一、白い部屋:「見せてよ」

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一、白い部屋:「見せてよ」

 その日、私は自分の白い心の部屋に鍵をかけた。  もう二度と、誰にも侵入させないように。  大きな音を立てて、鍵をかけた。 何色にも染めないように、二度と誰にも見せないように。   一、白い部屋「見せてよ」  私の白くて狭い部屋には、涙が溢れた。  私の現状を『鍵の開いた白い部屋。全開で誰でも覗きたくなくても中が見えてしまう』と判断したのは、初めて会った彼だった。  物心ついたときから、いや両親の証言では赤ん坊の頃から、私は自分の心の声が相手に聞こえてしまうらしい。夜泣きする声が脳内に直接響くから、両親は最初、自分たちが育児ノイローゼになったかと勘違いしたらしい。 『だからねえ、あ、香澄ちゃんの心の声なんだって思ったら、逆に育児やりやすいよねっていいことだと気づいたのよ~』 『その分、香澄にはつらい世界にならないかだけ、心配だよ』  原因は不明。心の病気でも、超能力でもない。  病名もない。病院に連れて行ったら、両親の方が頭がおかしいんじゃないかと診断されそうになった。  それでも笑って両親は昔話として話す。苦労したのに、私よりは苦労してないから平気よって笑う。  だから私も両親には辛いとかいやだとか言わなかった。それすらも親には聞こえてしまうけど、聞こえないふりをしてってお願いした。 『なに、おまえ、俺のこと好きなの?』 ただ――。限界だった。 『ねえ、そんなにいやなら無理に学校にこないでいいんじゃないの?』 クスクスと笑われた。いやな目で見られた。私の心の声が聞こえる範囲に誰も近づかなくなった。  私の世界は、皆が近づいてこない範囲で守られている。ここまで近づいて来なければ私の本音は聞こえてこない。  私の平穏は小さな部屋の中で保たれた。定規で測ってみたら一メートル七十センチとちょこっと。この世界が私が生きていける範囲。  苦しくない範囲。  私は聴覚過敏症と診断をもらうことで、周りから逃げることに成功。  中学三年で不登校になり、フリースクールに通うようになった。  フリースクールでも一番後ろの窓際の席。  私の世界には誰も侵入することはできない。 * 「ねえ、香澄ちゃん、高校はどうする? 学力的にはどこでもいけそうだけど定時制か通信か、それとも大検受けれる学力だしおうちでお母さんのお手伝いしちゃう?」  母は通販でアクセサリーや小物を作ったり、最近ではぬいぐるみの修理屋も始めた。家に届く古くさいぬいぐるみや手足がちぎれた人形を修理していて、忙しそうだ。  一人では大変だから人を雇うかどこかに事務所を作ろうかとお父さんと話していた。家でいいのに、家には狭い世界で生きている私がいるから遠慮している。 「違うのよ。家じゃあ全国からたくさん荷物が届いて部屋が足りないの。香澄ちゃんが手伝ってくれるなら家の近くに事務所作ってみたいの。格好いいでしょ」  なんて。どうしてこんなに優しくて柔らかい雰囲気のお母さんから私が生まれてきちゃったんだろう。 「香澄ちゃんみたいに鋭い子じゃないと、お母さんってのほほんってしてるでしょう。だから香澄ちゃんの声が聞こえて、えへへラッキーって思っちゃうの。ごめんね、苦労させちゃって。お母さんがしっかりしていないからよねえ」  私を可哀想って思わないけど自分のせいだと責めちゃうのもいやだった。  神様は私を作るとき余分なものを混ぜすぎた。それは責めないから私のこと修理してほしい。または制御ボタンとか取扱説明書を作ってほしかった。  クスクスと母が笑っているから、こんな馬鹿な考えも聞こえてしまっているのは本当に苦痛だ。  