オヤスミナサイ

1/1
7人が本棚に入れています
本棚に追加
/1ページ
 もう、三か月くらい前になりますか。  当時、私は酷い不眠症に悩まされていたんです。原因ですか?さあ、はっきりしたことは分かりません。もともと不眠症に、はっきりした原因ってあるんですかね?これと言った原因もなく、とにかく寝ようとしてベッドに入っても眠れない。いつまでたっても頭が冴えて、あれこれ考えたり悩んだりしたまま、どんどん時間ばかりが過ぎていく。明日も朝早いのにどうしよう、そんなことばかり考えて気ばかり焦って、それでも全然眠れない。そのままぼうっとしたまま朝を迎えてしまう。要はそういう状態が毎日繰り返されて行くわけで、はっきりした原因なんて誰にもわからないんじゃないでしょうか。  確かに、その頃は仕事が多忙を極めてたし、ストレスの溜まる毎日だったのは事実です。でも、そういう状況は、もっと前から有ったように思います。もしストレスが原因なら、もっと前から発症してもおかしくないんじゃないでしょうか。それとも、あれですかね、花粉症にバケツ理論ってありますでしょ?アレルギー反応が少しずつ蓄積されていって、一定のレベルに達した段階で発症するってやつ。不眠症もアレルギーの一種なんでしょうか。  医者に相談して、睡眠導入剤とかも試してみたんですが、効果は有りませんでした。とにかく、そのころの私は、一応早めにベッドには入るんですが、眠れないまま悶々と何時間もベッドの中で寝返りを打ち続ける、といった毎日だったんです。  そんなある晩のことです。もう夜中の12時も過ぎた頃でしょうか。私がいつものように眠れぬままに、ベッドの中で悶々としていると、突然、固定電話が鳴り始めました。 (こんな時間に誰だ?)  さすがに非常識な時間でもあり、ちょっとびっくりしました。家族に何かあったのか?急に不安な気持ちになった私は、とにかくそのままにも出来ないので、電話に手を延ばしました。  ディスプレイには知らない番号が表示されています。私の家族や知人は名前で登録済みなので、とにかく初めて受ける番号のようです。迂闊に出ないほうがいいのか。私が逡巡している間も、相変わらず電話は鳴り続けています。とりあえず出てしまえ。非常識な時間にいたずら電話をしてきたんだったら、一言文句を言って、あとは着拒すればいい。そう思った私は、緊張しながら電話に出てみました。 「……もしもし」  私が応えると、少し間をおいて、受話器から優しい女性の声が聞こえてきました。 「おやすみなさい」  それだけ言うと、電話は切れました。 (なんだ?いまの)  無音になった受話器を握りしめて、暫し呆然とする私の耳に、今の相手の声が妙に残っていました。とても穏やかで、優しく滑らかな女性の声。頭の中で何度も反芻されるその声を内側から聞いているうちに、私の心は妙に落ち着いて、癒された気分になってきます。  そして、急激に眠気を催してきたのです。電話を取ってから、ものの数分もしないうちに、私はベッドに戻り、安らかな寝息を立て始めました。  その翌朝の目覚めは、本当に素晴らしいものでした。十分な睡眠をとれたお陰で、何だか自分が別人に生まれ変わったような爽快な気分で、一日をスタートさせることが出来ました。本当にその日は一日、何をやっても上手く行って、全てが気分よく、充実した一日を過ごすことが出来たのです。  そんな一日も終わって、さて、寝ようとベッドに入ったのですが……やはり、不眠症は私を見逃してはくれませんでした。結局、その前の夜のように、目が冴えてしまって、私はベッドの中で悶々とし始めました。そして、そのまま最悪の気分で、翌朝の目覚めを迎えたわけです。それからは、またあの憂鬱でつらい日々が始まりました。  そんなある日のこと、いつものように、とりあえずベッドに入って寝返りを打っていると、真夜中過ぎに電話が鳴りました。なんだ、こんな時間に、と思った瞬間、私は思い出していました。丁度、あの優しい声で「おやすみなさい」という電話がかかってきたのも、このくらいの時間だったような……妙な期待感に胸を躍らせながら、おそるおそる電話に出てみました。 「……もしもし」 「おやすみなさい」  やはり、あの時と同じ声でした。とても穏やかで、優しい感じの美声。そのたった一言を聴いた瞬間に、私の心は穏やかに落ち着きました。脳細胞が次々に閉店モードに入り始め、あの時と同じように、私はすぐにベッドに戻り、あっという間に快適な眠りに落ちていきました。そして、勿論、翌朝の目覚めも素晴らしいものでした。私は、またもや別人のような快活さで、仕事に出かけていきました。  