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「そりゃあ、今のおめぇさんは、もう久喜萬字屋の『玉ノ緒』じゃねえからよ」
茶汲み女に茶を所望すると、兵馬は一番奥の小上がりまで歩み、雪駄を脱ぎながら云った。
「すっかり嫁ぎ先の……淡路屋の『若女将』になっちまったな」
すでに小上がりに座していた玉ノ緒——おゆふが、ふふふ…と微笑んだ。
「ええ、おかげさんで」
其れは見世にいた頃の、艶を含んではいるが徒花のごとき何処か虚ろな笑みではなかった。
地に足をつけた仕合わせを手にした者だけができる、穏やかで満ち足りた笑みであった。
「されども、わっちなぞ、まだまだでありんす。お廓の物云いですら抜けずじまいなんし」
だが、淡路屋の若旦那である亭主からはもちろん、舅や姑そしてお店の者たちからですら、無理に町家言葉になおすことはないと云われていた。
淡路屋でのおゆふは、まさに上の物を下へも置かぬ扱いであった。
「今は……お店の仔細を覚えるよりも、この子を産むことが『勤め』と、皆から云われとりんす。
わっちも、この子が無事に生まれてきなんしを、ただひたすら願っとりんす」
おゆふは、まだほとんど膨らみのない我が胎を愛おしげに撫でた。
「そうか……そいつぁ、目出度ぇな」
特に、歳晩くなってから跡取り息子をもうけた淡路屋の主人にとっては、こないに早く孫の顔を見られようとは思いもよらぬことであろう。
きっと、この世の春に違いない。
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