三十三 見落とし

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三十三 見落とし

 六月一日、金曜、午後。  佐介たちはR署の刑事課で、田村省吾の婚約者・明美から聞いた筋弛緩剤の効果を野本刑事に伝えた。 「葉山。筋弛緩剤を処方した医師に、薬の危険性を確認しろ。  本山。もう一度、大学の係官が田村省吾の合成した薬を廃棄処分したか、裏を取れ」  野本刑事は葉山刑事と本山刑事に指示した。 「わかりました」  葉山刑事は本山刑事とともに出ていった。 「いくら製法がわかっても、田村は薬物合成に関しては素人だ。一度や二度でかんたんに筋弛緩剤を合成できたとは考えられません」  田村は自分の能力について見栄を張る性格ではない。何かある・・・と佐介は思った。  佐介同様、野本刑事も田村が筋弛緩剤を合成したことに疑問を持っている。 「私も気になりましてね。そちらも内藤刑事たちに裏を取らせてます。  なぜ田村たちは青山和志のことを知らないふりをしたんでしょうね?」 「青山和志の兄と天野四郎の関係を気づかったんでしょう」  田村が尾田ノリコに筋弛緩剤を渡した。青山和志に天野四郎殺害の意志はなかったとしても、田村と戸田雄一と青山和志の三人はノリコの共犯者だと佐介は思った。 「三人が尾田ノリコの犯罪に協力したと考えないほうがいいでしょう。  尋問中に、尾田ノリコが天野四郎の遺品の書面を提出しました。天野四郎の文章なのか、天野四郎の弁護士を立ち会わせて確認させてます。何かわかるでしょう」  野本刑事はそう言って田村たち三人の立場を考えている。  真理が口を開いた。 「ノリコと田村の証言が事実なら、 『田村はノリコの要求どおり自分の薬を二錠、無償で譲った。  ノリコは天野四郎の要求どおり薬を手に入れて天野四郎に渡した。  ノリコはノリコ自身に容疑がかかるように嘘を言った。  田村省吾、戸田雄一、青山和志の三人は、ノリコの指示に従って、青山和志は、田村省吾と戸田雄一とは親しくないと説明した・・・・』  なあ、野本さん。これだけでは、罪になんねえべ・・・」  そう言って真理は野本刑事を見ている。 「田村省吾はうすうす天野四郎の気持に気づいていたようです。  天野四郎が死ぬ気だったと知っていたなら、尾田ノリコも田村省吾も罪になりますね。  今のところ二人は、天野四郎が死ぬ気だったとは話してません。  今後も話さないでしょうね」  二人とも実に切れ者だと野本刑事は思った。 「係長、結果が出ました」  鑑識の係員が刑事課に現れた。佐介たちを気にしている。 「話せ。だいじょうぶだ。この二人はあの佐伯特務官の身内だ。警察の内情に精通じてる」  野本刑事は真理たちの遠縁にあたるN県警の特務官・佐伯刑事の名をあげた。  鑑識の係員は納得したように話しはじめた。 「わかりました。筆跡鑑定と弁護士の証言から、あの文章は二十一日に書かれた天野四郎の遺言だとわかりました」 「わかった。ご苦労さん。  おふたりに手紙の内容を教えておきましょう。 『ゆっくり休みたいので薬を手に入れてもらっただけだ。ゆっくり休みたいことは誰も知らない』  です・・・」 そう話した野本刑事は、田村省吾と尾田ノリコに容疑をかける必要はないと思えてきた。  疑わしきは罰せず・・・。被告の利益か・・・。  二人とも、天野四郎が死を望んでいたことを知らない、と話している。ほんとうに二人が天野四郎の自殺願望を知らなければ、二人の容疑は消える・・・。  田村省吾が生業として薬を譲渡したのではないから薬事法違反ではない・・・。  皆が、田村に処方された筋弛緩剤を、飲めばすぐさま心停止するように連想しているが、田村が認めているように、健康なら二錠飲んでも極度の肩凝りや筋肉痛が消えるだけで心停止には至らない。従って、 『含有物に譲渡が禁止されている薬物があるのにかかわらず、知って譲渡した場合』には当てはまらない。『重過失傷害、重過失致死罪』は成立しない・・・。  そうなると・・・。見落としてるのではないのか? 「ちょっと待ってくださいよ・・・」  野本刑事は天野四郎の遺体解剖の資料を開き、結果を再確認した。  肺に水が少し入っていた。  体内から筋弛緩剤の成分が見つかっている。  解剖所見は、 『心臓周囲の血管内の酸素濃度が溺死よりも高い』とあり、 『天野四郎の死は溺死ではなく心停止による』としていた。  まてよ。バーボンを飲んでいたな・・・。  血中アルコール濃度は・・・。高いぞ!  こいつに対する所見は・・・、無しか・・・。  クソッ、解剖医のボケめ!なんてこった!  野本刑事の顔色が変っている。 「何かわかりましたか?」  佐介は野本刑事の変化を見のがさなかった。 「重要なことを見落としていたかも知れません。もう一度尾田ノリコを取り調べます!」  佐介にそう言い、 「尾田ノリコを取調室に連れてきてくれ!」  野本刑事は係官に指示した。  一時間後。  R署第一取調室で、 「ノリコさん、天野四郎さんのことを教えてください」  野本刑事はていねいな口調でそう言った。佐介たちは隣室からマジックミラーを通して取調室の様子を見ている。 「何でしょう?」 「天野四郎さんは酒を飲めたんですか?」 「あっ・・・」  そう言ったままノリコは呆然としている。 「飲めなかったんですね?」  やはりそうだったかと野本刑事は思った。 「はい、飲んでも付き合い程度で、ほんの少しだけです。付き合いで知り合いの店へ行ってもビールをコップに二杯程度です。  仕事が仕事だから、私はいつも天野が飲める気になってました」 「公園で会ったとき、バーボンをどれくらい飲んだんですか?」 「いっきにボトル半分くらい・・・。でも、酔った感じがしなかった・・・」  ノリコは公園にいる天野四郎を思いだしたようにそう言った。 「バーボンの空きビンは、あなたが持って帰ったんですね?」 「いいえ、お茶のペットボトルといっしょに天野が持っていました・・・」 「ありがとうございます」  野本刑事は尾田ノリコを退室させ、取調室の鏡にむかって佐介たちに目配せした。  刑事課にもどると野本刑事は佐介に言った。 「死因を再検討します。いろいろ絡んでいたようです。  真実を明らかにするのに、メンツや見栄は必要ありせん・・・」  事件の真相究明が別な方向へ進みはじめたと佐介は感じた。 「死因が筋弛緩剤でないなら、容疑がかかっている者たちの希望と未来を守ってやってください」 「承知してます・・・」  野本刑事は腹をくくり、 『くそっ、解剖医のクソボケめが!』  と思った。
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