誰が好き、何色がすき、何がだるい、何がしたくない、誰が嫌い、ずっと前にこんなひどい言葉を言われた、あれは楽しかった、なんて全部全部。  知られたくないし、ばれたくないのに相手に響いてしまうのはどうしたらいいんだろう。 「進路、かあ」  勉強をしている時間は何も考えなくていいから、他人の脳に私の気持ちが流れていくことはない。  こんな大きなハンデがあるのだから、いい学校を出たほうが苦労はないと思う。  入学してしまえさえすれば、出席日数が足りなくても進級できることはこの身で経験しているのでわかっている。  となれば高校もそこそこ進学校で公立が国立で、体面を気にしてくれる学校がいい。  珍しく悩んでしまった私は、その日、フリースクールには行かずに近くの児童科学館に向かった。  小さな頃から行っているし、親が事情を説明してくれているのですんなり入れてくれる。  そこのプラネタリウムは午前中に稼働確認やメンテナンスをかねて一度だけ上映する。  子どもは学校に行っているので毎回必ず貸しきりで楽しめる。私の唯一の癒やしの場所でもあった。     平日午前中の児童科学館の貸し切り感は、気持ちがいい。スタッフも受付のカウンターに一人のみ。科学館一階や二階には一度も行ったことはないが天文館は、二階に日本で一番大きな太陽系の模型があり、その日の太陽系の惑星の位置がわかるとか、宇宙船内の模型とか写真、宇宙開発の歴史が展示されている。  一人で見て回るには、何度も見過ぎて退屈な場所。けれど午前中のプラネタリウムの開始まで時間があったのでふらりと立ち寄った。それだけのことだった。 「あれ、うちの高校じゃないよね」 二階に上がってすぐ、階段の上から降ってきたのは男の人の声。 とっさに立ち止まって、聞こえない距離を保った。 カンカンと階段を降りてくる男の人に合わせて、私も階段を降りる。 これ以上近寄ってこないで。聞こえてしまう。聞かれてしまう。 「ごめん。怖がらないで。怪しいものじゃないよ」 「だ、だめ。近づかないで。音が苦手なの」  咄嗟に嘘をつくと、階段を降りていた音が止まった。  上から見下ろしている男の人は、柔らかそうな茶色の髪に、少し垂れ目な優しそうな瞳、手には大きな画材の入ったバッグ。見下ろされているけど、怖くはなかった。 「真っ白って初めて見た」 「真っ白?」 「……色の話だよ。ここまでなら平気?」  頷くと、男性は「今日は高校の創立記念日で休みなんだ。だから部活の絵を描きに来たんだよね」と人なつこい笑顔を浮かべた。 「君は?」 「さぼりです」  隠してもしょうがないので正直に言うと、ぷっと吹かれてしまった。 「でもわかる。今日は学校にいるより、遊びたいぐらいいい天気だもんね」  一人でいるのが退屈なのか、私を手招きした。  いつも一人が当たり前な私には、自分の庭に入ってこられた気分で緊張と不安が渦巻いている。親以外とまともに会話するのはいつぶりだろうか。 「絵をね、描いてるんだ。夏がテーマ。で、星空描いてみたいなあって思ってここに来たら、ラッキー。誰もいないから穴場だよね」 「うん。誰も来ないから私も来てる」 「じゃあ俺が来たら、もう来ないの?」  止せばいいのに、階段を上がった彼のあとをついて行く。  一メートル七十センチとちょっと。その距離を保って、彼が画材の入った鞄を開けるのを見た。 「もう来ないの?」 もう一度尋ねられ、首を振る。 唯一、誰も気にせずに自分の時間を持てるこの空間を、手放すわけにはいかない。 「じゃあ俺もここで絵を描いていい?」 「どうぞ。私の許可はいりません」 「ありがとう」  嬉しそうな笑顔。男の人なのに綺麗に笑う。横顔は絵画から飛び出してきたんじゃないかなってほど美しい。