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――影太の父、義春の妹が、金井晋太の母だった。だから晋太は、戸籍上、影太のいとこにあたるが、それほど交流は多くない。ただ、今でも鮮明に記憶しているのは、義春に連れられて、晋太の父の通夜に行った日のことだった。
それは二年前の夏、蔵で壺を割ってしまった翌日。その日は、夜になってもセミの声が止まないでいた。
金井家は築年数が読めないほどのかび臭い長屋で、影太が知っている晋太の家ではなかった。なぜ、こんなあばら家に引っ越したのか、気にはなったが、それどころではない。
奥の和室に寝かされていた晋太の父は、顔に白い布をかけられていた。義春がそれを取り、話しかける。
「す、すまなかった……。本当に、申し訳ない……。それに……ありがとう……ありがとうな……」
影太は、人間の死体を見るのが初めてで、怖くて死に顔をまともに見られなかった。ミクも同じなのだろう。ぎゅっと影太の服をつかんで、うつむいたまま顔を上げない。
涙を拭いた義春がハンカチをポケットにしまいながら、影太を引き寄せた。
「ほら、影太、見ろ。見るんだ」
影太は恐る恐る青白い顔に目をやる。晋太は父親似なんだと、改めて思った。その顔は、やつれてはいるが、眠っているようにしか見えない。
「お別れのあいさつをしなさい。お礼を言いなさい」
鼻声で義春にそう言われたが、何も出て来ず、口が半開きになっただけで止まる。何を言ったらいいのか困っていると、枕元に座っていた晋太の母に救われる。
「影太ちゃん、いいのよ。無理に言葉を探さなくて。お顔だけ、拝んであげてね」
影太は死に顔を眺めるうち、幼い頃、遊んでもらった記憶が蘇る。おぼろげで、はっきりとした映像にはならなかったが、やさしくて、明るくて、楽しかった記憶……。
そして、その記憶の中の人間が、もうこの世からいなくなって、この先、二度と会えない……。そう思うと、胸が熱くなり、悲しい感情が込み上げ、抑えることが出来なくなる。
影太は、義春のひざ元に突っ伏し、わんわんと泣いた。涙を止められず、義春の礼服をぐしょぐしょに濡らしてしまっている。「いいよ。泣け、泣け」という義春の言葉に甘え、いつまでも泣いた。
土塗壁の四畳半に、影太の鳴き声だけが響く時間が続いた。
「雅恵、お前は大丈夫か。晋太くんがいるんだから、しっかりしないといけないぞ」
晋太の母、雅恵は義春に励まされ、落としていた視線をゆっくりと上げる。影太が父の膝から尻目で見ると、雅恵の虚ろな目と目が合っているような気がした。
「この人はね、役者だったの。映画に出たこともあるのよ。その映画がたまたまヒットして、将来も安泰かなと思えた時期もあったんだけどね」
影太は再び死に顔に目が行った。俳優を目指すのも頷ける二枚目である。
「最近はからっきしお声がかからなくなった。だから、昼はレッスンや稽古をするだけで、全然稼ぎが無かったの」
影太は、ようやく落ち着いてきて、すんすんと鼻をすすりながら、上体を起こす。
「だから、ずっと、夜中の工事現場で働いてたわ。体を壊し、体調の優れない日が続いてたんだけど、頑なに病院には行かなかった。いつ役者の仕事の連絡がくるかわからないから、もう一度俳優として活躍できたら、体調不良も治るんだって言ってきかなかったわ」
雅恵の横に正座していた晋太が足を崩して、目を伏せた。
「俳優業の仕事を貰えなくても、映画がヒットした時にもらった記念品を、ずっと宝物のように大切にしてた。工事現場でも、自慢してたみたい……。馬鹿よね、いつまでも過去の栄光にすがりついて……」
雅恵の頬を幾筋も、涙が伝っている。晋太は涙を堪えているようだった。
「病状が悪化して、ようやく病院で診てもらった時には、もう手遅れだったわ。ステージ四で末期の癌。助からないと言われた。それでも、少しでも長く生きて欲しかったの。死神が憑いてたから……死神を清めて欲しくて……」
雅恵は目頭を抑え、何度も指先で涙をぬぐった。
「お兄ちゃん、ちょっといい? ちょっと、外に出てもらえる?」
雅恵が義春を家の外に連れ出した。二人きりで話したかったのだろうが、この家にそんな部屋は無いらしい。
「おじさんに、死神を祓ってもらったのは、ほんの二日前さ。それだから、納得できないんだ」
晋太は、父の顔に白い布を被せ、立ち上がってトイレに消えた。トイレの中から、おいおいと泣く声が聴こえてきた。
影太はミクを連れ、玄関から外を窺った。
外では、義春が、雅恵から猛抗議を受けていた。
「話が違うじゃない!? 鎮神できたって言ってたじゃない。なんで、こうなっちゃったのよ!?」
雅恵は泣きながら訴えている。
「やったよ。ちゃんと、憑いてた死神を香炉に封じたよ」
「じゃあ、なんで死んじゃったのよ? 死神がまたどこかから来て、あの人に憑いたとでも言うの?」
義春は口を噤み、何も言わない。
影太は固唾を飲んで見守った。
「お父さん、すごく責められてるね……ミクたちのせいなのかな?」
