「音」

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「音」

外で「ガツンッ!」と音がした。 鉄の棒で、コンクリートの壁を叩いたような音だ。 時計を見ると、夜の2時23分。 ここはワンルームマンションの二階、八つあるうちの、突き当りの部屋。 こんな夜中、誰がいったい……。 その音は、私の部屋の外からした。 それがまだ、他の部屋の前とか、遠いところから聞こえた音なら、こんなに心臓を締め付けられるように怯えたりしない。 けれどあの音は、明らかに私の住む部屋の前からした。 偶然出たような音ではない。 あきらかに、誰かが立てた音なのだ。 怒りを感じさせる音だ。 私に「怒っている」ことを知らせるために立てた音だ。 私に知らせたいのだ、「怒っている」と。 息を殺し、部屋の外の気配を探る。 立ち去るような足音はしなかった。 と言うことは、まだ部屋の前にいるのだろうか。 私の反応を、探っているのだろうか。 私と同じように、息を殺し、部屋の中で震える私の気配を探っているのだろうか。 物音を立てぬよう、玄関まで歩き、のぞき穴から外を見てみようか。 玄関の鍵は閉めているはずだ。 向こうに気づかれないようにさえすれば、危険はないはずだ。 ゆっくり、ゆっくりと、物音を立てず、悟られないように玄関にたどり着き、こっそりとのぞき穴から外を見ればいい。 けれど、それで本当に誰かがドアの向こうにいたら……。 誰かに恨まれるようなことをしただろうか。 それとも、単にからかい半分でマンションに迷い込んだ変質者だろうか。 どちらが怖いだろうか。 もし私がツイッターかなんかで、知らない間に誰かの気に入らないことを言っていて、家を突き止められたとしたら。 そいつは部屋の前で待っているのだろうか。 いつまで待っているのだろうか。 朝になれば消えてくれるのだろうか。 明日は来ないだろうか。 もし毎日来たらどうすればいいのだろうか。 物陰に隠れて、待ち伏せしていたらどうすればいいのだろうか。 時計を見た。 2時31分。 テレビはつけていなかった。 寝たふりをしていればいい。 けれど電気はつけている。 マンションの前に回り込めば、私の部屋に明かりがついていることはわかるだろう。 起きていると思われるだろうか。 もしかしたら、私が起きていることなど、最初から知っているのかも知れない。 足音はしない。 きっと、まだドアの向こうにいるに違いない。 いや、それは考え過ぎなのかも知れない。 もうとっくに、どこかに立ち去っているのかも知れない。 わからない。 わからない。 わからないのが怖い。 私が無反応なことにあきらめて帰ってくれるかもしれない。 けれどもし、帰ろうとして、私の部屋に明かりがついていることを知り、無視されたと感じたならば、また戻ってくるかもしれない。 その時は、さらなる怒りをぶつけてくるだろう。 「ちくしょう、ちくしょう、ちくしょう、ちくしょう!!!」 私はさっきから動けないでいる。 ドアの向こうで、誰かが私を探っているように思うから。 私は動けない。 見えるはずなんかないのに。 こっそり動けばいいのに。 ほんの少しでも動けば、きっとそれがバレてしまう。 背中に気配を感じる。 部屋の電気はつけているけれど、せまいキッチンの通路には、電気をつけていない。 背中に気配を感じる。 ドアの鍵はかけていたはずだ。 だから絶対に! 絶対に中に入れるはずはない。 ドアの鍵はかけていたはずだから。 ドアの鍵は、絶対にかけていただろうか。 振り返ることができない。 背中に気配を感じる。 大丈夫、大丈夫、大丈夫。 何の音もしていない。 いくらなんでも、何の音もさせずにマンションのドアを開けるのは不可能だ。 いない、いない、いない。 絶対に誰もいない。 私はゆっくり、ゆっくりと後ろを振り返った。 暗いキッチンには、誰もいなかった。 胸をなでおろす。 時間は……、2時52分。 もし誰かいるのなら、きっともっと他に物音がするはずだった。 だからきっと、もう誰もいない。 私はゆっくり、立ち上がった。 ゆっくり、立ち上がった。 物音をさせず。 気配を殺し。 まるで時間の流れが変わったように、ゆっくりと、ゆっくりと、玄関に向かった。 冷蔵庫の前にたどり着いた時、ほんの少し、床が軋んだ。 動くのをやめ、気配を探る。 大丈夫、気づかれてはいない。 私は再び、ゆっくりと、ゆっくりと、足を進めた。 あと三歩で、玄関にたどり着く。 ドアについた、のぞき穴から外を見ればいい。 きっと誰もいないはずだ。 もうずいぶん時間も立っている。 きっとさっきの音は、私の気のせいかなんかだったのだろう。 風で何かが倒れた音かも知れない。 あと二歩……。 何でもなかったのだ。 私は何をこんなに怯えているのだろう。 のぞき穴から外を覗いて、そこに誰もいないことを確認してもう寝よう。 疲れているのだ。 仕事がきつい。 あと一歩……。 今日も上司に叱られた。 営業先のお客からクレームがきたのだ。 酷い言葉を浴びせられた。 あと何年この仕事を続ければいいのだろう。 あと何年……、あと何十年……。 これから先、何か幸せなことはあるのだろうか。 私は玄関のドアに触れた。 そっとドアに顔を寄せ、のぞき穴から外を覗こうとしたその時、鍵がかかっていないことに気が付いた。 心臓が再び締め付けられるように恐怖を感じた。 「ガツンッ!」 背後から、再びその音がした。
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