男の人なのに睫毛が長いからかな。 「そんなに見つめられたら、俺、穴開かない?」 「ごめんなさい」 「うそ。俺が恥ずかしいだけだよ」 ちょっとだけ意地悪な人。でも開いたバッグの中からガラスの瓶を取り出す仕草は、なぜか艶っぽくて胸が早なった。お父さんより、大きくて骨張った指が、夜を閉じ込めたガラス瓶を持っている。 「ん? 気になるならこっちにおいでよ」  ガラス瓶を持っていない左手で私を手招きしたので、自分で距離を保つ。 「一メートルと七十センチとちょっと。これ以上近づくと音がうるさくなるの」 「へえ。俺の身長と一緒。一メートル七十センチ四ミリ」  ガラスの瓶を揺らすしながら、自分の頭の上を手のひらで測る真似をする。  なんだろう。高校生なのに威張っていないし、雰囲気が柔らかくて怖くない。  私がこんな体質じゃなかったら、もっと近くで話したくなった。  画材が入っていたバッグから、四角い木の箱を取り出す。その箱は引き出し式になっていて、引き出しを開けると油絵の具と筆が入っていた。その上は、取っ手を引くとキャンパスを立てるイーゼルになった。  そこに白くて四角いキャンパスを乗せると、たった数分で絵を描く準備が整った。 「そのガラスの瓶はなんですか?」 「これ?」 「天井の夜を閉じ込めたみたいで綺麗です」  男の人は天井を見る。天井には、星が描かれていて明かりはついていないので少し薄暗い。その星が、ガラス瓶の中の液体を染めて小さな夜空になっていた。 「ああ、これね。画用液っていうか、オイル」 「何に使うの?」 「色に深みを入れたいときとか艶出しとか、あと早く乾かしたいときとか、使い方は様々だよ。絵の具の横に置くんだ」  パレットの横に置かれたガラス瓶は、綺麗で心を奪われた。 「ああ、飾り装飾が綺麗でしょ。手作りの香水瓶を洗って画溶液入れにしてるんだ。おしゃれっしょ」 「はい」  花びらや蔓の紋様が綺麗なガラス瓶。蓋が紫色のスワロフスキーなのかな。夜の空に光っている。 「香澄ちゃーん。二階かな? プラネタリウム始まるよ」  一階から声がして、自分の格好に驚いた。  足が一歩、踏み出そうとしている。もう一歩踏み出していたら、境界線を越えてしまっていた。 「い、行きます」 「プラネタリウムか。上映はなに? 『ほしをつかまえた王子さま』?」 「そ、それです」 「小さな頃から変わってないなあ。社会見学で何階も観たなあ」  彼は動かなかった。プラネタリウムには全く興味がないらしい。  彼ともう少し話してみたいし、あのガラス瓶をもう少し近くで見てみたかったから少し残念。でも近づけないのだから、話してもしょうがないか。 ** 回る夜空。本日の夜の星の位置や、最初の導入で星座について話すのは退屈だ。私は一人の時間がほしいだけ。誰にも気を遣わず、気を遣われず、一人の時間を保てる空間がほしかった。ギリシャ神話や星の名前の由来じゃない。求めているのはそれじゃないんだ。 何度も聞きすぎて、もはや子守歌なナレーション。  眠ってしまいそうになるけど、それさえ我慢すれば寝転んで夜空を見上げることができた。  眠りに手招きしてくるけど眠っても別にいい。それ以上に一人の時間が楽しい。星が落ちてきそうな夜空。誰にも私の声が届かない世界。綺麗で美しく、宝石箱の中に閉じ込められた世界。 この世界で一人、ずっと寝転んでいたいと思った。 この世界で一人、誰にも干渉されずに生きていたいと思った。 * 『カラオケ行こうよ。ラインも交換してさ。誰かVIPルームかパーティルーム予約してよ」 』  中学一年のとき、いつもクラスの中心にいて可愛くて、誰よりも声が綺麗な女の子がいた。 東城真昼って言って、三年生の格好いい先輩と付き合ってる噂もあった。