◆第一章 【見鬼】 朔馬◆

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◆第一章 【見鬼】 朔馬◆

 この海沿いの町では、あるはずのない島が見える。  その島はネノシマと呼ばれており、そこには妖怪たちが住んでいるとされている。  ネノシマからきた自分としては、ネノシマという名が知られていることに驚いた。  毎日がせわしなく過ぎていく中で、そのどれにも新鮮な驚きがある。それらが当然のように、日常の中で息をしている。 ◇  職員室に呼び出された凪砂を見て、須王家の血族だと直感した。  それはもう運命とか、宿命とか、そんな言葉が浮かんでしまうほど、どうしようもない引力だった。  凪砂は担任に頼まれたというだけで、移動教室や昼食の際に声を掛けてくれた。 「お昼は? 弁当?」  わざとらしさも恩着せがましさもなく発せられた言葉だと思った。それは朔馬をひどく安心させるものだった。 「学校で買えるって聞いたから、そこで買おうと思って」  生徒手帳で購買の場所を確認しようとすると、凪砂は「一緒にいくよ」と短くいった。そして朔馬の後ろの席の毅にも声を掛けた。  彼らは購買で何を買うでもなく、ただ朔馬についてきてくれた。朔馬はその事実に、少なからず驚いた。お礼をいうべきだと思ったが、そんな隙は一切なかった。彼らはごく自然に朔馬を会話にむかえてくれた。  二人は惜しみなく時間と知識を共有してくれる。  日本での生活は快適だった。  このまま逃げてしまってもいいのだろうか。  そんな馬鹿な考えが頭をよぎる。  月訓神(つくよがみ)に呪われた自分が、国外の任務を命じられた。桂馬の役職に就いているという理由だけでなく、厄介払いをするにはいい口実だったのだろう。  日本に跳ぶ際に、ハチワレ石で連絡が取れるまでは自らの任務に専念しろと、許可が下りるまでは日本で待機しているようにと、そういわれた。このままネノシマに戻ることはないのかも知れない。出嶋神社の宮司に戸籍まで用意させたからこそ、そう思った。 「鵺は退治したが、須王家の血族は見つからなかった。それらしき者には出会えなかった」  ネノシマには、そう報告すればいいのかも知れない。そうすれば凪砂も伊咲家も幸福なままだろう。  しかしきっと自分は、凪砂の存在を報告せずにはいられない。自らの呪いを解きたいからこそ、凪砂を巻き込まずにはいられない。  それでも覚悟が決まったわけではなかった。どうすればいいだろうと、いつも考えていた。 ――凪砂とハロは、本当に双子なの?  結果、軽率に二人を傷つけた。  そして確信するに至る。  光凛には、凪砂が須王家の血族だろうとは伝えていない。  しかし短期間で抜刀した凪砂を見て、光凛がそれに気付いたとしても不思議ではない。  凪砂はすでに、巨大な流れに巻き込まれ始めている。  それでも無責任にも、巻き込まない方がいいのではないかと気持ちが揺れる。  妖鳥が飛び立ったことも、その大きな流れの一つにさえ思える。  自分はまるで、凪砂に降りかかる災厄のようである。 ◆  伊咲家には、大きなボールがある。  それは廊下だったり、リビングだったり、いつもその辺に転がっている。時々徘徊している掃除機のように、なにか役割があるのだろうと朔馬は理解していた。  その夜、波浪がボールに座って単語帳を見つめていたので衝撃を受けた。 「そのボール、椅子だったのか」 「これは健康器具だよ。バランスボール」  朔馬は「バランスボール」と復唱した。 「座ると体幹が鍛えられます。座ってみる?」  促されて座ってみたが、本当にただのボールであった。 「ボールだ」 「後転の練習もできるよ」 「このまま手を後ろにつくの?」 「そのままじゃなくて、ボールに背中をつける感じ」  朔馬がボールからおりると、波浪はバランスボールを使い、後転を見せてくれた。おそらく波浪はボールなしで後転はできるだろう。  いつか毅がいった通り、波浪はとても運動神経がよかった。  歩き方だけでなく、足音からも運動神経の良さがわかるほどである。  