ですが、ご想像のとおり、またもやあの眠れない夜が続いていったわけです。束の間の快適な睡眠も一晩しか続かず、あとはまた明け方までベッドの中で寝返りばかり打っている、あの憂鬱な毎日に戻ってしまいました。  何とかして、あの快適な睡眠、快適な目覚めを毎日味わいたい。毎日ぐっすり眠れるようになりたい。もう一度、いや、毎晩、あの声に癒されたい。あの声で「おやすみなさい」を言って欲しい。もう気が狂いそうでした。  私の強い願望は、当然のごとく、一つの結論に行きつきます。今までの二回の着信履歴は、ちゃんと電話に残っていました。ごく当たり前のように、電話番号と履歴が残っているのです。なんで、試してみなかったんだろう……何故、今まで気が付かなかったのか、自分でも不思議なくらいですが、とにかくその番号にかけなおしてみようと思いました。  そして、ある夜中、いつもかかってくるのと同じような時刻になるのを待って、私は、この電話番号にかけてみました。こっちからこんな時間に電話するのは、さすがに非常識かな……そもそもどんな人なんだろう……あの優しい声しか自分は知らない……相手が出たら、何て言えばいいのだろう……緊張が高まるなか、突然受話器から声が飛び出し、私は一瞬どきりとしました。 「おかけになった電話番号は、現在使われておりません。番号をお確かめのうえ……」  あの定型的な自動音声が流れ始めたのです。確かにそれも女性の声ですが、当然ながら以前聞いたのとは、似ても似つかぬものでした。そもそも、使われていないなんて……履歴の残った番号にそのままリダイヤルしているので、私が番号を押し間違えてる可能性もありません。私は途方に暮れてしまいました。  それから、また三日ほど眠れない夜が続いた後、もう不眠による私のストレスは限界に達していました。とにかく、あの声が聞きたい。もうおかしくなりそうになっていた私は、とにかくもう一度、あの番号にリダイヤルしてみました。 「おかけになった電話番号は、現在使われておりません。番号をお確かめのうえ……」  当然の如く、同じ自動音声が流れます。でも、どうしても彼女の声が聞きたかった私は、受話器に向かって怒鳴り始めていました。 「お願いだから、”おやすみなさい”って言ってくれよ!あんた聞いてるんだろ!そこにいるんだろ!頼むよ!”おやすみなさい”って言ってくれよ!あれ聞かないと寝られねえんだよお!」  勿論、自分でも馬鹿げた行為だということは、よくわかっていましたが、何か言わなければいられなかったのです。ひとしきり喚いたあとに、ふと気が付くと、いつのまにか電話は切れていました。先方が先に切った場合の、ツーツーという音も聴こえません。完全に無音になっていた受話器を、私は投げ出すように戻しました。  ところが、その時私の耳に、あの優しい声が聞こえて来たんです。 「……オヤスミナサイ」  それこそ耳を疑いました。あの"彼女"の声でした。 「……オヤスミナサイ」  受話器は置いて、電話も切れているのに、あの声が聴こえてくるのです。どうなってるんだ?最初は訳がわかりませんでしたが、よく聴いていると、その声は私の耳の中から聴こえているようでした。 「……オヤスミナサイ」  "彼女''の声は、私の頭の中に、直接呼びかけてくるような感じでした。そして、その声を聴いているうちに、私はまたいつかのように、深く、穏やかな眠りへと落ちていったのです。  それから、幸せな日々が始まりました。もう、電話を待つこともなく、彼女の声は、私の頭の中にまるでインストールされたかのように、直接呼びかけてくれるようになりました。その声を聴いていれば、いつでもどこでも、あの快適な眠りが約束されたのです。ええ、本当に良かったです。あのどうしようもない、憂鬱な不眠症から、完全に解放されたんですからね。まさに私は生まれ変わることが出来たんですよ。今は本当に幸せです。  ねえ、だから刑事さん、あの事故は私のせいじゃないんですよ。  可哀そうに、通学路で小学生が五人も轢き殺されたなんて、本当に酷い話ですよねえ。いや、確かにハンドルを握ってたのは私ですよ。でもね、私を運転中に眠らせたのはあの女なんですよ。私は最大限の注意を払って、慎重に運転しようとしてたのに、あの女、ずっと私の頭の中で、「オヤスミナサイ、オヤスミナサイ」って繰り返してたんですよ。だから、ついウトウトしてしまって……いや、だから本当なんだってば!ウソじゃねえんだよ!さっさとあの女捕まえろよ!俺は悪くねえんだよお…… [了]
/1ページ

最初のコメントを投稿しよう!