影太の横で、ミクが震えていた。蔵で遊んでいた時に割れた香炉が原因じゃないのかと、怯えているのだろう。影太はミクの肩を引き寄せると、再び引き戸の陰から顔を出し、義春を見た。
「なんであの人はあんなにもあっけなく死んじゃったのよ。お兄ちゃんがお祓いしてから、三日と持たなかったのはなぜなのか、説明してよ!」
雅恵は、義春の両肩を掴んで揺すった。
「陰陽寺家に伝わる鎮神っていうのも、うさんくさいのね。でたらめなんじゃないの!?」
「ち、違う。本当に、一度は鎮神できたんだよ」
あまりの責められように、さすがに義春も反論する。
その時、影太は、服の裾を引っ張られた。
「ミクたちが、あの壺割っちゃったせいかな? ねえ、お兄ちゃん? そうなのかな?」
動揺するミクの頭を強く抱き寄せると、目の前を人影に塞がれる。
「聞こえたよ。ミクちゃん、壺を割っちゃったんだね」
晋太だった。憎らしそうに、猛々しい目をこちらに向けている。
「ミクちゃん、死神を封じ込めた壺を割っちゃったってことは、キミが、パパを殺したってことと、同じじゃないか」
「違う! ボクらが割ったんじゃない。地震が来て、勝手に神棚から落ちて割れたんだ」
影太は、怯えるミクを背後に隠し、晋太に言い返す。
「嘘言うなよ、影太」
「嘘じゃない! 本当だよ。昨日、地震があったろ? その時の揺れで、壺が落ちたんだ!」
「は? 昨日? 地震なんてあったかな?」
目を逸らした隙に影太は晋太を押しのけ、ミクの手を引いて、外へ駆け出した。
義春は、未だ雅恵から抗議を受けている。
「お父さん、もう、帰ろう。帰ろうよ」
影太は、義春の手を取って、引っ張った。ミクはしくしくと義春のズボンに顔を埋める。
「雅恵、改めて来て、説明するから、今日のところは子供らもいることだし……ご愁傷さまでした」
義春は深く頭を下げて踵を返す。影太は決して手を放すまいと、強く握って父の横を速足で歩いた。
防人山の上に、綺麗な満月が浮かんでいた。
水路を伝って、よく冷えた風も吹いてくる。
家までの帰り道、影太は昨日、蔵の中で起こった出来事を正直に話した。
「そうか、あいつを見たのか。いつかは、引き継がないといけないから、話が早い」
義春は、蔵で遊んでいたことや、香炉が神棚から落ちて割れた原因には触れなかった。
「そいつのおでこにまん丸の痣があったの、わかったか?」
義春は背中におぶったミクを持ち直し、体勢を整えた。ミクは泣き疲れたのか、金井家を出てすぐに眠ってしまっていた。
「あれは、勲章持ちの死神って言って、他の死神とは比べ物にならない、次元の違う強者なんだ。あれに憑りつかれると、死期が一気に早まる。どんな健康な人間であっても、事故にあったことすらない人間でも、あいつに憑りつかれると、造作もない。数日内に確実に死ぬ。いや、あいつに限っては、殺されるといった表現の方が近いのかもしれない。それに、あいつの鎮神は難しい」
本殿から出てきた、あの老紳士のことだろう。義春と雅恵の会話で、なんとなく、あの時、死神が逃げて出ていくのを見たんだろうとは想像していた。
「やっと鎮めたんだが……香炉が割れれば、中に封じ込められた憑神は復活して、また元の宿主に憑りつく。まあ、しょうがないさ。雅恵の旦那が死んでしまったのは、運が悪かったというだけだよ」
義春は、影太の罪悪感情を見抜いているのか、庇うように続ける。
「病死の場合、死神を祓っても、また別の死神が憑く。死神が病状を悪化させて、死においやるわけじゃない。悪化して、死期が近くなったから死神が憑くんだ。進行性のある大病を患った病人についた死神は、祓っても大して意味がないんだよ」
影太は、この先の将来、自分に待っている試練を想像すると、寒気がした。
「お父さん、ボク……ボクも、死神とかと戦うの? やらなきゃいけないの?」
「どうした? 怖いのか? 嫌なのか?」
「うん……正直、怖いし、やりたくない」
「そっか……。この役目は、みんなを幸せにしようとしてるから、とても感謝されるし、すごくやりがいがあるんだけどな。陰陽寺の者しかできないし、お父さんは誇りに思ってやっているんだ」
光に誘われた蛾が、何匹も街路灯の下で羽ばたいている。水路を流れる水の音が、清流をイメージさせるほど、上品に響いていた。
「確かに、中には怖い憑神もいるし、時には失敗して恨まれることもあるけど、それも含めて、選ばれた者しか、経験できないことなんだって考えると、嬉しくてたまらないよ」
影太が見上げると、義春と目が合った。
義春は、黒髪をオールバックにして固め、薄い色付レンズの入った眼鏡をかけたコワモテではあるが、いつも優しい目をしている。
「影太は、もう小学二年生だろ? そろそろ、強くならないといけないよ。いつまでも甘えていちゃダメだ。陰陽寺家の跡取りなんだから、その自覚をして、気高く生きなきゃいけない。大丈夫、影太ならできるよ」
義春の優しく微笑んだ顔は、今もなお、鮮明に瞼に焼き付いている。その背後にある防人山の不気味な影とともに――
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