「夜道」

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「夜道」

だから嫌だったんだ……。 私は駆けだしたい気持ちを押さえながら、田舎の夜道を独りで足早に歩いた。 走っては駄目だ。 奴らを刺激しては駄目だ。 平静を装って、刺激しないようにしなければ。 どうすればいい……。 どうすればいい……。 もうすぐ街灯の無い道を通らなければならない。 街灯の無い道を、二百メートルほど。 もう戻ることもできない。 そんな恐ろしいことはできない。 旧家に戻るには二キロもの道を戻らなければならない。 だから嫌だったんだ。 旧家では毎年のように葬式をしている。 今年はもう二度目だ。 どうなっているんだあの家は……。 どうなっているんだあの家は……。 旧家を継ぐ者が年寄りばかりなので仕方はないが、どうしてあの家はこんなに人が死ぬんだ。 そもそも私には関係のないことだ。 私には血のつながりなんてほとんどない。 だから嫌だったんだ、ちくしょう! あんな家の葬式に呼ばれるなんて。 でも今はそんなことどうでもいい。 どうでもいいことなんだ。 どうしよう……。 どうしよう……。 いったい何匹いるんだ? 最初、それは一匹だった。 田んぼの間を抜ける一本道。 今はもう稲刈りも終え、田んぼに水は張られていない。 道に沿って街灯はあるが、両側に延々と広がる田んぼに明かりはない。 延々と広がる闇と言ってもいい。 延々と広がる黒と言ってもいい。 目に見えない。 そこには何もないと言ってもいい。 最初、それは一匹だった。 獣の足音がした。 その歩行のリズムから推察するに、二本足ではない。 四本足で走っている。 一本道に並行するように、つまり私と並んで走っている。 距離を置いて、私には見えない距離を、私と並んで走っている。 四本足で走っている。 イタチや猫のような小さな動物ではない。 犬のような雰囲気でもない。 はっ、はっ、はっ……、と呼吸の音が聞こえない。 足音、それ以外は聞こえない。 手足は長いようだ。 かなり大きい動物だ。 姿は見えない。 黒に溶け込み、足音だけで追いかけてくる。 最初、鹿かとも思った。 けれど、そんな温和な動物の雰囲気ではない。 明らかな意志を持って、私の横をついてくる。 私を見ている。 私に興味を持っている。 あわよくば、襲い掛かろうとでも言うように。 最初、それは一匹だった。 田んぼの間を抜ける一本道は、もうすぐ終わる。 ここから私は、道をそれて、家へと続く暗闇を抜けなければならない。 普段はこんな遅くに出歩いたりしない。 ちくしょう! だから嫌だったんだ。 ちくしょう! ちくしょう、ちくしょう、ちくしょう! こんなことになったのも、こんな夜中に出歩かなければならなくなったのも、あのちくしょう家のちくしょうの一人が死んだからだ! 懐中電灯を持っている。 けれど夜道の石ころを避ける程度にしか使えない。 これを向けてあいつらの姿を確認することはできない。 ほんの足元を照らす程度の光しかない。 最初、それは一匹だったんだ。 手足の長い獣が、得体の知れない獣が、獣かどうかすらわからない何かが、私を追うように走ってきた。 獣ではないかもしれない。 何らかの知性を持っているように感じられる。 私の怯える姿を楽しんでいるように思える。 からかっているように思える。 化け物だ。 あれは化け物だ。 私を食うとしても、獣のように噛みついてきたりはしないだろう。 脅かし、怯える私を楽しみ、ひと噛みで命を奪わず、もてあそび、いたぶり、痛みと恐怖に歪む私の姿で食欲を増し、口腔に唾液を溢れさせ、むしゃぶりつくように味わいながら殺すのだろう。 あれは化け物だ。 この世のものではない。 そして最初、それは一匹だったんだ。 田んぼの向こうは山になっている。 田んぼと山の境目は、暗闇と言う黒に塗られてどこからが山かわからない。 最初の一匹は、気が付くとそこにいた。 けれど他の化け物は、最初の一匹に呼ばれるように、山の方から走り寄ってきた。 二匹、三匹、四匹、五匹……、その数はどんどん増していった。 右からも、左からも、田んぼのその向こうにある暗闇から、蜂の巣を突いたみたいに無数に増えていった。 何匹いるのかわからない。 化け物だ。 見たこともない化け物だ。 夜にだけ現れるのだろう。 この世ではないところから、夜にだけ現れるのだろう。 私は街灯のある一本道から右に逸れ、暗闇の中に入った。 化け物たちのいる暗闇の中に入った。 家までは二百メートルほど。 懐中電灯をつける。 握り締める。 命綱のように握り締める。 けれどそれは、どこにもつながってなどいない。 化け物の群れも、方向を変えた。 私についてくる。 一定の距離を置いて、平行に走ってくる。 遠くに自動車の走る音がした。 そちらに目を向ける。 こちらに向かって走ってくる。 どこかの農家の軽トラックだろうか。 助かった。 助けてもらおう。 前に飛び出してでも、止まってもらおう。 大声を上げ、両手を振り上げて止めるんだ。 「お願い、お願いですから、助けてください! 変な化け物に追われているんです!」そう言って助けてもらおう。 助かった。 もう大丈夫。 助かったんだ。 けれど自動車は、私の歩く先にある十字路でスピードを落とした。 左に曲がろうとしている。 だめ、だめよ、曲がらないで、こっちに来て。 だめよ、そっちに行かないで! こっちよ、私はここにいるの、変な化け物に追われているの。 助けて……、助けて……、助けて……。 私は声をあげようとした。 けれどその声が届くほどに近くない。 助けて……、助けて……、助けて……。 私は走ろうとした。 けれど走って追いつく距離ではない。 助けて……、助けて……、助けて……。 私は何かに躓き、転んでしまった。 手に持っていた懐中電灯を手放してしまった。 懐中電灯はどこかに転がり、落ちる音がして明かりを消した。 待って……、待って……、待って……。 私は黒の一部になった。 助けて……、助けて……、助けて……。 自動車が左に曲がる瞬間、ライトが私の周りを照らし出した。 私は暗闇に目をやった。 何百と言う緑色のまあるい目が、光を反射して私を見つめていた。 最初、それは一匹だったんだ。 最初、私は一匹だったんだ。
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