遷川の日和

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遷川の日和

 日が照っていたり。雪が降っていたり。こんな山道や水の上ですら、人々は知恵を駆使して生きてきた。風は今日、感心してしまった。この少女に名前をつけられて、人の形をとった風は、(かね)てより疑問を抱いていたあらゆる環境においての人の生活について知りたいと彼女に申し立てた。彼女は、ではいろんな所へ行こうと風を引っ張った。今日、というには人には永く、春夏秋冬を繰り返して北から南へ、東へ西へとゆくにつれ、少女は娘になり、大人になり、少し皺も重ねて、そのぶん役所の男などよりよっぽど逞しく成長した。風は人になっても同じ速さで走ることが出来たから、彼女は必要に応じて馬を駆る。それでもついて行くのが大変そうなときがあるのに、彼女はただからからと、突風の速度を面白がって笑った。  あなたといると何もかもが(はや)い。世界がきらきらして見えるし、こんなに面白いことはない。  そんなふうにいつしか言っていたけれど、流浪を続ける彼女はもうとっくに世間というものから外れたところにいたはずだった。  それは、風に於いても同じこと。 「なあ風。私も風になるにはどうしたらいい?」  あるとき彼女がきいた。風は少し悩んで、「お前はいつも吹かれているけれども、風とはのせるものだよ」と答えた。 「なるほど。圧倒される側ではなく、圧倒する側でなければならないのだな」 「…そういうことかもしれないな」  風には心当たりがあった。ときどき、はっとするのだ。雨風をしのぐ家屋のつくり。水上をゆく船。火を起こすのに必要な摩擦。人の知恵にはたびたび圧倒され、そしてそういうとき、なんだか自分が消えてしまいそうな感覚がした。だからいまもそうなのだ、と思う。ここ最近はずっと、彼女の傍でそんな感覚でいる。  もう長くないのだと知っていた。風は人の姿でいて、いつでも風に戻れたはずだった。しかし今この形をやめてしまうと、もう吹かれてしまうのだということ、ひしと感じている。人は別離のときに挨拶をする。風も何か挨拶をしたかった。彼女に、なにか言っておきたいこと、さいごに聞いておきたいこと、沢山あるような気がしていた。そしてそれを言えるのは今このときなのかもしれないとも思った。  風は言った。 「けれど吹く者と吹く者がぶつかると雲ができて雨を降らす」 「だから、私たちの通った後は雨が多いんだと以前に言っていたね。風は何かに圧倒されている瞬間があるということ?」 「そうなる」 「なんだろうな」彼女は想像して、楽しそうだ。「それにしても、そしたら風は風というより雨降らしだ」 「………」  彼女の言うことも最もだった。風とは吹かれたら消えて別のものになってしまう。雲になるか、息になるか、空になるか、木になるか、それはわからないけれど、とにかく風ではなくなった。風は今まで彼女とみた景色を思い起こして、小さな祠が思い浮かんで、だけどしんみりはせずに冗談めかして言葉を返す。「そうしたら、雨の神として人々に祀ってもらうさ」彼女は、笑ってくれた。「風神の祠は空き家になってしまうな」…と。  私に形を与えたのはなんなのだろう、と考える。風とは人ほど形らしい形がない。からだを示す線もなければ個体を表す標もない。風が風だと自覚したのは、ひとえに意思のある生命たちが風を望んだためではなかろうか。たとえばそう、神と呼んだりして。  風はどうにも覚束ない気持ちになってきた。「(れい)」 「どうした?」 「名前を呼んで、」 彼女はふふ、と笑う。「溪川(けいせん)」続けて、「なんだか気恥ずかしい。滅多に呼ばないからだろうか」  もっと呼んでくれて良かったのに、と言ってしまいたいのは情けなく思った。代わりになる言葉を探して「人はなぜ、」と切り出したけれど、その先に続く疑問が孕む思いにも恥じてやめることにした。「いや、いい」  人はなぜ神をつくるのか、なんて、それこそ自分が存在する事実を覆すような問いをなぜ問うのだ。風でなければ溪川と呼ばれることもなかったろう。彼女が不思議そうに目の黒いところを丸くするのを、こんなに愛しく思うこともなかったろうに。  吹かれれば形を亡くしてしまう。風はいちど、いっそその想いすらなかったらと願ったのだ。 (20160607)
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