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□ □ □
見舞いに来て、看病しようとした相手を誑かしてしまった。
しかもだ。
またしても、自分だけ愉しんでしまった。
病み上がりの雪橋を気遣っていたのは最初だけで、少し弄られただけで早く欲しくてイきたくて堪らなくなってしまった。
そして、気付けば綺麗に身体を拭かれた状態でベッドの上に寝かされていたという、何の進歩のない安定のいつものコース。
何も変わっていないどころか、雪橋の体調を考えれば最悪の展開だ。
「ごめん、陽輔。オレ、また何もできなかった」
すっかり日が暮れた頃にようやく起き上がったオレは、ベッドに腰を掛けて項垂れたまま謝罪の言葉を口にした。
嫉妬して拗ねて、恋人らしいことをさせてくれって大きな口を叩いたクセに、どうしても快楽に弱いからグダグダになってしまって情けない。
優しい雪橋に今度こそ愛想尽かされてしまうかもしれない、と思うと身が竦む。
「え? すっごい悦かったですけど」
重たい気持ちを薙ぎ払うような雪橋の弾んだ声に顔を上げた。
ニコニコ笑いながらこちらを見ている。
嘘を言っているようでも、オレに気を遣っているようでもない。
「正直、こんなにエロい理玖さんを前にして、これからちゃんと仕事できるのか不安になってます。あ、そういう意味では今までもそうだったんですけど、さらに危険になったという事で」
ペラペラと流暢に喋る雪橋の言葉が理解できずに固まった。
今、オレを「エロい」と言ったのか?
そんな馬鹿な。
情けない醜態ならこれでもかというくらい見られたが、そのどこにもエロは無かった。
むしろ、雪橋が萎えてしまったらどうしようと心配になったくらいだ。
「ごめん、雪橋。ちょっと意味が分からない」
「あぁ、やっぱり引いてます? 呼び方に心の距離が出てますよ」
困ったように指摘されて気付いた。
そんなつもりは無かったが、今の「雪橋」は無意識に距離を取っていたのか。
いやでも、ちょっと意味が分からないだけで、引いてはいないぞ。
「それより理玖さん、お腹空いてませんか? 何か食べます? と言っても、ハナが持ってきた雑炊くらいしかないんですけど」
すっかり体調が戻ったらしい雪橋は台所に立ち、先ほど見た土鍋の蓋を開けた。
さすがにそれは駄目だろう。
だってそれは、英くんが雪橋のために持ってきてくれたものだ。
突然押しかけてきたオレが図々しく口にして良いものではない。
慌てて立ち上がって雪橋の元に行こうとするが、身体の動きが鈍く付いていけず、動線の途中にあるソファに辿り着くだけで精一杯だった。
「あ、プリンがありましたね」
もたもたしている間に、オレが持ってきた袋からプリンを発見したらしい。
ソファに沈んでいる情けないオレの所まで、スプーンと一緒にプリンを持ってきてくれた。
しかし、これはオレのプリンではない。
雪橋に食べてもらいたくて買ったものだから、やはりオレが食べて良いものではないのだ。
「これ、理玖さんが好きなやつですよね」
プリンをローテーブルに置きながら雪橋が言うのを聞いて驚いた。
雪橋が言うように、これは以前食べて美味しかったオレの好きなプリンだ。
柔らかいなめらか系プリンとほろ苦いカラメルが絶妙で、値段の割に満足感がある。
どうせ見舞いに持って行くなら、自分が美味しかったものをと思って買ってきたのだ。
けれど、このプリンがオレのお気に入りだと雪橋に伝えた記憶はない。
「よく知ってるな」
「前に嬉しそうに食べてるのを見て、好きなんだなぁと」
雪橋の前で食べた事もあっただろうけど、「好き」だと分かるほど顔に出ていたとは恥ずかしい。
今度から気を付けよう。
いやでも、美味しいものを食べたら自然と顔は緩むものだし。
なんなら今も、味を思い出して食べたくなって緩みそうだ。
でも、オレが食べてしまったら、雪橋の分がなくなってしまう。
自分はすぐに帰るつもりで、一つしか買ってこなかった事を今更ながら後悔した。
「それと、これもどうぞ」
何とも情けない葛藤をしていると、雪橋に手を取られ何かを握らされた。
掌の中に十分収まる程度の大きさで、硬くて比較的薄い、まるでどこかの鍵のような……。
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