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二十九の朝
世の中の悪意や不条理から逃げてきた。
私はずいぶん傷つきながら街道を駆けていて、追い込まれるようにして一つの倉庫のようなところに入った。シャッターらしきものはなく、巨大なカーテンを引いたのが心許無くて、しばらく息を潜めながら街ゆく人の影に怯えていた。誰にも見つかりたくなかったから。みんなきらい。
倉庫の中は坂になっていて、登るのが一苦労だった。ひとつ踊り場があって右手に再び坂がある。すべてコンクリートで、その先には何もない。しかし、ボールとか何かのシートとか、玩具の大きな虫とかそういったものが散り散りに置かれていて、それらの存在は私を苛んだ。私は、ここが私の心の一番最奥で、悪夢の詰め込まれている場所なのだと確信していた。
ずっと逃げてきたから。悪夢の形も手触りも何も見ずに生きてきたから、もう何もかもがこわいのだと。
向き合う時が来たのなら、壊さなければ。私は手当たり次第にそれらを壊すことにした。ボールを潰したり、虫の模型を千切ったり、それらはもちろん呆気ない。けれど、ひどく恐ろしく痛かった。まるで自分自身を傷つけているかのような悲痛に泣いていた。
でもこれで、もう怖くない。坂の一番端まで登って、何もかもを蹴落として息をつく。ふいに振り返ると、行き止まりだと思っていた場所に扉があって、その先には穏やかな異世界が見えた。土の道が黄金の太陽に照らされた美しい植物に囲まれてずっと続いている。空は晴れ渡って、優しいブルーがまた光の中に滲んでいた。
こうして向こうにまだ続きがあることは救いに思われた。あちらに移住してしまってもいいのだと思いながら、けれど私は元の道を戻っていた。いつのまにか締め切ったカーテンが開いていて、だれか気の置けない人物が壊されたものたちを見回して顔を顰めるのを、なんでもなかったんだよと言い訳しながら街へ戻るそのことを。
ぼんやり思い返していた二十九の朝。
(20220507 公開)
(20230424 改稿)
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