朔馬が伊咲家に引っ越してきた翌朝「走るなら、浜辺を走った方がいいよ」と教えてくれたのは波浪だった。 「アスファルトは硬いから、膝を悪くするって毅がいってた」  教員寮に住んでいた頃は校庭の隅を走っており、アスファルトを走ったのはその時が初めてだった。アスファルトを走っている間、違和感を覚えたわけではないが、膝を悪くするといわれると納得できた。その日以降、朔馬も浜辺を走るようになった。  毅の影響なのかは分からないが、波浪は気づくと柔軟をしている。歯を磨きながら片足を後ろに上げて、その足先を手で掴んでいる姿は地味に朔馬を驚かせた。 「そういえばあの猫、今日は神社にいたね」 「え?」  波浪がそうしてくれたようにバランスボールを使って後転しようとしていたので、朔馬は間抜けな声をだした。  後転を終えてから改めて波浪に話を聞くと、西弥生神社の石段を下る途中ですれ違ったとのことだった。  ハチワレ石の片方は現在、自分の手にある。少なくとも光凛は、朔馬の持つハチワレ石を経由して日本に来たわけではない。 「猫について、建辰坊は何かいってた?」 「いってないよ」  波浪は首を振った。  建辰坊は波浪に、鵺や妖鳥の話をしている。猫の姿をした光凛についても、何かあれば波浪に話しても良さそうなものである。  波浪が見た猫が、光凛でなかった可能性もあるだろうか?  しかし波浪が、光凛を見間違う可能性は低いと思われた。 ――なんだろう? 変な糸が見える  飛行する建辰坊を見つめていた時だった。  朔馬は妖鳥が飛び立った夜以降、西弥生神社で時々神域の修復の手伝いをしていた。  陽があるうちに神社にいくと、高い確率で波浪もそこにいる。  凪砂はあの夜以降、一度だけ神社にきた。建辰坊に謝罪をして、二人は正式に和解をした。しかし凪砂自身は西弥生神社に用事がないせいか、それ以降神社には来ていない。 「白く光る糸が、空から垂れてる」 「天空の糸だ」  朔馬はいった。  天空の糸が見える者は、ネノシマでも決して多くはない。朔馬自身それを見るようになったのは、抜刀してしばらくのことだった。 「触れなければ、危険なものじゃないよ」 「急に見えるようになったんだけど。そういうもの?」 「そういうものだよ。たぶんすぐに見えなくなるよ」 「そうなの?」 「天空の糸は見たいと思わない限り見えないんだ。ただ、遠くの空を見てると焦点が合いやすいかな」  波浪は「よく分からない」という表情で黙り込んだ。  どう説明したものかと、朔馬は思考を巡らせた。 「ハロは映画を流しながら勉強するだろ? きっとその時、映画の音声は常に聞こえてるけど、意識はそこに向いてなかったりすると思うんだけど、そんな感じ。聞こうと思わなければ、情報として処理されないというか」  要領を得ない説明であったが、波浪は「へぇ」と納得してくれた。 「触れなければ危険じゃないってことは、触れると危険なの?」  天空の糸は一度目視してしまえば、いつでも見ることができる。それはどれも地上二メートルくらいのところまで垂れ下がっており、手を伸ばせば触れられる距離にある。 「天空の糸を引っ張ると、同じ強さで空に引っ張られるよ。着地は自力だから、不用意に強く引っ張ると危険だね」 「そうなんだ。便利そうなのに」 「着地が面倒だから実用的ではないんだよ。身に危険が迫った時くらいにしか、天空の糸を引くことはないかな」  波浪は「ふーん」と天空の糸を見つめた。  ネノシマで生まれ育った人間は、妖怪やその類が見える。つまりは全員が見鬼である。ネノシマの風土がそうさせている。  しかし天空の糸は「目が肥えた者しか見えない」とされている。曖昧な表現であるが、それ以上は説明できないらしい。  波浪の目がある程度特殊なのは、凪砂の血が入ってしまったことが無関係ではないだろう。しかし元々目がいいのかも知れなかった。  天空の糸さえもとらえる彼女の目が「あの猫」を見たのなら、否定の余地はないのだった。  
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