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気がつけば降りるべき会社の最寄駅を通り過ぎていた。
直江 慧 26歳。
恐らくもう二度とこの駅では降りられない、ゆとりだのなんだの嘯かれ、有りもしない妄想に窮屈を感じた時、思い出したのは沖瀬と、かつての彼女の言葉だった。
「……………お兄さん」
「……………あ、はい」
「見過ぎ」
「え?」
「見過ぎ」
なにも考えていなかったのに、彼女には自分をガン見していると取られたらしい。声をかけられてはたと気付いた。目の前に、女子高生がいた。背中まで伸びた黒髪に前髪も目の上で切り揃えられている。猫目で、開いた窓からの風を受けちらりと覗いた眉は、気の強そうな凛々しさがあった。
片や此方は口も半開きだったはずだ。最寄り駅に着くたび帰りたくて仕方がなく、目が覚めた時から家にいるのに帰宅を願い、休日は明日を思って気が気でない。そんな日を手離す。全部手放してしまったら、あまりの軽さに意識ごと空に飛んでいた。
勿論、比喩だ。
「暇してる?」
「え?」
「暇してる?」
暇じゃない。暇じゃなかった。これから仕事だ。あ、いや。もう仕事には行かなくていいんだ。いや、行かないんだ。俺は、逃げる。逃げてしまう。後退。停止。背を向ける。それを、誰かがいつからか逃亡と呼び、それだけは絶対にしてはいけないことだと、自分たちを律して雁字搦めにした。取るに足らない自然の摂理で。
正当を振りかざした時、そこに相反するものを人は悪と呼ぶ。実際、そんな物はどこにも存在していないと祖父から教わった。それぞれがそれぞれの正義を振り翳している。但し、人を傷つけたり、驕ったり、力で制圧しようとしている時を除いてだ。そんな話を小学三年生の頃に懇々と語られ、今でも鬱血した正座を解いた時の足の青さと、損なわれた夏休みの自由を思って涙が出そうになる。
「女後輩に寝取られて困っちゃってそのまま就活して受かったけどパワハラ凄くて仕事サボっちゃったどうしようって顔してる」
「………え」
「あたり?」
心が読めるんだ、と言った。
そんなことは、あるはずがないと知った。
組んだ足を解いて少し笑ったセーラー服の彼女は、二人しかいない車両に何故か俺の向かいで、口の端だけを持ち上げる。そして歯を見せた。
越野由環の記録を録ろう。
そう、気がついた時にはスマートフォンの録画ボタンを押していた。
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