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「甕(かめ)」
屋敷の土間の片隅には、大人の胸の高さほどもある、大きな黒い甕(かめ)があった。
その屋敷は、明治時代から続く地主の家で、土間だけでも五坪ほどの広さがあった。
玄関を開ければ目も眩むような光が差し込むが、雨の日なんかに玄関を閉めてしまえば、土間には一切の光の届かぬ陰鬱な闇が広がった。
甕は、その奥の片隅に忘れ去られたように置かれていた。
それはまるで、意識の戻らぬ寝たきりの老人のようでもあった。
甕はもともと、水を貯める目的で使われていた。
けれど屋敷に水道が引かれるようになって、使い道のなくなった甕は、ただひっそりと土間の片隅で冷たく乾いていた。
屋敷には二つの家族が住んでおり、屋敷の外の村も数えれば、その辺りには遠くも近くも血のつながった家族が少なくとも八つはあった。
屋敷に住む老人は、屋敷に親戚の子供やなんかが訪ねてくると、決まってする話があった。
土間にある、甕にまつわる話だった。
「あそこで昔、子供が死によった」そう言って、子供を怯えさせた。
それはただ、むかし甕を水貯めに使っていたころ、そこに近づく子供たちを戒めるためにした作り話だったかもしれない。
あるいは、本当にあった話なのかも知れない。
どちらかはわからない。
ただ、今でも老人は、屋敷を訪れる子供には必ずその話をした。
「あそこで昔、子供が死によった」
「どなんして死んだん?」ある日屋敷を訪れた、もはやどう繋がっているのかわからぬ血筋の親戚が訪ねてきて、その子供が問うた。年はまだ、五歳を二月(ふたつき)過ぎたばかりの幼子だった。
「溺れよったんじゃ」老人は、まるで歯を失った歯茎(しけい)で何かを食(は)むようにそう言った。
老人は、明らかにその子供の怯える姿を楽しんでいた。
「あん中で、子供が溺れるん?」
「ああそうや。あん中には、むかし水が蓄えられちょった。そん中で死によった。頭からずぽんっ、とはまって、溺れ死にじゃ」
子供はまるで、自分がその甕の中で溺れているような気になり、口の中に冷たい唾液が湧き上がるのを感じて身を震わせた。
「どして誰も助けなんだん?」
「だーれも、気づきやせなんだ」
「誰も?」
「ああ、そんじゃ。夜に子供が、土間に水さ飲みに行ったまま、帰ってこんよになった。おっかんも、おっとんも、家じゅうのもんが屋敷の中を探しまわりんよった。けんど、子供はどこにもおらんかった」
子供はその話を聞いて唾を飲み込んだ。
「朝んなって、家ん外も探したさ。近所のもんもみーんな出てきて、裏の山まで探しに行きよったが、どこにもみつかりよらんかった。そしたら家ん中にいたばっさんが、粥を作ろとして土間に降りた時、甕の蓋があいちょるのにおかしかえ、と思んで近づきよった。すると甕ん中に、子供の裸足の足が見えよった。甕の中で逆さにひっくり返りよって溺れて死んだ、子供の足やった」
子供は土間の方に目をやった。
「今はもう水さ入っとらん。安心せい。けんど、近づくな。子供は近づくな。子供は消える」
子供はその日、親とともに屋敷に泊まった。
二十畳はあろうかと言うだだっ広い部屋の真ん中に、ぽつんと布団を敷かれそこに寝かされた。
隣に母親が寝ていたが、その母親が寝息を立て始めると、子供はどうにも落ち着かない気分になった。
子供は部屋を見回した。
部屋の隅には小さな丸いテーブルとポット、その上には盆にのせられた急須と二つの湯飲み。湯飲みの中には熱くて飲めなかった渋いお茶が、今では冷たくなって残っていた。
隣の部屋とは襖で仕切られており、その襖の上にはカツカツと音を鳴らす大きな時計と、額に入れられた黒い岩の絵が飾られていた。
子供は喉が渇いた。
無性に喉が渇いた。
あるいは少し夢を見ていたような気もする。
巻きあがる砂の中を歩く夢だ。
目が覚めて、痛むほどに喉が渇いていた。
テーブルの上の湯飲みを見た。
あれを飲もうか。
そう思って布団から這い出た。
どう言うわけか、湯飲みの中は空っぽだった。
いやおかしい。
絶対に、自分の湯飲みには寝る前に茶が入っていたはずだ。
けれどどうしてもそこに茶は入っていなかった。