誰の悪口も言ったことないし、私みたいに他人と距離をとろうとするやっかい人物にも距離を詰めてくる。笑顔が屈託なくて、自然と人から好かれてしまうような人。  初めての会話でカラオケ、しかもパーティルームでクラスの女子全員と行くことになるとは思わなかった。 『私はいいです』 こんな可愛くて性格のいい子に嫌われたくない。 それに何を話していいのかわからないし。 「えー。ありがと。めっちゃしゃべるじゃん。行こうよ」  心の声を聞かれても、彼女自身がいい人だから、困るような声は心は浮かんでこなかった。 「え、うけるんだけど。あの子、来るの?」 「むーり。何歌うの?」 「はやりの歌、完璧だったらやばくね?」 「家で一人で練習してたとか? うける!」  でも小学校から私のことを知っている人から言われた言葉は痛かった。  あの人たちは攻撃的な言葉を私に聞こえるように言っても焦らないらしい。  私が言いたくないのに相手に聞こえてしまう言葉を、平気で口にできるあの人たちはうらやましく、そして恐ろしかった。 「なんで? 私も中学校デビューのためにお風呂で練習してきたよ! 気持ち悪い?」 「うける! 真昼も練習してんの?」 「そうだよ。だって下手だと不安じゃん。ねえ、香澄」  私も勝手に練習したことになってる。歌ったことなんて全然ないよ。 「あはは、香澄ってば。練習してないから焦ってるじゃん」  あはは、とひとしきり笑った後首をかしげ机に伏すと私の顔をのぞき込んだ。  綺麗で可愛くて、悪口を緩和しちゃう人。 「……ありがと。そんな風に思ってくれてるの」  違うとはいえない。心の本音しか流れないんだもの。伝わってるなら、それが本音。 「仲良くしようよ。一年間。誰か一人でも楽しくない顔をしてるクラスメイトがいるなんていやよ、私」  傲慢でしょって笑った。つい最近まで小学生だったはずの彼女は大人びて、綺麗で、私の持っていないものすべてを持っているような子だった。  たとえそれが最初で最後の、クラスメイトとの交流でも。  世界中が彼女みたいな優しい人で溢れていたら、私は自分の心が聞えることに戸惑わなかったかもしれない。 『明かりがつくまで立ち上がらないでください。場内アナウンスに従い、出口まで移動してください』 あーあ。一時間なんてあっという間だ。すぐに終わってしまう。 家に小さなプラネタリウムの装置を買ってもらったことはあるけど、淡い光の中、部屋の家具が映し出されると興ざめしてしまう。 やはり児童館のここが一番綺麗で、心が洗われる。 「あー、だめだな」 出口のカウンターで、館長である竹田さんが頭を掻いていた。 距離を保ちつつ、近づくとおじさんは苦笑していた。 「配線トラブルだよ。今、古くなった配線がバチバチって音を立ててさ。今日はここは閉館だな。参ったな」 「大丈夫ですか」 「ああ。すぐに修理を呼ぶよ。君も危ないから早く出なさい」 今日はついていない。もう少し余韻を楽しむために館内を散策したかったのに。 「えー……今日、一日で完成させるつもりだったのに」  竹田さんと話していて彼の気配に全く気づかなかった。  振り返ると、彼が私の心の範囲内に侵入していた。 「困ったよね。デートでもする?」 「うちでナンパするんじゃないよ」 ナンパ。ナンパよりも今すぐ一メートル七十センチから出てほしい。 「ああ、ごめんね。ナンパよりってひどいなあ」 あはは、と笑った後に彼は笑顔のまま固まった。 私も後ろへ下がりながら固まった。 「館長さんってば、俺がそんな人じゃないって知ってるくせに」 「どうかねえ、色男なってモテモテだろうしな。ほれ、出た、出た」  館長さんに追い出された彼は、入り口の前にある花壇に腰をかけ携帯を弄りだした。 