから雑巾を持ってきた雪子。静かに椅子を拭いた。クラス中が密かに見つめる中、机の中の雪も取り出し、窓をガラッと開け、外に捨てた。
教師はその間。今日の予定を話していた。
「ん?大丈夫か、佐藤」
「はい。問題ありません」
「そうか」
そう言って静かに座る雪子。
……虐める人間は虐めに傷ついているのを楽しんでいる。
それを知る雪子。何もなかったように座った。そして授業を黙って受けた。いつものことだった。
父親が政治家犬養の娘、雪子。特別扱いして来る人もいるが、妬みでいじめる人も多かった。
さらに母親似で八頭身。長身で小顔の優秀な深雪。性格はさっぱりしておりは男子に人気が合った。が、比例するように女子の反感を買っていた。
それを自覚する雪子。静かに学校生活を過ごしていたが、返ってこれが人気となる皮肉。とにかく大人しく過ごしていた。
「テストを返すぞ。一番は佐藤だ」
「先生!質問があります」
「なんだ」
「佐藤さんの作品についてです」
盗作の疑いを持つ彼女。雪子の作文のどこが良いのか尋ねてきた。他の生徒も同様の疑いの目。雪子が黙る中、事情を知らぬ教師は語り始めた。
「まずは選考にあたり。生徒の名前を伏せて学年の教師で選考を務めた。他にも優秀な作文があったが、佐藤の作文は文字が美しく、内容が整っていた。よって校長確認の上、これを推挙した」
しかし悔しそうな女子生徒はまだ手を挙げた。
「先生。内容が整っていたとは、どういう意味ですか」
「君は私達、教師の選考に問題があると言いたいのかね」
「そういう意味ではありませんが、佐藤さんばかり」
教師は呆れたように女子生徒を見つめた。
「では。君が課題にした『方丈記』。これを言って見たまえ」
「え、それは」
机内の教科書を探す女子生徒。教師は厳しく言い放った。
「遅い!では佐藤」
「はい。『ゆく川の流れは絶えずして……』」
雪子は暗記した文をスラスラと言い出した。
素敵だと思っていた文章。自宅で毛筆で書いたくらいである。他の有名文学。さらには論語など雪子は暗唱していた。
別に無理して覚えたわけではない。頭脳は父親譲りの雪子の能力の深さ。生徒達は黙って聞いていた。
「佐藤。もういい。わかったか。彼女はこれだけ作品を読み込んでいるんだ」
まだ納得していない女子生徒。しかし教師は無視して授業を続けた。
雪子は黙って黒板を見ていた。ただ勉強したかった。
「雪子。大丈夫か」
「何が」
「教室で悶着した件だ」
生徒会室の前川。そう言って算盤で計算をした。放課後の生徒会活動。書紀の後輩がいる前、書類整理の雪子はなんでもないと答えた。
「しかしだな。お前はどんな家庭教師がついているんだ」
「いませんよ。そんな人」
「では。兄様が教えてくれるのか」
真顔の前川。雪子は微笑んだ。
「誰もいないわ。自分で教科書を睨んでいるだけよ、あ?私、職員室に行って来るわね」
用事を足してきた雪子。犬養の娘と言われるが実際は粗末な家。爪に火を灯すような貧しい暮らし。その割には品のある顔立ちの彼女。それを同級生にわかってもらえていなかった。
……でも、もうすぐ卒業だもの。
貧しさを訴えても仕方がないこと。学校は勉学の場。自分のために雪子は勉強をしていた。
こんな帰りの玄関。深雪の靴箱にはまた手紙があった。
「大人気だな」
「恥ずかしいわ」
実直な彼。バス停までの道。難しい顔で隣を歩く雪子に呟いた。
「雪子。お前には想い人がいるのか」
「そんな人、いやしないわ。今は勉強で精一杯よ」
「ではなぜそうやって突っ張るのだ。そんなに男が頼りないか」
以外な質問。白い道の一番星を見ながら雪子は答えた。
「別に。頼りないわけではないわ。それに、男か女とか。私は気にしてないの」
「どういうことだ」
「人は誰でも、役に立つ部分があると思う。それが男でも女でも。その人が得意なことをすればいいと思うんだ」
白い羽が空から落ちてくる静かな帰り道。先にある水平線、冬の白波。身を切る風。海は黒くその白羽を飲むように融かす。海沿いの工場の黒煙、港の連絡船。時折通るトラック。学校帰りの鉄の町。白いマフラーの雪子の傍。学生帽の前川は小豆色のマフラーを口元までまいていた。
「お前は男に子守をさせ、女に戦に行けというのか」
「それがその人の得意なことなら」
前川。道に積もる雪を掴んだ。それを握り遠くに飛ばした。
