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ズームという便利なツールの爆発的ヒットは、語学教師の人生を一変させた。世の中のオンラインレッスンブームでスカイプ、チームズ、ズームいろんなプラットフォームがレッスンツールとして登場した。
千冬はパラジソ語の講師だ。パラジソ語を習おうという生徒は多くはない。パラジソ国と取引がある企業や団体もそうたくさんはない。よほどの要件がない限り習う人がいないので、オンラインレッスンが主流でなかった頃は千冬は企業へ出かけていって研修を請け負っていた。
しかし、今は都内の語学学校が会議室を提供してくれている。この会議室を拠点に全国のパラジソ語を習いたいという希望者がオンラインレッスンで訪れる形式をとるようになった。そうすると、希少言語ハンターと呼ばれる人たちがレッスンを受けるようになった。
千冬は目が回るくらい忙しくなった。これも、ズームが大流行したおかげであった。
今日は企業研修だ。スクリーンの向こうにいる生徒のプレゼンは堂に入っていた。よくここまでこんな難しいことをマスターできたものだ。
千冬がこの生徒にかけてきた時間は、膨大だ。半年間で、授業数時間は360時間に達した。
大体が週一回の授業である。この生徒に至っては一日3時間を週5回、半年間続けてきた。もはや我が子並みに愛着を持っているのである。
青年がパラジソ語を習った理由は、所属団体からパラジソ国への派遣が決まったからである。NGOの職員としチナリコでシビルコントロールを行うことがこの青年の赴任地での任務であった。
最初の授業の時、青年はパラジソ文字が右から左へ書くことさえ知らなかった。360時間の特訓の末、彼は短いプレゼンさえこなすようになったのである。
ちょっと涙ぐんだ千冬に思わず目を剥く青年。
「先生、どうしました?どうして泣くんです?」
「嬉しいからに決まってますよ。だって、こんなにパラジソ語が上達した生徒はいないですから」
「先生に喜んでほしくて、授業に向けて予習をたくさんしました」
「確かによく勉強されているのが分かります」
この生徒とはもう二度と会うこともあるまい。出国したら、きっと、記憶からも消えていくだろう。
パソコン画面の男性の後ろに女性がひょこっと顔を出した。この青年の恋人だった。この女性も千冬の生徒だった。同じ組織内の恋人がパラジソ国に行くからレッスンをと頼んできたのはこの女性だった。
「先生!こいつは、いい生徒でした?」
「私史上ナンバーワンです!」
青年とその恋人は、半年間の渡航前研修の修了を祝うと言って、千冬に手を振ってスクリーンから消えていった。
千冬は会議室で一人だった。
教室というひとつの部屋から一日中外へ出ることもなく、朝から晩までズームの画面に生徒を迎え入れ、授業をこなし、生徒に「お疲れ様です」と手を振り別れを告げる。それが、千冬の仕事だった。
千冬は、1日平均10時間の授業をこなしている。この7平方メートルの部屋が千冬の全てだった。千冬は、もうとっくに四十路に到達していた。
千冬は大学を卒業した後、日本のパラジソ国現地法人で働いた。パラジソ語を操れる唯一の社員として、本社から絶大な信頼を得ていた。
千冬が順風満帆なキャリアウーマンとしての生活にピリオドを打って、この7平米に籠ったのは理由があった。
千冬は30歳になったばかりの頃、大きなプロジェクトを任された。遣り甲斐のある仕事だった。夢中で取り組んだ。血が沸き上がるようなエキサイティングな日々を送った。会社からの評価はうなぎ登りだった。
「私は生きている!」
千冬はいつもそう口にしていた。
しかし、千冬は恋人の心をいつも置き去りにしていた。千冬は遠い母国で暮らす恋人が毎日のように電話をしてきたり、ファックスを送ってきてくれても、まともに返信を返したり、電話も長く話し込んだりしなかった。男が女々しく逢えないことを寂しがることが不思議だったのだ。
だが、千冬は千冬で恋人を愛していた。プロジェクトが終われば、一時帰国できる。そうしたらプロポーズに応えようと思っていた。
しかし、その日は来なかった。千冬の恋人は、恋より仕事を優先させる千冬に愛想を尽かした。別れようと言われて初めて、千冬は理解した。仕事はパートナーになり得ない。自分を心から愛してくれる人こそ人生のパートナーであり、得難い人生の宝石なのだということを。
