「凪(なぎ)」

1/1
前へ
/6ページ
次へ

「凪(なぎ)」

海はそのものの色を持たない。 鏡だ。 空が青ければ青くなるし、暗闇なら黒くなる。 太陽が光ればその光を反射し、雲が浮かべば海にも雲が浮かぶ。 だいぶ流されちまったみたいだ。 さっきまで見えていた陸地の明かりは、もうどこにも見えない。 陽が沈んで数時間が経った。 船のエンジンが壊れただけならまだしも、無線も使えない。 なんだってんだ。 なんだってんだ……。 取り残された。 帰るところだったんだ。 港に、帰ろうとした。 もう夜になるから。 豊漁だった。 こんなにたくさんの魚、現役で漁師をやっていたときでさえ、獲れたことはなかった。 いけすが溢れそうだ。 けれど、いつまでもつか……。 いけすに空気を送り込むポンプも止まっちまった。 すぐに魚は窒息して浮いてくるだろう。 逃がしてやるか。 それしかないか。 ずいぶん年を取ってしまった。 ずっと漁師をやってきた。 結婚して、息子を持って、その息子と漁に出る。 それが夢だった。 けれど、子供はできなかった。 結婚はしたけれど、子供はできなかった。 俺はだから、いつでも独りで漁に出た。 やがて嫁は死んだ。 俺を置いて死んだ。 老いて、痩せこけ、眠るように死んだ。 息子を残さず、幸せだったとも不幸だったとも言わず、ただ何事もなかったように死んだ。 俺には結局何も残らなかった。 また元に戻った。 独りに戻った。 ただ、年を取っただけだった。 今でもたまに漁に出る。 体と空の調子のいい時だけだ。 けれどまさか、船の調子が悪くなるなんて、考えてもいなかった。 無線も使えない。 周りの船とも、陸地とも、連絡が取れない。 このまま流されちまうのか。 このまま死んじまうのか。 海のただ中で、俺は死んじまうのか。 風がやんだ。 俺を沖に流すだけ流しやがって、風のやつはやんでしまった。 潮も動かない。 どうなっちまったんだ。 もうどこにも動けない。 どうなっちまったんだ。 漁船の真ん中で立ち尽くした。 右を見ても、左を見ても、なんにも見えやしない。 真上に月が浮かんでやがる。 真上から俺を見下ろしてやがる。 そんなにじろじろ俺のことを見てどうしようってんだ。 落ちてきそうだな。 俺の真上に、落ちてきそうだな、月。 月はどうしてずーっと見てられるんだ? 太陽は、眩しくって眩しくって、じっとなんか見てられない。 けれどお前は、どうしてじっと見てても大丈夫なんだ? おぅ、月よ? なんとか言いやがれ? こんな海、見たことない。 凪。 鏡のような、凪。 いっさい波が立たない。 ひと吹きの風もない。 流れもない。 まるで鏡の真ん中にぽつんと船を浮かべたようだ。 俺は海を見た。 船のへりに四つん這いになって、海を見た。 そこには星が見えた。 こんなことってあるか? 鏡のような水面に、無数の星が光っていた。 これじゃあ、どっちが空かわかりゃしない。 水平線を見た。 そこには空と海の境目がなかった。 海に映った空は空そのもので、その空と空の間に境目などあるはずがなかった。 俺はいったい、どこにいるんだ。 ここはいったい、どこだっていうんだ。 静けさが耳をつんざいた。 無風。 ほんの少しでも風が吹けば、海がさざめき立ち、そのさざめきが船に当たって音がする。 無音。 けれど今は、時が止まったように空気が動かない。 息苦しい。 急に息苦しさを感じた。 はあ、はあ、はあ、とわざとらしく音をさせて呼吸をする。 けれど実感がない。 空気が止まっている。 空気が動かない。 空気が肺に入ってこない。 空気は止まったまま、そこから動こうとしない。 俺がいくら口を動かしても、胸の中で肺を膨らませようとも、空気は中に入ってこようとしない。 はあ、はあ、はあ……。 呼吸をしている気がしない。 駄目だ、駄目だ、溺れちまう。 はあ、はあ、はあ、はあ、はあ、はあ……。 必死に息をした。 はあ、はあ、はあ、はあ、はあ、はあ、はあ、はあ……。 駄目だ! 息が、息が! ここは、ここはいったいどこなんだ! 誰か、誰か! 俺は船にあおむけになり、目を閉じ、必死に呼吸を続けた。 はあ、はあ、はあ、はあ、はあ、はあ、はあ、はあ……。 目を開けると、俺は海を見下ろしていた。 「うわあっ!」と思わず声を上げた。 俺はいま、空を見上げていたはずなのに。 どうしてそこに海があるんだ。 空は、空はいったいどこにあるんだ。 違う……、違う、落ち着け、あれが……、あれが空だ。 はあ、はあ、はあ、はあ……。 俺はいま、ちゃんと空を見上げている。 だってそうじゃないか。 星は、星は空に浮いているもんじゃないか。 だから大丈夫だ。 俺が今見上げているのは空なんだ。 脅かしやがって。 はあ、はあ、はあ……。 俺は起き上がり、船の下を見下ろした。 こいつが、こいつが悪いんだ。 この海が、俺を騙しやがるから。 船の下にも、星空が広がっていた。 これを、この空を、なんとかしなけりゃいけない。 この星空をぶっ壊して、もとの海に戻すんだ。 くそっ、くそっ、くそっ、俺をバカにしやがって! どいつもこいつも、俺をバカにしやがって! くそっ、くそっ、くそっ! はあ、はあ、はあ……。 この海め! この海め! この海め! 何とか言いやがれ! 俺が、俺が……。 俺は船から乗り出して、海に向かって手を伸ばした。 届かない、届かない。 こんちくしょう! こんちくしょう! 俺は、俺は! 急に大きな風が吹き、船が傾いた。 伸ばした手が何かに引っ張られるように、俺は「ずぽんっ!」と海に引きずり込まれた。 息を吸い込むと、鼻と口からごぼごぼと冷たい水が流れ込んだ。 吸っても吸っても、吸っても吸っても、肺の隅々まで水が流れ込んできた。 吐き出すのも水、吸い込むのも水、俺は喉を掻きむしり、肺に残った最後の空気の泡を吐き出し、海の底へと沈んでいった。
/6ページ

最初のコメントを投稿しよう!

4人が本棚に入れています
本棚に追加