「お前は犬養代議士の娘だから。そんな強気なことを言うんだろうが。女は男に従っていればいい。それが女の幸せなんだぞ」
前川の熱弁。雪子はやり過ごして聞いていた。そしてバスに乗り帰宅した。
この日以来。雪子は嫌がらせされるようになった。提出されたノート。雪子のノートだけ汚される事件。その他の事件も些細であるが、執拗に続けられていた。
学校に相談した雪子。教師はクラスの女子に注意をしたと話した。
「それよりもだな。お前、本当にいいのか」
「いいんです。私、働きたいんです」
「惜しいな。お前なら内地の大学にも行けるのに」
成績がずば抜けて良い雪子。ため息の担任教師は良い人。彼女は教師に語った。
「先生。私、こう思うんです。運が揃っている人が、先を進むべきだって」
「どう言う意味だい」
進路室。雪子は窓の外の雪を見た。
「才能も、親の協力も、お金も健康もそうですね。全部揃ってないと、その先へ進めない。進んでも無理が生じると私、思うんです」
「確かにね」
「だから……それが揃っている人は、選ばれた人なんです。そう言う人は進まないといけない。断念した人の分も。進んで欲しいと思います」
「じゃいいんだな。前川を推薦するぞ」
「はい。では、私はこれで」
そして雪子は帰ろうと玄関に向かった。
……あれ。前川君だ。
なぜか。雪子の靴箱を確認している様子の彼。不思議に思った雪子は離れてみていた。
彼は手紙を入れている様子だった。そして彼が去った後、靴を確認した。
「痛い?画鋲だ」
靴の中にあった針。雪子の白い指に刺さった。赤く点が生まれた指先。彼女は頭の中が真っ白になった。
……どうして前川君が。どうして。
信じられない雪子。合唱部のコーラスが響く校舎でしばらく呆然としていた。
そして翌日の休み時間。彼女はクラス生徒のノートを一人で運んでいた。
「お。それは理科のノートか」
「うん。先生に頼まれて、研究室に運ぶの」
「手伝うよ」
やってきた優しい前川。一緒にノートを運んでくれた。
「あ、ちょっと待って。思い出したわ」
廊下の雪子。彼に自分が持つノートを預けた。そして懐から鉛筆を出し、自分のノートに何やら記した。
「ありがとう。忘れないうちに書けてよかった。私ね、このノートは大切なの」
「へえ」
再び歩き出した雪子。しみじみと説明をした。
「私。ここに理科実験の記録を書いたんだけど。先生に理科コンクールに応募しないかって言われたの」
「すごいじゃないか」
「……そうでもないわ。たまたまよ」
誰もいない理科室にノートを置いた二人。寒い冬。吐息を白くさせた二人は放課後の廊下を歩いた。前川の横顔。雪子は憂に帯びた顔で見ていた。
翌朝。前川は学校に来なかった。それは数日続いた。
「佐藤。ちょっといいか」
「はい先生」
放課後の職員室。教師は生徒会の知らせを前川の家に届けてほしいと言った。
「書紀の後輩も連れて行ってくれないか」
「これを渡せばいいんですね」
「お前にだから話すんだがな。ちょっと元気がないらしい。生徒会で一緒のお前ならきっと元気が出ると思うんだ」
「わかりました」
雪子は後輩の女子と一緒に前川の家にやってきた。大きな屋敷。声をかけると母親が顔を出した。
「まあ。女の子が来てくれたなんて。上がってくださいな」
綺麗に化粧した品の良い前川の母。雪子たちを見て嬉しそうにした。
「いいえ。私たちはお知らせを持って来ただけですから」
「そんなこと言わないで、どうぞ」
「雪子先輩。少しだけ上がって行きましょうよ」
以前から前川を慕う後輩女子。しかし。雪子は時間がないと断った。
「私は失礼します。前川君によろしくお伝えください」
家に上がった後輩女子。これを見届けた雪子は玄関を出た。ふと見上げた二階の窓。そこには前川の顔があった。目が合った二人。どこか寂しい目だった。カーテンの向こう。消えるように奥へ下がった前川。雪が降って来た道。雪子はマフラーを巻き直し、帰って行った。
翌日。密かに教師に呼ばれた雪子は息を呑んだ。
「入院?!それは、なぜ」
「……見舞いで彼に逢った生徒の話では普通の様子だったそうだが。何か悩みがあったようだ」
悪い予感。雪子の目の前は真っ暗になった。教師も頭を抱えた。
「ご家族も原因がわからず悩んでいる。佐藤。お前、何か知っているんじゃないのか」
