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「……松波様」
ある夜、家人が寝静まった佐久間の御家に、人目を忍んで下っ引きの与太がやってきた。
家業の鳶だけでなく岡っ引きもしていた今は亡き祖父・辰吉が、与太にとっての憧れだ。
なので、鳶の修行に励みつつも合間に祖父の「手下」であった伊作を見習いがてら手伝っていた。
だが、与太の父親は岡っ引きを厭がって、家業に専念していた。
それには訳がある。
町家の衆である岡っ引きや下っ引きは、武家の者たちから成る奉行所に雇われているわけではない。
しかも、なにか厄介ごとが起きた際に呼び出されるだけで、しょっちゅう御用があるわけではない。
ゆえに、給金は仕えている武家の者——たいていは貧乏所帯の同心——からの心付け程度で、雀の涙であった。
とてもとても、それだけでは暮らしを立ててはいけない。
それに、なにも岡っ引きなどせずとも、建物の足場を組む家業の鳶は、雨の日は休みになるなど年がら年中あくせく働かなくていいのに身入りが良かった。
にもかかわらず、与太は下っ引きになった。
そして、いずれは祖父のごとき岡っ引きになりたいと思っている。
実は、岡っ引きにとって鳶は格好の仕事だった。
高所に渡された板をひょいひょいと渡らねばならぬため、身軽でないと務まらない。
町では火消しの役目も担わされているから、夜の火事の折には夜目が利かないと命取りになる。
此度の御用のような、真っ暗闇の中で人知れず武家の組屋敷に忍び込む術を身につけるには打ってつけなのだ。
翻って「親分」の伊作の方はと云うと、女房が小間物屋をして暮らしを立てている「髪結いの亭主」であった。
当然のことながら、もともと身軽でもなければ夜目が利くわけでもなかった。
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