四、白い部屋:「鍵を壊さないで」

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四、白い部屋:「鍵を壊さないで」

 受験を受けに行った日、引率の熊先生と校門で待ち合わせした。すると先生の前には私以外の受ける生徒が七人いて、その中にあの時の美少女がいた。 けれど、目が合っただけで特に会話もなく試験会場の教室へ。 うちの高校からは結局彼女と私と二人の男子が受かっただけらしい。  合格の連絡は母がしてくれて、父が両手にケーキとフライドチキンを持って走って帰ってきてくれた。それだけで私は嬉しくて満足で幸せだった。  卒業式は行かず、アルバムは先生が持ってきてくれた。寄せ書きに先生たちが書いてくれていて、少しだけ涙が滲んだ。  先生たちはもちろん仕事で、私みたいな不登校の生徒にも平等に接しなきゃいけないだけで、これだって最後の偽善かもしれない。 『壁を飛び超えろ! 巳波』  クマ先生は最後まで熱血でいい人だった。頭が少し禿かけていたけど、こんないい先生だ。神様、先生の髪をお守りください。  こんなに優しい言葉をくれる先生に唯一できることはそんなお祈りだけだから。  それから再び高校へ行ったのは制服の採寸。  外では陸上部がグラウンドを何周も走っていた。  そして走り幅跳びをする生徒の中に、ひと際目立ち、足の長い綺麗な女の子が並んでいて、すぐにあの時の美少女と分かった。  私より受験番号が早かったから、苗字は『み』より上。それぐらいしか彼女の情報がない。でもまだ入学していないのに部活に参加しているのを見ると、彼女は有名と評判の陸上部に入るためにここを受験したようだ。  母はさっそく採寸で並んでいた他の保護者と意気投合して会話が盛り上がっている。  私は紺色のワンピースと上靴がトイレのスリッパみたいな青色なのと、可愛くないサラリーマンが持ちそうな皮のバッグに嘆息する。  どうしても自分のものとは思えない制服に、三年間で慣れてくれるのかなって。 「生徒手帳の写真撮って帰ろっか。証明写真じゃだめよ。あれは誰が撮っても盛れないの」 「盛れないって。普通でいいのに」  でも採寸帰りに寄れるような写真屋さんの心当たりがなくて車の中で母と携帯で探す。 「……あ」 「見つけた?」 「修正とか加工してくれる写真屋さん、商店街の画材屋の上にあるんだって」 「商店街かあ。車停めるとこ探してるから先に行ってみてくれる?」  すぐに向かった商店街で、写真屋さんはあったかみのあるおじいさんとおばあさんの二人で、入ってすぐに赤ちゃんの写真を撮っているのが見えた。  予約していないことと生徒手帳の写真を撮りたいって伝えたら、おばあさんが奥の小さな部屋に案内してくれた。 「いつもなら息子もいるんだけどねえ。今はブラスバンド部が試合の応援に出てて、その撮影を頼まれたらしくてねえ」 「そうなんですね」 「東高校の専属カメラマンしてるの。結構イケメンだから今度は息子見においで」  自慢げに息子さんの写真を見せてくれる始末。  深く帽子をかぶって片目だけ睨みつけるようにカメラを見つめる息子さん、確かに渋くて若い。これは自慢したくなるのかもしれない。 「そう。自慢したくなるぐらいイケメンなのよお」  ふふって嬉しそうに話してくれて、途中『ん?』と不思議そうな顔をしていた。  でもその小さな異変は私には分からなかった。 「貴方、ちょっと寝不足だったのかしら。目の下の隈消してあげるわねえ。肌加工はこっちとこっち、どちらがいい?」 「え、原形残すぐらいの修正でお願いしますっ」  10回撮った写真の中で、唯一少し微笑んでいるように見える写真の肌を明るくし隈を飛ばし、実物よりやや良くなった。詐欺写真にはならなくて安心した。 「可愛いお嬢さん、またおいでね」  赤ちゃんを必死であやしながら写真を撮っているおじいさんも私に手を振ってくれる。  確かに彼が好きそうな暖かい場所。それとも彼が元々暖かい人だから良い人が寄ってくるのかな。  ……そして私みたいなこんなやつも。  階段を下りながら母にメールをしていると、画材屋さんの中に人影があった。  そちらに視線を向けると、茶髪で黒縁眼鏡の男の人が手に持っていた画材を落として、店長らしき人に怒られていた。  上から急に愛嬌のないブスが降りてきたから驚いたのかと、気にも留めずにメールをしたためていると、自動ドアが開いて男の人が飛び出してきた。 「待ってっ」  私の前に立ち憚った男の人は、少し驚いて口をパクパクしている。  驚きすぎて言葉が出てこないようだ。 「俺、大和!」 「……やまとさ、ん」  見覚えのある名前と黒縁眼鏡、そして茶髪に怪訝そうに見上げてしまった。 「えっと」 「真中と美術部の作品展を見に来てくれた子、だよね」 「--あっ」  カフェで流しそうめんした。  カフェで美術部の小さな作品展をしていた。  あの時の記憶がぶわっと白い部屋から飛び出してきそうになって慌てて首を振った。 「知りません」  逃げようと横をすり抜けると、彼は頭を両手で掻きながら再び言葉を探していた。  触らないでほしかった。 「ごめん、触って」  咄嗟に手を離すと、私の表情をじろじろ見て、悲しそうに微笑んだ。 「君たちが恋人だったのか違うのか、もう誰にも確かめられないけど。でも信じて。真中は君がとても好きだったんだ」  そんなこと今更だ。今更言われても、幸せだったあの日には戻れない。  だったら知らない方が私は幸せだ。 「真中は、君を描いていたよ。その絵を見れば、真中の気持ちが分かるはずだ」 「話はそれだけですか」 「今は辛いかもしれない。俺だって小学生の時からの友達だ。俺だってまだ受け止められない。ご両親だって妹さんだって、未だに前に進めていない」  もしも。  そんな途方もなく馬鹿な思いが浮かんだ。  もしもあの瞬間、私が事故にいち早く気づいて名前を呼べていたら。  そんな後悔が胸に押し寄せてくる。 「でも、君もそんな瞳をしてたからつい声をかけてしまったけど、でも。君はあの絵を見たらきっと前に進めると思う」 「……以前、見せてくれるって言われたまま。どこにあるのか分からないの」 「あ、だったら景十かも。あいつが今、真中の絵を全部預かってるんだ。連絡するからちょっとまって」  ごそごそとジーンズから携帯を取り出し、景十さんに連絡し出したけれど、私は彼に会ったことがある。無表情で怖い人。私が作ったレジンの下手くそなネックレスをしている人。  あの人ともう一度対峙しなければいけないのか。  今まで人から全力で逃げてきた私が、人と接しなければいけない。 「あのさ、俺、気持ち悪いかもしれないけど、でも真中が頑張って描いた絵が、見てほしい人に見てもらえないのは嫌なんだ。君が忘れたら、君が見つけなかったら、真中の思いが伝わらないままなんだって思うと、俺は悔しい」  電話でねえなあ、って苦笑しつつも大和さんは一生懸命私が逃げないよう、会話を途切れさせないように喋る。  「でも」  まるで録画していたドラマを巻き戻すように、交差点で手を振る真中さんが思い出された。  手を振っている。私を見つけて嬉しそうに手を振っている。  これからどこに連れて行ってくれるのかなって。でも私は少しだけ、自分の心が聴こえないように他人から逃げた。  その瞬間にあの人は、事故にあった。 『どうしてお兄ちゃんを連れ出したの!』 「ごめん。出ないな。また連絡するから、連絡先を――」 「私が待ち合わせしなければ、真中さんは事故に会わなかったの」   一歩後ずさる。もう一度後ずさると、大和さんが手を伸ばしてきた。  触らないで。私はひとごろしだ。私が待ち合わせしなければ、彼は外に出なかった。 「君はひとごろしなんかじゃないよ!」  大きく目を見開いたのは同時、だった。  どうして私の思っていたことが、彼に聞こえたのか。  首を振りながら後ずさる。いやだ。いや。聞かないで、聞こえないで。  私の心は私だけのもの。お願いだから聞こえないで。 「ま、まって」  聴こえないで。