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あと少しで夏休みになるというだけあって、夕方になってもうだるように暑かった。影太は両手で大事そうに香炉を抱えていた。
「それで、その壺、この後どうするの? いつになったら蓋を開けてよくなるの?」
里加は、公園で解散した後も影太についてきた。
「三日間はこのままにしておかないといけない。どこに置いておいてもいいんだろうけど、一応、蔵の神棚に上げることになってる」
「ふーん」
陰陽寺家には、門をくぐるとすぐ、タブノキがある。霊が宿るともいわれており、陰陽寺家のご神木でもある。その隆々とした根っこを乗り越え、蔵に進む。
「里加は、ここで待ってて」
影太は、何も封じ込めていない香炉を蔵にある本殿に持ち込み、神棚に置く。そして、落ちてこないように、棚の奥へと押し込んだ。
今は、香炉は一つしかない。二年前まで――あの地震で割れてしまうまで――は、少なくとも二つはあったはずなのだが。
蔵から出ると、庭に咲くカモミールの花畑の前に里加が屈んでいた。
「いい香りね。リンゴみたいな匂い」
「でしょ? 今が満開。最盛期なんだよ」
手作りのお香を一つ、里加に手渡す。
「それはカモミールで作ったお香だよ。ちょっと匂い、嗅いでみてよ」
影太は蔵からむしろを引きずり出して広げながら、里加をチラ見した。里加は眉をひそめて、おそるおそる嗅いでいるようだったが、やがてパッと表情が明るくなった。
「本当だ。いい匂いがする」
「そうでしょ? それはボクが先週、作ったんだよ」
「火をつけて焚いたら、もっといい香りになるの?」
「そうそう、憑神が鎮まってしまうほどにね」と言いながら、影太はカモミールの花を千切った。
「ちょっと、影太、何してるの?」
「ん? 何が?」
素知らぬ顔で、満開の花たちを摘み続ける。
「一番香りの良い、今の時期の花じゃないと、その香りは出ないのさ」
むしった花を、むしろの上に均等に広げる。
「よく天日で干して、乾燥したら、すって粉にするんだ。それで、乾燥させたタブノキの葉と混ぜると、そのお香が完成するってわけ」
里加は、キョトンとしていた。
「へーそうなんだ。お花がかわいそうな気もするけど……」
ガラリとリビングの掃き出し窓が開いて、母が顔を出した。
「影太、ちょっといいかしら。あ、あら里加ちゃん、こんにちは」
「おじゃましてまーす」
「何? お母さん、用事?」
「ああ、そうそう、ミクを探してきてくんない? まだ、学校から戻らないのよ。今日は水泳教室の日なのに、あの子、忘れちゃってるのかもしれないわ」
影太は空を見上げる。快晴で、雨は降りそうもない。
「しょうがないな。里加も一緒に来る?」
面倒くさかったが、里加と一緒に小学校に向かって歩く。
「しょうもないな。なんで一緒に来んだよ。後で詳しく聞くからな」
影太は振り返り、右腕をグルグルと後ろに振り回す。
ゴロゴロと空が鳴った。雲は西の方にしかないが、そっちで鳴っているらしい。
「何? なんて言ったの?」
後ろ手を組んで数歩前を歩いている里加が、こちらに顔を向けていた。
「え? 何も言ってないよ。ミクが心配で、独り言でも言っちゃったかな」
里加は立ち止まり、くるりと反転して訝し気に影太を見た。
「ミクちゃん、すぐに見つかるといいね」
眼光が鋭い。「そ、そうだね」と言って影太は目を逸らした。アブラゼミとクマゼミが均等に混じりながら、ハーモニーとは言い難いBGMを奏でている。
「あ、あれって」
先に気付いたのは里加だった。ミクは側溝に片足を突っ込み、ベージュ色のTシャツが、道端の雑草と同化していた。
「ミク! 大丈夫か? しっかりしろ!」