泣いて縋ったが、もう遅かった。他の女性との間に愛の結晶を設けたことを聞いて、千冬の心は崩壊した。プロジェクトにも身が入らなくなり、千冬は全てを失った。
帰国して、千冬は、この狭いレッスン部屋に籠るようになったのだった。
レッスンごとにギャラが出る仕組みだから、レッスンをこなさないと話にならない。しかし、マイナー言語を習ってくれる生徒には感謝しかないので、一生懸命レッスンを提供する、提供はするが……。
次の生徒がすでにズームミーティングルームへの入室許可を求めている。
「先生! ヒトカンテ!」
「ヒトカンテ! 堂垣内さん」
「先生、今日は、私が知りたいフレーズを教えてくださいませんか?」
「いいですよ!どんな?」
「まず、貴女は綺麗だ」
「――――」です。
「待ってください、チャットに書きますね」
「次は?」
「食事に行こう」
「^^^^^^ 」
「先生、パラジソ人女性ってどうなんでしょうね?」
「どうとは?」
「ワンナイトラブには応じてくれますかね?」
この手の男性生徒は少なくはない。語学教師は、何を理由にその語学を習得しようとしているかということを必ず最初に聞く。それがモチベーションになるからだ。授業でのアイスブレークに取り入れたり、単語をより多く覚えてもらうためには、モチベーションに関連することをレッスンに絡める。どうしてその言語が習いたいか、趣味がなにかということはとても重要だ。
どうして習いたいんですか?と聞くと、当該国の女性が綺麗だから、仲良くなりたいんですと応える生徒を千冬は受け入れることが最初はできなかった。
語学は真剣勝負なんだ。語学は修行なんだ。語学の勉強はアスリートの訓練なんだ。ラブアフェアーの為にあるんじゃないと思っていた。今でもそれは変わらない。声を大にして言わなくなっただけだ。なぜかと言うと。
ある時、さる日本企業から頼まれてパラジソ国からの研修生を3人ほど預かり、1日都内見学につきあった。研修生の一人がこっそりと打ち明けてきた。彼はまだ25歳だと言っていた。
「千冬さん、妻と半年も離れているなんて……」
「お寂しいですわね」
「堪えられません」
「分かりますよ。寂しい気持ちはよく分かります」
「いえ、そうじゃない」
「どういうことですか?」
「お願いします。その……分かりますよね? 私だけじゃないんです。他の2人だってよく我慢していると思う。紹介してくれませんか?」
千冬がもっと若かったら、ピンとさえ来ないだろうが、ああ、この子、私をオバサンと見込んでそういうことを言ってくるんだと思うと、もう、頭に血を上らせる労力さえ馬鹿らしくなった。
企業の担当者の男性にそっと耳打ちして対処してやってくださいと言っておいた。
先のオジサン生徒に戻ろう。こういうのをセクハラと言うべきなのか? しかし、百歩譲って男性というものを理解してあげるべきなんだろうと、千冬の顔につくり笑顔が張りついた。
「取引先の方ですか?」
「ええ、絶世の美女でしてね~」
「ワンナイトと言わずに一生のお相手にしては?」
「いや、妻がおりますから」
「あら~、恋には関係ございませんでしょう~。アタックあるのみですわね!」
「いや!先生!話の分かる方で良かった!ついでにベッドにいきましょうってなんて言うんですか?」
「ええ、―――――(このバカ女!)ですわ!」
「いや~先生、覚えました。結果をご報告しますよ!」
「楽しみですわね!」
女性をなめているようだ。日本人女性のように、曖昧に笑って誤魔化すような女性は欧米にはいない。あの男性が来週会った時に目の周りに痣をつくっていることは間違いないだろう。
ニコニコして中年男性はズームから消えていった。
「先生!レオーナ(さようなら!)」
「レオーナ!」
狭い部屋で朝から晩まで次から次へと我儘な生徒を相手にすることで、千冬は人格破綻への道をまっしぐらに進んでいる。
千冬は10時から21時まで過ごした7平米の広さを持つ教室を後にした。すでに思考ストップしていた。
千冬は次の日もまた次の日も9時半にはまたこの部屋に入室する。ドアには、「パラジソ語」というプレートが付いている。つまり千冬の専用部屋だ。
四方を白い壁に囲まれているこの部屋にあるのは、テーブルと椅子、そして、ホワイトボードのみだ。テーブルの上には語学レッスンに使うためのCDプレイヤーとPCが置いてある。
千冬は殺風景な部屋に、紫色の花弁が可愛らしい花を飾った。紫のクロッカスだ。
