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【2-15】鏡越しの歓迎
「……ッ、────あれ?」
階段もしくは床へ叩き付けられる衝撃を覚悟していたキリエだが、痛みは何も無い。しかし、落下した感覚はあり、温かな何かを下敷きにしているようだった。恐る恐る目を開けてすぐに目に入ったのは、白い騎士服だ。
「え、……えっ? リアム!? 僕を庇ったのですか!?」
どうやらリアムは自発的に共に落ち、キリエの身体を抱きかかえて守ってくれていたらしい。落下の衝撃をキリエの分まで全て負うことになったリアムだが、彼は平然と上体を起こし、むしろキリエの身を案じてくる。
「キリエ、怪我は無いか? どこか痛いところは?」
「え!? えっと……それは、大丈夫なんですけど……」
「すまなかった。俺がお前の後ろから上るべきだったんだ。家に戻ってくると、どうにも気が抜けて駄目だな。以後、気をつける。──本当に、痛いところは無いか?」
「……」
──リアムの敬語が、抜け落ちている。
二人の友人関係は第三者がいる場では伏せねばならないと言っていたのはリアム自身で、実際に王城では勿論、使用人たちの前でも従者らしい丁寧な言動で接してきていた。にも関わらず、今は完全に抜け落ちてしまっている。使用人たちは皆が驚愕の表情を浮かべて絶句しており、それはキリエの転落に対してだけではなく、リアムの態度の変化への反応でもあるのだろう。
キリエが口ごもっているのを誤解したらしいリアムが、ますます心配そうに顔を覗き込んできた。
「どうした? 少しでも痛いなら、すぐに医者を呼ぼう。どこだ? どこが痛い?」
「い、いいえ、本当に、痛いところはどこも無いです! そ、それは大丈夫なんですけど……」
「じゃあ、何が気にかかっている? 痛み以外の変調があるのか?」
「あの……、皆さんの視線が気になるかなぁ、と」
「皆さん? ……、……!」
ようやく己の失態に気づいたのか、リアムの顔から血の気が引く。そして、様子を見守っていたエドワードが、遠慮がちに声をかけてきた。
「あ、あのー……、キリエ様、だ、大丈夫っすか?」
「あっ、はい。僕はリアムが庇ってくれたので全然大丈夫なのですが、彼は身体を強打しているはずなので、どこか痛めているかもしれません」
「いや、俺は……、いえ、私は、」
「リアム、今さら取り繕っても無駄だと思いますよ」
珍しく動揺と混乱を見せているリアムに対し、キリエは苦笑を向ける。それに加え、エドワードも暢気な笑顔で言い放った。
「キリエ様とリアム様、めっちゃ仲良しだったんすねー!」
エドワード以外の三人の使用人たちは、キリエに怪我がないことへの安堵と、リアムの主に対する親しげな態度への戸惑いとを、複雑に絡み合わせた面持ちである。リアムは観念したように深い溜息をついた。
「お前たちに、箝口令を敷く」
◆◆◆
「それにしても、驚きました。まさかキリエ様とリアム様がお友達になっていらしたなんて!」
「驚かせてしまって、すみません。僕が無理に頼み込んだことなんです。……あ、丈はちょうどいいですね」
階段から転落した一件から三十分ほどが経過した現在、私室として宛がわれた部屋で、キリエはセシルに手伝ってもらいながら着替えをしている。先程までエドワードも傍にいたが、ジョセフから用事を言い渡されて退室して行った。
ちなみに、リアムはあの後、キリエと友人になった経緯を使用人たちに説明し、今後は友人関係はこの屋敷内のみに限ること、この友人関係は他言無用であることを念押ししていた。結果的に取り繕っていないリアムと接する時間が増えたので、キリエは内心で喜んでいる。
さて、リアムが昔着ていた礼服一式から新品同様のものをセシルに選んでもらって着てみたところ、丈は合っているが全体的にぶかぶかだ。リアムが十一歳から十二歳頃に着ていたものらしく、その年頃の彼に体格で負けているとなると少し悔しい。
「うん、とてもよくお似合いです。次は髪を整えましょうか。こちらへどうぞ」
「あっ、はい」
鏡台の前へ案内され、キリエは椅子へ座る。上質な服に着替えただけだというのに、鏡に映った姿は随分と印象が変わったように見えた。己の姿に戸惑うキリエへ鏡越しに微笑みかけながら、セシルは銀髪へ櫛を通し始める。
「綺麗な髪ですね。とっても素敵な色。少し切って整えてもいいですか?」
「はい、お願いします。僕は身だしなみがよく分からないので、セシルにお任せしたいです」
「承知いたしました。キリエ様の魅力をめいっぱいお出ししますね。……あと、無理に頼まれたからではないと思いますよ」
「えっ?」
「リアム様が、キリエ様とお友達になられた件です」
セシルは器用な鋏さばきでキリエの髪を整えつつ、優しくふわりと笑った。
「数日前にこのお屋敷を発たれたときと、今日お戻りになったときとでは、リアム様の顔つきが全然違いました。キリエ様との出会いが嬉しかったんだと思います。あんなに明るい表情のリアム様を見たのは、初めてかもしれません」
「……リアムは、ずっと元気が無かったのですか?」
キリエの問いかけを受け、セシルの笑顔に若干の翳りが落ちる。愛らしいメイドにしか見えない彼の表情に、わずかではあるが年長者らしい雰囲気が混ざった。
「我々使用人は、ジョセフさん以外は皆、サリバン家が没落してから拾っていただいた身です。リアム様は、ボクたちに対してもとても優しくて、あたたかくて、人前では気丈に振る舞う方でした。でも、その笑顔はいつもどこか寂しげで、孤独で、憂いを帯びていたんです」
「彼は、とても大変な経験をしてきているんですよね……、無理もありません」
遠方での任務を終えて帰宅したら、母親が父親に殺害された後だった。更に、その罪を問われて爵位を取り上げられた父親は何者かに粛清され、没落貴族の末裔という烙印を押されたリアムは生家も父の領土も取り上げられ、後ろ指をさされながら王都の隅でひっそりと生活している。なかなかに壮絶な人生だ。
セシルはひとつ頷き、鏡の中のキリエをじっと見つめてきた。
「あの御方は、守りたかったものを全て奪われて、独りぼっちでゼロからこのサリバン邸を作り上げました。遺された資産も多少はあるとのことですが、一般的な貴族に比べたら微々たるものでしょう。名誉称号持ち騎士ですし、リアム様ご自身が罪を犯されたわけではないので、王国騎士団を除名にはなっていらっしゃいませんが……、だからこそ、かなり肩身が狭い思いをされていたみたいで。お役目が無いときには、このお屋敷内で静かにお過ごしになるばかり。ボクたちに空元気は見せてくださっても、力を抜いた心からの笑顔は拝見したことがなかったんです」
「そうだったのですか……」
「はい。だから、ボクたちはみんな驚いたんです。キリエ様と一緒にお戻りになったリアム様が、とても生き生きとしていらしたから。エドがいつも以上にはしゃいでいたのも、あんなに自然で明るい表情のリアム様を見ることが出来たからなんですよ」
銀髪を丁寧に整えたセシルは鋏を置き、キリエの両肩へ男にしては小さな手のひらを乗せてくる。温かな気持ちが込められている手だ。
「ありがとうございます、キリエ様。リアム様を側近に選んでくださって、そして、お友達になってくださって。心からの感謝と敬意と、歓迎の気持ちを捧げます」
深々と頭を下げてくるセシルへ、キリエも鏡越しに一礼で応える。そして、涙腺が緩みそうになるのを、必死でこらえた。
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