影太は里加を追い抜き、道端にうつぶせに倒れていたミクを抱き上げる。その向こうに、人影。放浪する疫病神が、ミクに憑りつこうとしていた。
「てめえ、やめろ! くるな!」
影太はウエストバッグから、お香を取り出して火をつけ、ずんぐりむっくりとした疫病神に向かって振り回す。
「ミ、ミクちゃん!? 大丈夫!? 影太? 何かいるの? 何か見えるの?」
影太は、抱き起したミクの頭を里加に預け、疫病神に立ち向かう。
「疫病神がいる……来るな! 向こうへ行け!」
腹の底から叫ぶと、「なんや、助けたろか?」という冷めた声が聴こえた。影太はそれを無視して、なおも火のついたお香の煙で、近づこうとする疫病神を追い払う。
「影太! ミクちゃん、意識がないよ。おばさんに電話して! 救急車も呼んで!」
「わかった。呼んでくるから、里加、ちょっとだけ、頼む」
影太はお香を地面に投げ捨て、家へと走りながら、スマートフォンを操作し、母に電話する。
「あ、お母さん? ミ、ミクが見つかったよ。う……うん。道端で倒れてた。意識が無い。救急車を呼んだ方がいいかも。今、里加に任せてるから、すぐ、出てこれそう?」
母のわかったという声を聞いて、電話を切った。影太は家の門をくぐるなり、玄関には向かわず、蔵に飛び込んだ。
「ええんか? ママんトコに先に行かんで」
影太は声を無視して、神棚の奥にしまった香炉をそっと、下ろした。ふんっと鼻から息を吹き、右後方に振り返って。睨む。
「なんでお前が、いつまでもついてくるんだよ!」
影太の目の前に、ムキムキマンが立っていた。
「お前に憑いたんだから、当然やろ」
ムキムキマンは、頭をかいている。
「は? ど、どういうことだよ!? そんなの聞いてないぞ」
「あん時、言おうとしたんやけど、聞く前にお前が行動してもうたから、しゃあないやんか」
「この変態ムキムキヤロウ、ボクをだましたな!」
影太は香炉を床に置き、蓋を開けた。
「だ、だましてへんやん。ちょ、ちょっと、冷静になろうや」
お香を取り出して、ライターであぶる。
「待て、待て、待て。本気で、ワシをなんとかしようとしとるやろ? 取引したやんか。冷静に話そうや」
「何を話し合うんだよ。約束を破ったのは、そっちの方じゃないか」
「人聞きの悪いことゆうなや、破ってへんよ。宮崎という奴に憑くのやめたんやから、約束は守ったやろ」
「それで、ボクに憑いたのか。騙しやがって」
「ちゃうって。ワシは誰かに憑いてないと、生きてけへんのや。次に貧乏そうなオーラをまとったやつに会うまでは、すまんけど、お前に憑かせてくれや」
「は? そんなの、許すとでも思ってんの?」
「許すも何も、それしかできへんがな。近くにそんな奴おらへんのやから。まあ、居候みたいなもんやから」
「い、居候って……。ボクを貧乏に陥れようとしてんのか?」
「せえへんよ、極力。貧乏の空気は出さへんようにするから。それより、なんかの役に立てるように頑張るから。ワシを貧乏神と思わんとって」
「どう見たって、貧乏神でしょ。どう見ろって言うんだよ」
「せやな……ワシのことを、お前の守護神と思ってくれたらいい。ワシ、お前の守護神になったるわ」
ふんっと鼻から息を抜いて、床の香炉をウエストバッグに押し込む。
カッとなって思わず香炉の蓋を開けてしまったが、冷静さを取り戻すと、額から汗が噴き出してきた。
また、このムキムキマンと対峙することを想像すると……いやいや、想像もしたくない。
とりあえず、騙されたとしたならしょうがないと覚悟を決めて、ムキムキマンの言うことを信じることにした。
影太は蔵を出て、玄関から母を呼んだ。母は、身だしなみにも気を使えないままで、ボサボサ髪をカチューシャで抑え込みながら出てきた。影太は、サンダルを履いた母を、ミクの現場まで連れて行った。