「焦燥」という花言葉のこの花は自分にはお似合いの花だと、千冬は自嘲した。でも見かけだけは可愛いらしいからいいのだ。
「先生!何かご用意できるものはありますか?」
スタッフが入ってくる。レッスンルームはモニターされている。以前は、まだ対面授業もあった。女性講師が多い語学レッスンという性質上、男性生徒と二人きりになることへの恐怖心を多少は軽減してくれる。天井に監視カメラがあるのだが、それはカメラのみであって、音声はスタッフルームには届かないことになっている。
「いえ、大丈夫です」
延々と続く、パラジソ語専用部屋でのレッスン。この部屋で生徒を迎えるだけ。いや、この部屋と呼んでいいわけもない。だって、バーチャル空間で生徒と会っているのだし。自分が生徒のところに行くことはない。
スクールのスタッフが次はグループレッスンですからと告げた。
「先生、じゃあ、グループレッスンお願いします」
「先生!このグループは大手の企業さんでお得意様です。くれぐれもくっれっぐれもよろしくお願いいたしますね!」
言いたいことはわかっている。失礼があってはならぬというのでしょう。語学スクールにとっては、企業様は最良の顧客だ。だが、必ずしも勉強熱心とは限らない。会社に習わされている生徒と自分で自腹切っている生徒ではモチベーションは違う。
今朝のグループは3人だ。男性2人、女性1人。同じ会社の社員たちだ。
「「先生!おはようございます!」」
「先生、ゥイーッス!」
「ゥイーッスじゃなくて、ヒトカンテ!」
「「「ヒトカンテ!」」」
千冬の脳内で、叫びが爆発する。このお調子者めが!最近の若いもんは、ほんとに!千冬の脳内独り言が最近とみに過激化しているのだ。
「さあ、今日は、『私がお勧めしたいもの』というお題で作文をしてきてくれましたよね?」
「はい!」
「ピロ!(イエス)」」
「俺から発表します!」
「どうぞ!積極的でいいですね!」
「いや、全然練ってないから、最初にやって、ちゃんとやっている人にバトンタッチで先生の記憶からバイバイっすね!」
千冬の蟀谷に浮かぶ青筋に、この若い男は気づいていない。千冬は精一杯の笑顔で頷いた。
「俺が勧めたいのは、抹茶オレ」
最初の一言で、もう蟀谷爆発寸前の千冬、顔に貼り付けた笑顔を一層笑顔にした。
「ふ~んふん、それで?」
「スタヴォーの抹茶オレが俺的に最高!トリーズのが2番ね!」
「ほ~ほ~、なんで?」
「スタヴォーのは抹茶が濃いんだよね~!でも氷も多いから早いとこ呑んじゃわいといけないわけよ!薄くなるじゃん!」
このトボケた男をどうにかしてくれ!女性の生徒は失笑を嚙み殺して聞いている。もう一人の男性は苦虫を嚙み潰していた。彼と目があった。
千冬は、「いいのよ~面白いものね~」とでも言いたいかのような表情を瞳に込めて見返した。彼は少しほっとしたかのように目を伏せた。
「え~と、では、お勧めという表現ですが、▽▽では伝わらないので、◇◇と言いましょう」
「了解っす!」
「ピロ!でいいですからね」
「ウィ~ッス!」
千冬の蟀谷が限界を迎えそうだ。
「さて、次の方!」
「ピロ!私は、マスコットキャラクターです!」
千冬は笑顔を強めた。
「私のお勧めは、マスコットキャラクターのヘゲモモです!バイクでツーリングをするのが趣味なんですが、このキャラクターはあちこちの観光地にご当地ヘゲモモとして売られています」
「ああ、ご当地キティちゃんのように?」
「はい、そうです!」
「お~ほっほっほ!面白いですわね~!!」
「先生~ありがとうございます!渾身のプレゼンです~!」
千冬は頭痛がしてきた。もうどうにでもなれ!と頭の中には絶叫が響き渡っている。
「え~っと。ご当地の表現ですが、○○〇というのもいいのですが、αααにしてもいいですよね!」
「あ~、そっかぁ!そのほうがスッキリ~!」
こういうキャラクターは千冬曰く、生徒キャラである。可愛い子ぶって勉強が行き届かないことを誤魔化すタイプだ。
このクラスの授業は切なさいっぱいの授業だ。しかし、上得意の誰もが知っている大手企業の生徒だから、どんな生徒がこようと、不真面目が服着ている生徒が来ようと学校は受ける。
「さあ、では、お次の方お願いします」
「僕は朝勉(朝の勉強)の勧めです」
千冬の顔には心からの笑顔が浮かんだ。この生徒は優秀で何よりも真面目だ。ちょっと発音に難があるというのが玉にキズではあるが、他が完璧だ。私の推しだ!