おねがい、きかないで。お願い、誰にも聞こえないで。  蓋をしなきゃ。部屋の鍵を閉めなきゃ。逃げなきゃ。  ひとごろしだって心の声で漏れてしまう。  鍵をしなければ。私の心に鍵を閉めて。もっともっと厳重に施錠して、一般人に混ざらなければ。  聞こえないで。漏れ出ないで。お願いだから私の心は誰にも聞こえないで。  聞かないで。真中さんへの思いをどうか、私の中に閉じ込めさせて。  誰にも。誰にも。誰にも聞こえる権利はない。私がもらったものだ。  真中さんの笑顔も声も優しい言葉も、全部私だけのもの。  鍵をかける。誰にも見せない。誰にも見られたくない。私の大切な真中さんだ。  鍵をかけるから、だからお願い。聞こえないで。  お願いだから、いい加減、私を普通の人間として生活させて。 「香澄ちゃん?」  クラクションと共に母が車から顔を出す。 「写真撮れたの? お母さん、駐車場待ちだったの」  商店街に唯一あったパーキングの前で車を寄せて待っていたらしい。  すぐに駆け寄って母の前に立った。  大丈夫、写真は撮れたよ。 「……どうしたの、香澄ちゃん」  だから写真、撮れたよ。 「おーい、香澄ちゃーん」 「……今、一瞬心の声が漏れたの」  震える私に、母は車から降りて助手席まで肩を抱いてくれた。 「なにかきっかけがあったのね。大丈夫よ。大丈夫」 「高校に普通に登校できるって思ったのに」 「大丈夫。聞こえてないよ。取り乱したり疲れちゃったら出るのかもね。大丈夫。大丈夫だからね」  母が何度も肩をさすってくれたので、私も頷く。  大丈夫。もしも真中さんがトリガーになってしまうなら、私は鍵をかけたから。  もうきっと大丈夫だ。誰にもこの思い出は触らせない。  真中さんが私みたいな、こんな自分勝手な女を好きだった記憶なんていらないよ。  私がひとごろしだったことは皆が知ってもいい。けれど、私が真中さんに沢山幸せをもらって、少しでも愛情を貰っていた存在だってことは、きっと誰にも届かなくていい。  彼の趣味が悪いとか、彼の評判が落ちてしまう。  出会わなければよかったのにねって、皆からナイフでズタズタにされてもいい。  結局家に帰ってから高熱が出て、三日三晩うなされた。  それからは家で引きこもった。幸いにも学校から入学式までに山のような宿題が出されたので、それに集中することで気は紛れた。  父が花見がしたいって庭でバーベキューを初めて、必死で汗をかきながらお肉を焼いてくれたので、縁側に座って三人で花見をした。小さな、桜の木の下。  いつか公園に咲く満開の桜が並ぶ下で、母たちと花見をしてみたいと思う。  私の鍵が頑丈になって、人がいる場所にいける勇気が持てたら、必ず行きたい。 ***  桜の木が緑色に染まりだし、地面は桜色の絨毯が広がる四月棒日。  高校の入学式は、親は参加しないらしい。不安半分と期待少しと母を不安にさせないですむ安心感から、校門の前で大きく息を吐いた。  紺色のワンピース型の制服。黒の靴下と指定されたハイブランドのローファー。  自分には不似合いな制服に着られている感覚。  校門から中を覗けば、体育館の前で名簿の確認をしている在校生と先生が数人見えた。 そして「おめでとうございます」って声と、他の在校生は休みのはずが二階や三階の窓から私たち入学生を観察している。その視線だけで緊張から吐き気が込み上げてくる。  今から、新入生200人がパイプ椅子に座って入学式。  その中に私も入ると思うと、不安しかない。もしそんな場所で心の声が聞こえ出したらどうしよう。やはり私なんか、一般人に紛れて生活しようと思ったのは身分不相応だったのかも。 「入らないの?」 「え、え?」 「さっきから、入らないのかなって思って」  後ろから声がして振り返ると、制服を着こなした美人――いや、何時ぞやの美少女が私を仁王立ちで睨んでいた。 「えっと、同じ中学だった」 「尼崎 星(あかり)。貴方は巳波香澄、だったよね?」 名前を初めて知った。あかりさんって言うのか。 