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第5話 黒い海 後編
坂城は肩で呼吸をしながら、二人でいた場所に辿り着いた。
そこに中嶋の姿はなく、彼女のトートバッグが置かれているだけだった。
坂城は、焦りながら周囲に目を配る。すると、まるで見計らったかのように、スマートフォンの通知音が立て続けに鳴った。
液晶画面に表示されていたのは、全て中嶋からのラインメッセージだった。
『今までほんとにありがとう』
『もう迷惑かけたくないから、わたし一人で帰るね』
『楽しかったよ、バイバイ』
坂城は、スマートフォンを強く握り締めた。
「あの馬鹿」
すぐに返信の文章を打ち込む。だが中嶋からは、一向に既読にならなかった。ラインの音声通話も試みたが、全く繋がらない。
あらためて、浜辺を注意深く見渡す。
星明かりしかない闇夜の中で、彼女の姿を探し出すのは、至難の業のように思えた。まさか最初からそのつもりで、全身黒色の服を着てきたというのだろうか。
このままでは埒が明かない。坂城は、スマートフォンの懐中電灯ボタンをタップした。
広大な湘南海岸を照らすにはあまりに非力で、無駄だとも感じていたが、これしか方法が思い付かなかった。
フラッシュライトが点灯して、地面に鎮座したトートバッグの、台形のフォルムが浮き彫りになる。自然と視線を落とすと、人型に窪んだ砂場のすぐ脇から、見覚えがあるサンダルの足跡が、点々と続いていることに気付く。
なぜ見落としていたのだろう。あまりの間抜けぶりに、自分自身を殴りたい気持ちになった。
その足跡の行方を見据えると、江の島大橋の方角へとしばらく進んだ後に、波打ち際へと折れて、白い泡にまみれて消滅していた。
坂城は、海面を掻き分けて走り込んだ。膝まで浸かりながら、必死に目を凝らす。
遥か遠方に浮かぶ、巨大な島影。
そこから夜空へ突き立った逆円錐型の展望灯台、江の島シーキャンドルが煌々とライトアップされている。その光に吸い寄せられるかのように、波に腰まで洗われながらも佇んでいる、小柄な後ろ姿があった。
「中嶋!」
坂城の叫び声に、彼女はびくりと肩を震わせる。
恐る恐る正面を振り返った中嶋は、両手で大切そうにスマートフォンを包み込んでいた。
「アキ、ごめん」
申し訳無さそうに頭を垂れる、中嶋。だが彼女の目線は、スマートフォンのモニターに注がれている。
その意図がわからない態度に、坂城は苛立ちが募るようだった。
「もういいから。一緒に帰るぞ」
感情を抑えて、そう呼び掛ける。
だが中嶋は、瞳を潤ませながら拒んだ。
「迷惑になるから、帰れないよ」
「今さらなにを言っているんだよ」
その時、坂城のスマートフォンからライン通知の音がした。とても見ている状況ではない。
無視を決め込んで、彼女に詰め寄る。
「アキ、ライン着信してる」
「今はそれどころじゃないだろ」
「いいから。見てよ」
坂城は、渋々とスマートフォンをポケットから取り出した。防水性ではないため、海に落とさないよう慎重に操作をする。
ラインの通知は一件、送信者は中嶋だった。
「ごめんね」
トーク画面を開くのとほぼ同時に、中嶋はそう零した。
彼女からのラインメッセージはやはり短くて、たったの一行だけだった。
『わたしコロナ感染者なんだ』
坂城は、中嶋の顔を見返した。
彼女の目には、溢れそうなほどに水滴が溜まっている。
「なんで……?」
坂城は、そう声を絞り出すのが精一杯だった。
「ごめん」
「いや、ごめんじゃなくて」
一体、なにから口にすればいいだろう。思考が追いつかず、こんがらがっているようだった。
「PCR検査は、受けたのか?」
そう訊ねると、中嶋は首を振って否定した。
「だったら、感染しているかわからないだろ」
「わかるよ」
強い口調で答える、中嶋。
「だって私、集団感染が発生した場所にいたから」
中嶋が挙げた店名と情報に、坂城は聞き覚えがあった。
数日前にニュースで報道されていた、新宿歌舞伎町のホストクラブだ。たしか感染者数は、十人を超えていたはずだった。
「なんでそんな場所に行ったんだ、馬鹿」
感情的な言葉が、口を衝いて出てしまう。懸命に、動揺を押し隠そうとした。
「不安だったから」
中嶋は両腕で、自身の華奢な体を掻き抱いた。