「通勤ラッシュにはまらないように、朝早く出かけ、職場近くのドテール珈琲で勉強をします。勉強の内容は仕事のことだったり、パラジソ語だったりしますが、朝の1時間の勉強のおかげで、知識の吸収が進み、キャリア形成を促進したと思います」
「完璧!素晴らしいプレゼンです。単語選びも正確ですし、言うことなし!」
「ダビ。ありがとうございます」
推しは、あくまで謙虚だった。推しが、千冬をじっとみていた。
「先生、また来週」
「はい!また来週!」
終わった!やっとワンレッスン終わった。疲労が濃くなってきた。生徒に全てのエネルギーを持って行かれる。ああ、珈琲飲みたい!なのに、飲食禁止だ?100歩譲って弁当は食べないが、珈琲くらい飲ませてほしいのである。
「先生!お疲れ様でした!生徒さん、先生の授業はとても分かりやすくていいってメッセージが届きました。先生、どうぞ、ペットボトルの水です。」
「ありがとうございます…」
珈琲が欲しい。
すぐに次の生徒が入ってくる。
「どうぞ!」
「先生!宜しくお願いします」
「はい、よろしくお願いします。宿題はできましたか?」
「それが…今日は朝からトラブル対応に追われていて…」
「宿題を出したのは一週間前ですよ。今朝出したわけじゃあありません」
「すいません…」
千冬は満面の笑みを浮かべて生徒に対応する。きっと笑顔の裏にある真っ黒な感情をこの生徒は感じて背筋を寒くしているに違いない。
「さあ、では!宿題をやっていなくても、貴方にもその場を乗り切る社会人としての知恵があるでしょう!大丈夫ですよ。即興力で頑張るんですよ!」
「はい…誤魔化し力ってことですよね?」
「あら~やだ~。あくまで即興力です!」
千冬の目がギラっと光る。
「あ、はい」
「さあ、まずは、音読からですね!」
「××××、△△…!!!…ワ~」
「どうしました?」
「口が回りません!」
「なんて?」
笑顔を貼り付けたままの顔で零す。
「あの…何でもありません…」
「はい、じゃあ続けて~」
意地悪とスパルタの違いはなんだろうか?そこは怒りを持っているか、愛情を持っているかの差だろう。千冬は愛情を持ってしごいているのだから、意地悪ではないと自分に言い聞かせる。
千冬は、冒頭の生徒や推しの生徒との態度と、この生徒への態度が違うのは分かってはいた。しかし千冬は、女優のようにいろんな顔を持って生徒に接している。人によって態度を変えるなんて職業意識から来る以外の何ものでもないのだから、自分の矜持に問題は感じもしない。
そうよ、これはスパルタよ。
また、別の日の授業。
「先生、また、今日もオンラインが多いです。パンデミックの影響は致し方ないですね」
「了解です。私はいつもと何も変わらないです。いつもの部屋から、いつものホワイトボードを使っての授業ですから」
「先生、よろしくお願いします。いつもの3人組の授業ですけど、今日はお一人だけだそうです。先生のギャラはちゃんとグループレッスン料ですので」
「了解です」
つまり今日はお得意さんの企業レッスンだが、”推し”だけということだ。いい授業になりそうだな。
「ヒトカンテ!」
「ヒトカンテ、先生」
「今日は、お一人だそうですね」
「はい、全社一斉に在宅勤務になったんですよ。このほうがレッスンに出やすいはずなのに、彼奴らは…」
「まあ、仕方ありませんよ。では始めましょう!」
「ピロ!」
推しは、課題をよくこなしていた。受け答えも完璧だ。凄い凄い!偉い偉い!講師冥利に尽きる!
