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ひとつの嘘
シンクの上で手を動かし、食器の泡を洗い流していく。
今日の夕飯は何にしようかと考えながら、濡れている手をタオルで拭く。広く綺麗な家に今は、みつきひとりだけだった。
「……」
東泉組の青瀬晋哉。それがみつきが従う男の名前だ。
歳は三十代前半。その若さで東泉組のNo.2、若頭を任されている。
いつも上品なスーツに身を包む晋哉は整った顔立ちをしており、容姿端麗という言葉が似合う。不機嫌そうな表情が緩めば、印象が全然違うのになと、みつきは思っていた。
親が残した借金の代わりにみつきがここに連れてこられて、二週間が経つ。
この二週間、みつきは言われている通り、掃除、洗濯、食事の用意など家事をやってきた。
晋哉は忙しいのか、それともみつきがいるからか、この家に帰るのは毎日ではない。会うこと自体多くないが、注意を受けたり怒られたことはなかった。無関心、という様子だ。
事務所に連れられた時、一度だけ会った東泉には、すべての世話をしろと言われた。それが何を意味するのかは、みつきもわかっていた。
けれど晋哉は家のことだけやればいいと言う。その言葉を初めは信じていなかったみつきだが、二週間経っても晋哉が他のことを命じる素振りはない。
感じていた恐怖や不安が、だんだん無くなってきたのをみつきは実感していた。
「買い物、行かないと」
小さく呟いたとともに財布を掴む。左手で喉を軽く撫でた。
晋哉の前で声を出したことは無い。きっと声が出るとは思っていないだろう。
東泉組の事務所でも恐怖で喋れず、頷きを返していただけだから、みつきの声を聞いた人はいない。
晋哉を騙すことになるが、みつきは女のフリをしようと決めていた。だから声を出さず、女物の着物を着ている。
もし晋哉が欲求を満たすことに使うのなら、女だと思われていた方が都合が良いと思ったからだ。
みつきには親の借金を返すあてはない。面倒を見てくれる親戚もいないため、ここを追い出されるわけにはいかない。
それで咄嗟に思いついたのが、女のフリをすることだった。
裸にされたらすぐにバレてしまうが、手や口を使うだけなら大丈夫だろう。今のところ晋哉が自分を使う様子はないから、当分はこのまま過ごせるのではないかと思っている。
「よし、行こう」
財布と鍵を持つと、みつきは玄関へ向かった。
アスパラガスを手に、みつきは悩んでいた。
今日はパスタを作ろうと考えていたのだが、晋哉が食べるかによって具材が変わってくる。
晋哉が食べるならアスパラガスを買うが、みつきひとりならもっと安い具材で十分だ。
必要なものに使うのであれば金は自由に使っていいと言われているが、特殊な世界にいる晋哉の金を使うのが未だにみつきは怖かった。
今日帰るかどうか連絡はないため、毎日夕飯はふたりぶん用意している。晋哉が帰ってこなければ残ってしまう夕飯は、翌日のみつきの朝食になっていた。
とりあえず違う食材も見てみようと戻したアスパラガスを、隣からのびてきた手がひょいと持ち上げた。
「今日はパスタか」
聞こえた声に横を向けば、そこには晋哉が立っていた。不機嫌でも楽しそうでもない顔でアスパラガスを見ている。
驚きながらも頷いたみつきの持つカゴに、アスパラガスが入れられる。
「何か足りないものがあればこれで買え」
渡された数枚の高額紙幣に、またみつきは驚く。財布を持ってきたから必要ないのだが、それを伝える前に晋哉は背中を向けた。
「……今日は帰る」
少しぎこちなく、そっけない言葉。
さらなる驚きに固まったみつきだったが、すぐに大きく頷いた。
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