尋ねられたので頷くと、腕を引っ張られた。 「急ごう。私、新入生代表の練習すっぽかして部活行ってたからまじで怒られるわ」 「新入生代表!」 ということは二百人中の首席合格者ってことじゃないの。 なのに私より遅くやってきて大丈夫なのかな。 本人は長い髪を背中に流しながら、悪びれもせず飄々としている。 「私さあ、巳波さんが春休みに陸上部に見学来るかなって期待してたんだけど」 「私が陸上部!? どうして!?」 「だってクマ先生が、巳波さんも陸上部に入るから世話してやれよって言ってたの。走り高跳び? 走り幅跳び?」 「いや、私、運動なんて全くしたことないし」  ぐいぐい掴まれ、一緒に受付に向かう。  するとはやり目立つ顔立ちで、堂々としたオーラの尼崎さんだ。新入生も在校生からも視線が集まってる。 「幅跳びなら一メートル七十を超えるのは難しいけど、きっと楽しいよ」  高校から陸上部に入る初心者は少なくないらしい。  私に陸上の楽しさを延々と語り続ける彼女は、棒高跳びで県大会二位の記録保持者らしい。  外で毎日練習してるから髪が痛んで茶色になったと漏らしているが、サラサラで綺麗で見惚れてるほど艶やかなのに。  もっと一匹狼みたいな近寄りがたい人かと思ったら、単に部活大好き人間だった模様。  同じ中学から陸上部に入るってだけで私に話しかけてくれたらしい。 「ああ、でも巳波さんて音に敏感で教室の音も辛いんだっけ。大丈夫なの?」 「うん。ありがとう。それは今、克服中。しっかり集中してたら大丈夫みたい」 「そお。……でも、私、見たんだけど」  言いにくそうに言いかけた言葉は、体育館に入る前に通った渡り廊下で途切れた。  渡り廊下に見覚えのある男の人が立っていた。看板に『体育館はこちらです』って書かれているから案内のはずが、看板を杖のようにおいて顎を乗せている。  咄嗟に尼崎さんの後ろに隠れてしまった。 「あれ、知り合いなの?」 「……わ、わかんない」 「ふうん。スリッパの色からして二年か。格好いいじゃあん」  面白そうに、必要以上にじろじろと尼崎さんは彼の顔を見ている。  けれど刺激しないでほしい。その人の首にぶら下がっているネックレスが、カチャカチャ音を出して私を威嚇しているんだから。 「ここで待っていたら、おまえに会えると思ってたんだ」 「あら、いきなりナンパ? 私の友達が怖がってるんだけど」  ――友達。その言葉に、気が動転して体中が熱くなった。  友達って今、言われた? 「怖がってるんじゃなくて、逃げてんだよ。そっちのだせえの、面見せろ」  尼崎さんの背中にしがみつくと、覗き込もうとしてきた景十さんを尼崎さんが片手で押しのけた。 「女の子を怖がらせるなんて見た目通り怖い人なんですね」 「はあ? 何も知らねえお前が口をはさむな」  二人の一種即発の雰囲気に、体育館の入り口で待機していた先生や在校生が駆けつけてくる。 「藤波、何をしている」 「こいつが悪い。悲劇のヒロインぶって逃げ出して、真中のことを何も見ようとしていないのが腹が立つ」  先生に羽交い絞めにされた景十さんが振り切って私を睨みつけた。 「お前、逃げるなよ。辛いのは分かるんだよ。だが、逃げんじゃねえ。お前以外は誰も逃げてねえんだからな!」  看板を地面に叩きつけると、先生と喧嘩しながら引きずられるように校舎に消えていった。  私は呆然としていたが、叩きつけられた看板が真っ二つに折れているのを見て体が震え出した。 「大丈夫? 乱暴な奴、まじうざいね。やばいなら保健室行く?」  ふるふると首を振った。今はだめだ。今逃げたら、式に参加しないなんて入学式早々注目されてしまう。 「あの尼崎さんが私を友達って言ってくれたのは嬉しいんだけどね」 「うん」 「前に『悪い奴が悪いことして罪にならないのが腹立つ』って言ってたよね」 「言ったっけ。言ったかな。でもまあ普通にそうでしょ」 「あの人も私が罰せられないのはきっと苦しいんだと思うんだ。私はあなたの友達には相応しくないから、だからもう話しかけないでいいよ。