「はい!よくご理解されてますね!十分に力がついてきましたよ!素晴らしい!」
「ダビ (ありがとうございます)」
「何か、最後に質問はありますか?」
「質問じゃないけどいいですか?」
「はい、どうぞ!」
推しは、画面越しにジーっと見ている。そして、パラジソ語で言った。
「ハシリ パッシム キネ 」
千冬は、思わず、絶句した。
「ソズダ ベードシ キネパ」
「今日は、もうここまでにしましょうね。また、来週!!」
「待ってください!先生!先生!」
千冬は、セッションを終わらせた。何も考えまいとした。私はこの部屋で生きるのみだ。次の授業の、推しを含めた3人組の授業の時、推しは、ズームのプライベートチャットにメッセージを送ってきた。
千冬にしか見えないそのメッセージにはこうあった。
「ハシロ ベル」
千冬は見えないふりをした。推しは、ズームのバーチャル背景に クロッカスの花を背負い、千冬をじっと見つめていた。千冬は気づかぬふりをした。
千冬は今までの人生を振り返った。私にはこの部屋しかもう残っていない。失うことはできない。
千冬は部屋を失うことだけを怖れた。10年前、愛する人を失った。そして、仕事も失った。何もかも失った千冬は、この部屋にしがみついて生きてきた。
千冬には、確かな居場所だけが必要だった。人の心のような不確かなものをもう信じない。このレッスン部屋は、千冬にとって確かに己の場所だった。
スタッフが入ってきた。
「先生、クロッカスの鉢が届きましたよ。綺麗ですね。私を信じてくださいとか、貴女を待っていますっていう花言葉でしょう? 匿名ですけど、先生、心あたりありますか?」
「さあ、変人としか言いようないです。貴女もって行ってください」
「まあ、そう言わずに! お部屋が殺風景ですから、飾りますね」
そう言って、スタッフが白いテーブルに紫色のクロッカスを飾って帰っていった。カードがついていた。「「パシロ ベル」(私を信じてください)」
誰からの花かは分かっていた。授業終わりに、ずっと無視してきた推しに返答を与えた。
「梶原さん、宿題のことでコメントしますから、5分ほど残ってください」
「はい」
他の生徒はもうズームから落ちていた。
「ハシリ パッソ ソカミニ(私はこの部屋にいます)」
「ハシリ ミーア キネ ソカミニ(僕が、貴方の部屋になります)」
千冬は、心臓が止まるかと思うほどに驚愕した。部屋に?貴方が、私の部屋になるの?
推しは最初に紡いだ言葉をパラジソ語で何度も何度も呟いた。
「ハシリ パッシム キネ (貴女を愛している)」
「ソズダ ベードシ キネパ(貴女と未来を築きたい)」
千冬は、押しとどめてきた感情を解放することを10年ぶりに己に許した。画面越しに、彼が微笑んでいた。
「引っ越ししてらっしゃいますか? 僕の心に」
千冬は己の孤独という檻から出る決意をした。
「ええ、引っ越します。私、もう古物件だけど、いいの?」
「古物件は、使い込んだ良さがありますよ。クロッカスを飾って待っています」
「ふふふ、ダビ(ありがとう)」
レッスン部屋の孤独な囚人は己を足枷から放った。外に出ると、目が痛いほどの青空が広がっていた。
終
花言葉の種あかし:クロッカスには私を信じてください。待っていますの花言葉とともに、焦燥という言葉もある。梶原君は、良い意味を採用、千冬は悪い意味を信じていた。
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