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「凪(なぎ)」
海はそのものの色を持たない。
鏡だ。
空が青ければ青くなるし、暗闇なら黒くなる。
太陽が光ればその光を反射し、雲が浮かべば海にも雲が浮かぶ。
だいぶ流されちまったみたいだ。
さっきまで見えていた陸地の明かりは、もうどこにも見えない。
陽が沈んで数時間が経った。
船のエンジンが壊れただけならまだしも、無線も使えない。
なんだってんだ。
なんだってんだ……。
取り残された。
帰るところだったんだ。
港に、帰ろうとした。
もう夜になるから。
豊漁だった。
こんなにたくさんの魚、現役で漁師をやっていたときでさえ、獲れたことはなかった。
いけすが溢れそうだ。
けれど、いつまでもつか……。
いけすに空気を送り込むポンプも止まっちまった。
すぐに魚は窒息して浮いてくるだろう。
逃がしてやるか。
それしかないか。
ずいぶん年を取ってしまった。
ずっと漁師をやってきた。
結婚して、息子を持って、その息子と漁に出る。
それが夢だった。
けれど、子供はできなかった。
結婚はしたけれど、子供はできなかった。
俺はだから、いつでも独りで漁に出た。
やがて嫁は死んだ。
俺を置いて死んだ。
老いて、痩せこけ、眠るように死んだ。
息子を残さず、幸せだったとも不幸だったとも言わず、ただ何事もなかったように死んだ。
俺には結局何も残らなかった。
また元に戻った。
独りに戻った。
ただ、年を取っただけだった。
今でもたまに漁に出る。
体と空の調子のいい時だけだ。
けれどまさか、船の調子が悪くなるなんて、考えてもいなかった。
無線も使えない。
周りの船とも、陸地とも、連絡が取れない。
このまま流されちまうのか。
このまま死んじまうのか。
海のただ中で、俺は死んじまうのか。
風がやんだ。
俺を沖に流すだけ流しやがって、風のやつはやんでしまった。
潮も動かない。
どうなっちまったんだ。
もうどこにも動けない。
どうなっちまったんだ。
漁船の真ん中で立ち尽くした。
右を見ても、左を見ても、なんにも見えやしない。
真上に月が浮かんでやがる。
真上から俺を見下ろしてやがる。
そんなにじろじろ俺のことを見てどうしようってんだ。
落ちてきそうだな。
俺の真上に、落ちてきそうだな、月。
月はどうしてずーっと見てられるんだ?
太陽は、眩しくって眩しくって、じっとなんか見てられない。
けれどお前は、どうしてじっと見てても大丈夫なんだ?
おぅ、月よ?
なんとか言いやがれ?
こんな海、見たことない。
凪。
鏡のような、凪。
いっさい波が立たない。
ひと吹きの風もない。
流れもない。
まるで鏡の真ん中にぽつんと船を浮かべたようだ。
俺は海を見た。
船のへりに四つん這いになって、海を見た。
そこには星が見えた。
こんなことってあるか?
鏡のような水面に、無数の星が光っていた。
これじゃあ、どっちが空かわかりゃしない。
水平線を見た。
そこには空と海の境目がなかった。
海に映った空は空そのもので、その空と空の間に境目などあるはずがなかった。
俺はいったい、どこにいるんだ。
ここはいったい、どこだっていうんだ。
静けさが耳をつんざいた。
無風。
ほんの少しでも風が吹けば、海がさざめき立ち、そのさざめきが船に当たって音がする。
無音。
けれど今は、時が止まったように空気が動かない。
息苦しい。
急に息苦しさを感じた。
はあ、はあ、はあ、とわざとらしく音をさせて呼吸をする。
けれど実感がない。
空気が止まっている。
空気が動かない。
空気が肺に入ってこない。
空気は止まったまま、そこから動こうとしない。
俺がいくら口を動かしても、胸の中で肺を膨らませようとも、空気は中に入ってこようとしない。
はあ、はあ、はあ……。
呼吸をしている気がしない。
駄目だ、駄目だ、溺れちまう。
はあ、はあ、はあ、はあ、はあ、はあ……。
必死に息をした。
はあ、はあ、はあ、はあ、はあ、はあ、はあ、はあ……。
駄目だ! 息が、息が!
ここは、ここはいったいどこなんだ!
誰か、誰か!
俺は船にあおむけになり、目を閉じ、必死に呼吸を続けた。
はあ、はあ、はあ、はあ、はあ、はあ、はあ、はあ……。
目を開けると、俺は海を見下ろしていた。
「うわあっ!」と思わず声を上げた。
俺はいま、空を見上げていたはずなのに。
どうしてそこに海があるんだ。
空は、空はいったいどこにあるんだ。
違う……、違う、落ち着け、あれが……、あれが空だ。
はあ、はあ、はあ、はあ……。
俺はいま、ちゃんと空を見上げている。
だってそうじゃないか。
星は、星は空に浮いているもんじゃないか。
だから大丈夫だ。
俺が今見上げているのは空なんだ。
脅かしやがって。
はあ、はあ、はあ……。
俺は起き上がり、船の下を見下ろした。
こいつが、こいつが悪いんだ。
この海が、俺を騙しやがるから。
船の下にも、星空が広がっていた。
これを、この空を、なんとかしなけりゃいけない。
この星空をぶっ壊して、もとの海に戻すんだ。
くそっ、くそっ、くそっ、俺をバカにしやがって!
どいつもこいつも、俺をバカにしやがって!
くそっ、くそっ、くそっ!
はあ、はあ、はあ……。
この海め! この海め! この海め!
何とか言いやがれ!
俺が、俺が……。
俺は船から乗り出して、海に向かって手を伸ばした。
届かない、届かない。
こんちくしょう! こんちくしょう!
俺は、俺は!
急に大きな風が吹き、船が傾いた。
伸ばした手が何かに引っ張られるように、俺は「ずぽんっ!」と海に引きずり込まれた。
息を吸い込むと、鼻と口からごぼごぼと冷たい水が流れ込んだ。
吸っても吸っても、吸っても吸っても、肺の隅々まで水が流れ込んできた。
吐き出すのも水、吸い込むのも水、俺は喉を掻きむしり、肺に残った最後の空気の泡を吐き出し、海の底へと沈んでいった。
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