助けてくれてありがと」 「は? ちょっと、巳波さん?」  まだ何か言いかけていたが、新入生代表の尼崎さんは先生に注意されながらどこかに連れて行かれてしまった。  最悪だ。尼崎さんも助けてくれたのに、きっと私のこと、嫌な奴って思ったよね。  景十さんだって私が悪いのに、騒いでしまって怒られているかもしれない。  それでも私はもう二度と周りに声が聞こえてほしくない。それだけは怖かった。  施錠して誰にも聞こえない場所に隠したい気持ちがある。  誰にも見せないし、大切に隠したい気持ちがある。  もう二度と私の気持ちを誰にも気づかれたくない。  四角くて小さな部屋の中に押し込むにはきっと足りない。  それぐらい真中さんの優しさは私の大切な記憶の大部分を占めている。  それでも、だからこそ、私は鍵をかけたいのかもしれない。  誰にも見せたくないし知られたくないのかもしれない。 『新入生代表挨拶』 「はい」  凛とした、よく響き渡る真っすぐな声。  ざわざわと「綺麗」とか「可愛い」とささやく声が聞こえてくる。  ぼんやりと周りの動きに合わせて立ったり座ったりしている私とは違う。地に足の着いたしっかりした彼女の言葉に、遠い存在なんだなって思った。  三年間。  大切だった思い出を施錠しなくていいように向き合うのは、きっと苦しいよ。  どうして神様は逆にしてくれなかったんだろう。  私が死んでいたら、真中さんを支えてくれる人は沢山いたし、たった数か月彼女だった私のことなんて忘れるのに。  私にはその数か月が、生きてきた中で一番生きていて一番楽しくて、一番幸せだったのに。  三年間。  私は彼が通うはずだった高校で、何もかも白い部屋に閉じ込めて楽しく生きていけるのだろうか。  そんなこと不可能じゃないの。  無理だよ。逃げ出したいよ。それでもこれが罰でいいのかな。  お願いだから誰か私に答えを教えてほしい。  入学式も終わり、また列に流されて一年生の校舎に着いた。  私は自分のクラスも確認していなかったので張り出されていたクラスを見に行った。  一年A組 22番に私の名前があった。 「クマが気を使って同じクラスにしてくれたんだよ」  私の額に、新入生代表で読んだあいさつ文を叩きつけながら、尼崎さんが言う。 「私さ、――交差点で見たの。幸せそうな巳波さん」 「え、交差点? いつ?」 「面倒だから下の名前で呼ぶけど、香澄が交差点で恋人に手を振ってるの見てたの」 「……なんで」 「だからクマ先生に自分はひとごろしですって言ってて、この女、頭おかしいなあって。あんなにお互い幸せそうだったのになんで一方的にそうなんだろ、こいつ、頭大丈夫かいなってね」  尼崎さんは笑わなかった。 「私、毎朝走ってんの。棒高跳びは足の筋力が大事だし。毎日走ってる。同じ時間。んで、あの日はたまたま寝坊して、遅くなっちゃった。で、見つけた。……あんなに泣き叫ぶ香澄を見て、ずっと胸が痛かった」  つつーっと涙が垂れたけど必死で拭った。  ひとごろしって罵倒してくれなきゃ、鍵が開いちゃわないか不安だった。 「色々あんたの心の問題はあると思うけど、私は香澄好きよ。だから友達にもなるし、一緒に陸上部に誘うから」 「まだ諦めてない……っ」 「そりゃあ諦められないっしょ」 「ううう。私、でも」 「さっさと行こうよ。ンで、部活見学してさ」  あの日を見られていた。じゃあ私がみっともなく取り乱して何度も叫ぶ姿も見ていたはずなのに、それでも尼崎さんが好きだと言ってくれた。  良いのかな。こんな幸せなことあっていいのかな。  彼は死んだのに、私は生きてていいのかな。  どうしてもっと私を責めてくれないんだろう。  何度も何度もこぼれる涙に、尼崎さんは爆笑していた。  美少女がこんな風に笑うんだなって冷静に見れたけど反対に、とても胸はざわざわした。  私、笑ってもいいのだろうかって。
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