「先行きが見えない未来が、怖かったから。次々と広告デザインの案件がキャンセルになって、悩みを打ち明けていた彼とは音信不通になって、友達と会って相談しようにも自粛で叶わなくて。それに、アキだって……そして気が付いたら、家に帰りたくない時に遊んでいたホストクラブで、不安を解消していたの」
波が寄せては返すたびに、冷ややかな水流が股下を通過する。
中嶋は寒気を堪えるように、さらに腕に力を入れた。
「あの日から、ずっとなんだ。体温は三十七度を上回っていて、意識がぼーっとして、気力がまるで沸かないの。味覚も嗅覚も、もうほとんどしなくて。絶対に、絶対に感染してるよ」
体温。そのキーワードを耳にして、ふと心に引っ掛かるものがあった。
昼食の店を急遽変更した、中嶋。
もしかすると、当初の予定だったファミレスで、感染症対策の検温が実施されていたのではないだろうか。先に到着した彼女はそれを知ったからこそ、代わりに衛生意識が低いフードコートへ移動したんだ。
一つの気付きを引き金に、中嶋の不審な行動が思い起こされる。
ポロの車内で嗅いだ、濃厚な薔薇の香水。
彼女に匂いの強さを指摘すると、さらに全身にふりかけようとしていた。
あの理由も、新型コロナウィルスの症状で、中嶋の嗅覚が鈍っていたせいだと考えれば、納得がいくようだった。さらに言えば、彼女が無気力な言動を繰り返していたのも、恐らくは……
だが正直にそう告げるのは、あまりに冷酷だった。思案するように、舌で唇を舐める。
「でも、夏風邪かインフルエンザかもしれないだろ。検査しに行ってみろよ」
坂城の提案は、彼女の一笑に付された。
「無駄だよ」
「どうして」
「検査して、どうなるの? もし陽性だったら、私の職場は間違いなく営業停止になる。ただでさえ困窮している同僚を、さらに追い詰めてしまう。それに感染経路が発覚したら……こんな状況下にホストクラブへ通っていたなんて、そんなことがみんなにバレたら、もう生きていけないよ。こんなこと、誰にも話せない。誰にも」
言葉の最後は、低い海鳴りの音にかき消されて不明瞭だった。
坂城は、ため息交じりに呟いた。
「だから、俺だったのか」
中嶋は表情を隠すように、両手で顔を覆って叫んだ。
「そう言ったじゃない! こんなこと、アキにしか頼めないって……」
昼間のフードコートでそう頼られて、素直に承諾した自分の浅はかさを呪う。
彼女の話を、額面通りに受け取るのなら――信頼感や付き合いの長さ、わがままを聞き入れてくれそうな相手を選んだのだろう。だがそれならば、椎名や瀬戸に声をかけてもよかったはずだ。
そうしなかったのは、中嶋自身が感染したであろう新型コロナウィルスのせいで、彼らの仕事や子供、家庭をも壊してしまう恐れがあるからだ。それに対して、自分に白羽の矢が立った理由は、もはや明らかだった。
独身、三十路、自宅待機中のフリーター、実家住まいの車持ち。
つまりは、都合の良い相手だったのだろう。
「それに私が、本当に陽性だったら」
しゃくり上げるような呼吸が、途切れ途切れに聞こえる。
「本当に陽性だったら、そのまま医療施設に収容されるんでしょう。完全に隔離されて、面会も禁止されて、最悪死ぬかもしれない。そうなったらもう、誰かと喋ることも、こうして海に来ることさえも叶わなくなる。だからその前に、最後ぐらいは好きなことをやりたかったんだ。そのせいでアキには、本当に悪いことをしたと思う」
中嶋は、坂城から逃れるように、さらに沖の方へ後ずさりをする。
水面はすでに、彼女の腹部にまで達していた。
「まだ今なら、アキは感染していないかもしれない。だから、一人で帰ってよ。もうこれ以上、迷惑をかけられないよ」
「そんなの、今さらだろ」
一日中、ずっと二人でいたことを考えれば、今別れたところで大差はないように思えた。
坂城はさらに一歩踏み出して、彼女との距離を縮めようとする。
「違うよ」
強く拒絶する、中嶋。
「この場所に来るまでは、みんな感染してもいいって思っていた。私だけこんな目に遭うなんて、ずるいって。一人ぼっちなのは、嫌だって。でも、全然違った。やっぱり無理だよ、ここまで優しく付き合ってくれたアキには、うつしたくない」
中嶋はそう言い切ると、頑なに顔を両手で塞いだまま、さらに俯いた。
