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「足を地べたにつけて走る時、何故人間は二本の足しか使わないのかな」
「人間は直立二足歩行だからだ」
「そうかな。実はこの手も退化しただけで、人は四つ足で走った方が早いかもしれない。進化と呼んだね。随分聞こえのいいフレーズだけど実際は、偏に進化と呼びきれない。私たちは退化と、その真ん中に位置していて簡単に前進と呼ぶべきじゃない」
「突然哲学的な話になってきたな」
「高度な小説を読みたい人間は低下層に見向きもしない、良し悪しを知っているから。感情だけじゃ補えないことが世の中にはたくさんある」
「ふーん」
「直江さんもそうでしょ?」
動画越しに目が合う。目だけを彼女に向ければ、含んだ笑み。
小説家は、何かから逃げ出した者たちの吹き溜まりだと聞いた。
かつて。写真に没頭し、秋月 頼に全てを曝け出し、そしてその全てが壊れた日、とち狂ったように物事の真髄を貫いてきた写真、そのフィルター越しに何も見えなくなってしまった。自分は何かを捉えようとしていた。何かを捉えようともがいて来た。この結果がこれだ。正しいとは言わない。自分が愚かだ。傷付いているのは自分ばかりだと逃げ、抽象的な理想でレンズ越しの偶像に身を委ねていた。その頃、もう何も手につかなくなった頃、心を形にするべく何もない紙に文字を書いた。小説なんて書いたことがない。正しさも理想も捉えられないまま、それでも原稿用紙40枚ほどに文字を書き連ねて、引き出しの奥に眠っている。
どこにも明かさない自分だと思う。あの物語は、お蔵入りなのだ。
有名な文学賞を受賞する誰かの多くは、何を望んで何を描いているのだろう。偶像、理想、投影、付随。何と何を奏して末尾を結ぶのか、よくわからないでいる。わかったのは自分には向いていない、それだけだ。
写真を辞めてから、何かに縋りたいと思って現実を見据えたらこれだ。
「意外と簡単かもよ、本質的なところは」
「もう、写真は撮りたくない。俺は自分が何をしたかったのか、もうわからなくなった。それで郷愁に耽って、会社サボって、今女子高生の動画回してんの、喋ったら全部自慰行為っぽいし、犯罪者予備軍ついでにわるいことしてやろうかな」
「いいんじゃない? 付き合うよ」
「しないよ、度胸ないから」
「ないんだ、度胸」
「うん」
「度胸、妥協したんだ」
「なんだよそれ」
500㎖のお茶の蓋を片手で開き、一口含む。それを真似するように越野由環も炭酸のペットボトルの蓋を開き、一口含んだ。
夏に、しゅわしゅわと、炭酸の泡が鳴る。
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