ミクは意識を取り戻したようだが、近くには、まだ、ずんぐりむっくりの疫病神がいた。
「まだ、おるで。しつこい奴やで」
ムキムキマンの声を聞き流して、影太は、ミクにお香の入ったビニル袋を押し付けた。
「ミク、大丈夫か? お前も、これ、もっとけ。焚かなくてもカモミールの香りはするから、憑神をよける効果はある」
影太はウエストバッグから香炉を取り出し、蓋に手をかける。
「待って!」
里加が止める。
「お前! なんで、止めんねん。影太、はよ、鎮めな、コイツ、憑りついてまうで。はよ」
ムキムキマンの方が、影太より焦っている。
「その壺って、宮崎に憑いてた貧乏神が入ってるんでしょ。まだ蓋を開けたらダメなんじゃないの?」
そうだった。貧乏神のムキムキマンは香炉の中ではなく目の前にいるけど、里加は知らない。香炉の中に封じたと信じ込んでいる。
ポツポツと、雨が降ってきた。地面に捨てた香はまだ消えておらず、煙が立っている。
影太は香炉をウエストバッグに戻し、九字を切り、経を唱える。
「な、なにしてんねん!? そんなんで効くかいな。ツボ出して、お香を焚けよ。早う!」
疫病神は、影太とムキムキマンのやり取りをずっと見ていた。そして、不思議そうに頭を傾げた。
ムキムキマンが、それに気づきブチ切れる。
「何見てんねん、コラ!? いてこますぞ、くそジジイ!」
お経が効いたのか、ムキムキマンの威嚇に泡を食ったのか定かではないが、幸運にも疫病神は、そそくさと逃げて行った。
「ふう」と息をついた時、救急車のサイレンが聴こえた。続けてパトカーも来た。
ミクは担架に乗せられた状態で、警察の質問に答えていた。誰かに後ろからつきとばされたという。
簡単な聴取を終え、ミクの担架が持ち上げられた時、影太は担架に取り付いた。
「ミク、大丈夫か? どっか、痛いとこはないか?」
「ふふふ。お兄ちゃん、そんな心配そうな顔しないでよ。ミクは大丈夫よ。それより、お兄ちゃん……」
「ん?」
「面白いヒト、連れてるんだね」
「……あ、ああ」
「おお。お嬢ちゃんは、ワシが見えるんか? ワシの声も聞こえるんか? お兄ちゃんのことは、ワシにまかしとき。心配せんと、自分の心配だけしときや。がんばって、はよ良くなりや」
ムキムキマンは、ボディビルダーがとるようなポーズをして、自分の上半身をアピールした。
「ふふ、ありがとう」
担架が救急車に乗せられ、母が付き添いとして同乗すると、署員が後部ドアを閉めようとした。
その時、ずんぐりむっくりが駆け戻ってきて、閉まりかけのドアから救急車に飛び乗った。
「あ」
一瞬の出来事で、声も出なかった。
ミクと母……と疫病神を乗せた救急車が走り出した。ボクと里加……と、ムキムキマンは、それを見送る。
「それじゃあ、帰ろうか」
影太が促したが、里加の視線は地面を漂っている。ミクの倒れていた側溝。その周辺はアスファルトが劣化し、土がむき出しになって、雑草も生えていた。
「里加、何見てんの? まだ、帰らない?」
里加は、スマートフォンを取り出し、周辺の地面に向けて、シャッターを切り出した。
「な、何してんの、地面の写真なんか撮って。何かあった?」
「いや、ちょっと気になっちゃって。さっき来た警察の人たちは、ミクちゃんに話だけ聴いて、現場の写真を何も撮ってなかったし、もうすぐ、雨が降り出しそうだし、念のため」
「何か、わかりそうなの?」
「わかるかどうかも、わかんない。取り合えず、撮っておいた方がいいと思って」
里加は、その後も、側溝や周辺の風景を撮っていた。
雨が少し強くなった。
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