水中に身を浸して、着衣で濡れそぼった彼女。その光景はまるで、洗礼式のようでもあり、深い懺悔のようにも感じられた。
いつの間にか、吹き付けていた潮風は弱まっていた。
凪いだように、相模湾全体が穏やかになっている。
「平気だから、一緒に帰ろう」
坂城は、努めて平静を装った。
今は何よりも、彼女を思い留まらせて、連れて帰ることが最優先だ。
「俺は気にしてないから」
「……本当に?」
顔を覆った指の隙間から、中嶋は様子を窺っている。坂城は、できるだけ落ち着いた口調で声をかけた。
「ああ、大丈夫だよ」
「怒ってないの?」
「怒ってないよ」
「本当に怒ってない?」
「だから大丈夫だって」
「どうして?」
「え?」
一瞬、返答に詰まった。
「どうして怒らないの!」
中嶋は、両腕を海面へ振り下ろした。水飛沫が、辺りに飛散する。
「ここまで私にいいようにされて、気にしてないはずがないよ。いつもそうだ、アキは困ると自分の意見を全部引っ込めて、当たり障りのない言葉を並べてさあ。そのせいでなにを考えているのか、わからないんだよ!」
掠れた声で叫ぶ、中嶋。
露わになった彼女の双眸からは、大粒の涙が溢れ落ちていた。
「私がこんなに曝け出しているんだから、アキも本心を教えて。ねえ、私とアキの関係だって、言ってくれたでしょう。お願いだから……」
坂城は圧倒されたように、立ち尽くしていた。
彼女に見入って、瞬きすらできない。頭の芯が痺れて、思うように言葉が出てこなかった。
しばらくして、金縛りが解けたかのように、乾いた唇を動かす。
「俺は、優しくなんかないよ」
彼女から視線を切って、海に滲んだ陸の灯火を、ただ一点を見据える。
「本当はただ、気が弱いだけだ。今日の江の島も、親切心なんかじゃなくて、お前の強引さに流されたんだ。正直、面倒くさいとさえ思っていた。でもその気持ちを、表に出すと衝突してしまうから、ただ飲み込んで我慢する。それがなぜか、周りからは優しいように見えているだけなんだ」
坂城は、胸の奥でなにかが揺らいでいるのを自覚していた。
恐らくそれは、今まで抑圧し続けてきたいくつもの感情だろう。
「俺が怒らないのは、人と衝突するのが怖いからだよ。昔、四人で江の島に来た時だってそうだ。本当は、椎名と瀬戸が親しく話しているだけで、胸が張り裂けそうだった。でも、なにも言えなかった。本音を飲み込んで、楽な方へ逃げる癖がついていたから。そのせいで、未だに人間関係を精算できずに、楽なフリーターをやりながら、ずっと、ずっと逃げ続けているんだ」
椎名と瀬戸、そしてタカの姿が脳裏をよぎる。
今日の出来事は、これまでの罰なのだろう。
真摯に向き合わずに、目を逸らしてきた、自分自身への。
「俺がずっと、お前と連絡を取っていたのだってそうだ――先細りになっていくだけの人生で、対等に付き合える相手が希少だったから。それに、大学時代の繋がりや想い出を、完全に絶ちたくなかった。だから面倒だと思っていても、見せかけの関係を保っていた。そのために、お前をキープしていたんだ。そんな卑怯な俺に、お前を怒る資格なんて、ないんだよ」
坂城は拳を握り締めて、項垂れた。
もう、何もかもが終わりだと思った。
彼女とのことも、四人でのことも、すべて。
後悔が、さざ波のように押し寄せる。眼前にはただ、暗澹とした海が広がっているだけだった。
その狭窄した視界の外から、微かに水が跳ねる音がした。いくつかの波紋が近づいて、徐々に大きくなっていく。
気が付くと坂城は、中嶋に抱きしめられていた。後頭部にそっと、柔らかな手を添えられる。鼻孔を、彼女の匂いがくすぐった。
はっとして、中嶋が腕を解く。
「ごめん」
再び離れようとする中嶋を、坂城は強く抱き留めた。
驚いたように、腕の中で彼女が藻掻く。
「ダメ、うつしちゃう」
「いいよ」
中嶋の顔を、至近距離から見つめ返す。彼女の瞳は淡く潤んで、長い睫毛からは雫が滴り落ちていた。
ふっと、彼女の肩から力が抜ける。
彼女の熱が、背中に回るのを感じた。濡れて張り付いた衣服越しに、二人の肌が密着する。
温かな吐息が、耳の奥に届いた。
「アキは優しいよ」
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