知らぬ間に、母親が飲んでしまったのかも知れなかった。
そう納得するしかなかった。
子供は立ち上がった。
母親を起こそうか、そうとも考えた。
母親の布団の隣に座り、布団のふくらみを揺さぶった。
母親は起きなかった。
死んでいるように思えた。
母親の死体を揺り動かしているような気分になった。
夜の間は死んでいるのかもしれない。そう思った。
ふと誰かに呼ばれたような気がした。
見回したが誰もいない。
顔を上げると黒い岩の絵が目に入った。
じっと見つめると、その岩はゆらゆらと揺れているように見えた。
子供はしばらくその絵をじっと見つめた。
カツカツカツ、と時計の音がした。
子供は立ち上がった。
どうにも喉が渇いた。
我慢できない。
子供は襖を開けて、隣の誰もいない部屋に入った。
誰もいない、真っ暗な部屋だった。
子供は死んだ母親のいる部屋に戻った。
しばらく考えた後、もう一方の襖を開けた。
廊下に出た。
右か左か迷った後、左に行くことにした。
真ん中を歩くとミシミシと音がしたので端っこを歩くことにした。
それでもやはり、しばらく歩くとミシミシと音がした。
振り返ると、自分が最初にいた部屋がどこなのかわからなかった。
子供は心細くなり、その場に立ち尽くした。
どうにも動くことができなくなった。
尿意をもよおし、気が付くと温かいものが足をつたっていた。
ぽちゃんっ、と水滴の落ちる音がした。
子供はその音に耳を澄ませた。
ぽちゃんっ。音は大げさなほどに耳の奥に響いた。
どこから……。
ぽちゃんっ。
子供は再び廊下を歩き出した。
その水の音のする方に向かって。
ぽちゃんっ。
気が付くと子供は土間に立っていた。
素足で立つと、固められた土の感触がざらざらと冷たく足の裏にひっついた。
ぽちゃんっ。
子供は音のする方に近づいた。
そこには、昼間に老人から近づくなと諭された甕があった。
水がないと言う言葉を思い出したが。
ぽちゃんっ。
確かにその甕に水滴の落ちる音がした。
子供はけれど、どこから水が落ちるのだろうと天井を見上げた。
ぽちゃんっ。
けれどそこはあまりに暗く、目で確かめられるようなものは何もなかった。
子供はあきらめ、甕に近づいた。
ぽちゃんっ。
甕は子供と同じくらいの高さがあった。
子供は背伸びをしたけれど、その中をよく見ることができなかった。
ぽちゃんっ。
子供は手を伸ばし、甕の中に手を入れてみた。
甕の中から手が伸びて、手首をつかんで引っ張りこむのではないかという想像をし、子供は怖くなって手を引っ込めた。
ぽちゃんっ。
でもやはり、気になった。
それに喉が渇いていた。
その甕の中に水があるのなら、どうしても飲んでみたい。
子供はなぜか、そう思った。
ぽちゃんっ。
子供は周りに台になるものはないか探した。けれど、そんなものはどこにもなかった。
それに水をすくうものも、何も見当たらなかった。
ぽちゃんっ。
「飲みたか?」どこかからそんな声がした。
子供は周りを見回した。
けれど、そこには誰もいなかった。
子供の声のように思えた。
ぽちゃんっ。
「飲みたかろ?」
その声は、甕の中から聞こえた気がした。
子供は中が気になって、甕に両手をかけて背伸びをしてみた。
けれどやはり、中を覗くことはできなかった。
ぽちゃんっ。
「飲みたかろ?」
やはり声は甕の中からした。
子供はついに飛び上がり、どうしても中を覗こうとした。
ぴょんぴょんとぴょんぴょんと、何度も何度も飛び上がっては中を見た。
ぽちゃんっ。
「飲みたかろ?」
けれど真っ暗な土間では、いくら飛んでも中の様子を目にすることはできなかった。
やがて喉の渇きはいっそうひどくなった。
喉の中がくっつきあい、張り付いて呼吸が苦しくなった
ぽちゃんっ。
「飲みたかろ?」
子供はついに限界だと思い、擦れる声で甕の中に返事をした。
「飲みたい」
その瞬間、子供は足首を誰かにぎゅっと握り締められるのを感じ、そのまま持ち上げられ、甕の中に逆さにどぽんっと沈められた。
暗く狭い甕の水の中で、子供は五人の子供がそこにいるのを知った。
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