話せない雪子。教師には励ますために見舞いに行くと話した。そんな彼女は一人、室蘭病院にやってきた。冷たい暗い廊下の先。椅子には疲れた顔の女性が座っていた。
「あ。前川君のお母さん」
「……あなたは。見舞いに来てくれたお嬢さん」
憔悴しきっている母親。制服姿の雪子に涙した。
「なぜなの……夜、暴れて……静かになったと思ったら、薬を」
「奥様。今、彼に会えますか」
「もうすぐ眠りから覚めるから。それなら」
涙の母。隣に座り励ました雪子。静かに病室の戸を開けた。
「前川君。雪子です」
「……今、何時だ」
「もうすぐ夜の七時よ」
「そうか」
ベッドの彼。白い病着。青い顔で寝ていた。口元には酸素マスク。自殺防止なのか、手を拘束されていた。
「どうして。こんなことを」
「だって。正義じゃないだろう」
「どう言う意味なの」
椅子に座った雪子。薬の匂いの薄暗い一人病室で彼の言葉を待った。
「お前に勝ちたくて。卑怯な真似をしたんだ」
「前川君は、優秀よ」
悲しくなった雪子。前川はふっと笑った。
「理科の実験。素晴らしかった……あれを盗み見て、己の愚かさを知ったよ」
罠のつもりで仕掛けた雪子。それに乗った前川。彼女のそのノートには『Is it Fun to be a thief』と英語で記しておいた。
「『泥棒をして楽しいですか?』だもんな」
実際にノートを見て、恥ずかしくなったと笑った。
「前川君、画鋲を入れたり、恋文を入れたのもあなたね。でも、私と交際する気はなかったんでしょう」
「ああ。お前を困らせたかったんだ。馬鹿だろう」
「あなたは優秀で。優しいご家族もなんでもあるのに。どうして私なんかに」
まだ信じられない雪子。枕の上の彼を見つめた。
「お前はそれがないのに……女なのに一番じゃないか。俺などはちっぽけだよ」
弱音を吐く前川。黙って聞いていた雪子はだんだん腹が立ってきた。
「確かにちっぽけね。そうやって女に負けたって拘っている以上は」
「雪子」
涙声の彼女。前川は見つめた。
「私……父親があんなだから。周りには特別扱いされてるって、言われるの。でも。そんなことない。必死に生きてるだけよ」
前川はじっと聞いていた。
「前川君は、そんな私に普通に接してくれていたから。嬉しかった。だから、私に意地悪していた人って分かった時、悲しかった」
沈黙の病室。時計の針が響いていた。
「すまなかった……謝っても、取り返しつかないけど」
泣き出した前川。雪子はこれ以上、責めるつもりはなかった。ただ、病室の外の彼の母親が気の毒だった。
「前川君……これからどうするつもり」
「さあ」
自暴自棄の様子。雪子は静かに語った。
「私。今回の話は誰にもしてない」
「……」
「待ってるから」
「……」
「今度のテストで、決着つけましょう」
それだけを話した雪子。部屋を出た。
部屋の外で待っていた母親。涙目の雪子に縋ったが、彼女は心配ないと病院を去った。
そして一ヶ月後。テストを受けに前川は登校した。
「みんな。前川は病で静養していたんだ。まだ万全じゃないので、手加減しろよ」
教師の軽口。痩せた坊主頭の前川は同級生に笑みを見せた。雪子は語らずそれを見守っていた。
「お兄ちゃん。前川君、今日から来たんだ」
「そうか。よかったな」
夕食。事後報告した雪子、兄ののん気な声にホッとしていた。
「でもね。どうして私を目の敵にしていたのか。まだよくわからないの」
「彼は長男で、後継らしいからな。俺たちとは違って、一番への重圧があったのかもな」
「大変ね。あ。哲嗣さん、どうしたの」
兄の上司の哲嗣。この夜もやってきた彼。雪子の作ったイカの煮物を食べていた。しかし、この話に真顔で箸を止めた。
「いや。その気持ちよくわかるなって」
「そう?じゃ。今夜は一番先に哲嗣さんが寝てください。そして早起きの一番も」
「おっと。雪子ちゃん。豚汁お代わり!」
「兄ちゃんも!」
「はいはい」
気兼ねのない佐藤家の夜。たくさん食べる兄とその上司。ちゃぶ台の円卓。
鍋を乗せた石炭ストーブは負けないように燃えていた。部屋に干した洗濯物。笑い声の絶えない部屋。窓の外の雪景色。静かに優しく彼らを包んでいた。
二話「右に出る者」完
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