私も出たいけど、正面の花壇にいる彼とは一瞬だけ範囲内に接近してしまう。 心が読まれないよう、歌でも歌いながら飛び出せばいいだろうか。 「ねえ、香澄ちゃん」 「へ!? 名前……っ どうして」 「館長さん、俺の高校のOBなんだって。たまに文化祭で焼きそば作ってる。その人に聞いた。プラネタリウムの君について」 「うー……。失礼します」 「嘘だよ。半分嘘で、半分本当」 怒らないでよって笑って立ち上がった。 そして私を見た後、「やっぱり真っ白だなあ」と呟く。 「俺、君の色を描いてみたいんだ」 「色?」 「そ。色。ちょっとだけ話したいから君に近づいてもいい? 怪しいものじゃないから」 高校の生徒手帳を見せてきた。 『一年A組 16番 東城 真中』  学生手帳の中の彼は本人と変わらないぐらいの笑顔だ。 「ここの写真屋さん、すごいよ。鼻の上にニキビがあったのに消してくれたんだよね。学生証の写真撮るとき、加工してくれるからおすすめ。駅の商店街の中の画材屋の上にあるの」  身振り手振り説明してくれるけど、まるで水の中を泳ぐエビフライみたい。  オレンジ色のコートのせいかな。 というか、東城真中ってなんか響きが似ている人を私は知っている気がするけどな。 「あはは、エビフライ? このコート自分で染めたんだけど、ひどいなあ」 「あ?」  不思議そうな顔をしたけど、すぐに気づいた。  彼は目をパチパチして空を見上げた。  私は逆にかれとの足下を見た。  一メートル七十セントちょっと。彼は超えてしまったらしい。  そのせいで私が彼のコートをエビフライと言っていたのが聞こえてしまった。 「なるほど」  すみません。信じられないかもしれませんが、私は一メートル七十センチとちょっと以内の人に自分の声が届いてしまうんです。 「すご!」  彼は今、私を目の前に突然声を上げた怪しい人。  周りの人には誤解を与えてしまうし本当にいやな呪いだ。 「すいません」  だから逃げるしかない。  あの天文館は大好きだったけどしばらくいけないかな。  でもあの人、館長と知り合いだって言ってたからもう二度といけないのかもしれない。  ああ、ひどい。悲しい。  急いで駅前に止めていた自転車まで走った。  バスも電車も苦痛でしかない私には、移動手段は遠くても自転車が多い。  早く車が乗れるような大人になりたいけど、教習所の車の中で二人密室って私にできるのだろうか。  自由な一人の空間が、この狭い世界では私には難しい。  難しすぎるんだよ。  私が一体何をしたの。前世で大悪党だったのかよ。  一言もしゃべらず罪を認めなかった大悪党?  だから幸せになる権利もないと、だから私はこのまま一生苦しんで諦めて、迷惑かけて。  「まって! 待って。えーっと香澄ちゃんっ 待って」   重そうな荷物を抱えて、真中さんと言う人はそれでも追いかけてきた。  自転車の鍵を開けるときに追いつかれてしまいそうで嫌だ。  坂道を下って右に曲がって駅の改札口に侵入してトイレでやりすごすしかないかな。  全力で坂を下った。 「待ってってば。おーい、うわあ」  気持ちがいいぐらいの大きな音が空を切る。  彼が転けた拍子に画材が鞄から飛び出て坂道を転がっていった。  色とりどりの絵の具のチューブは、ひねり出した際の指の形が邪魔をしてうまく転がらない。 私の元へ転がってきたのは、あの綺麗なガラス瓶。  コロコロと私の足に引っかかって止まった。 「ごめん。拾うの手伝って」  鞄に詰め込む彼を見て、逃げるチャンスだと思った。  なのに。  空の光を吸収して光るガラスの瓶を見て、目の中が光にあふれて涙がこぼれ落ちた。  足下にたどり着いた筆やガラス瓶、筆箱、見たこともない四角い粘土みたいなもの、新品の絵の具、ペットボトル。  すべて拾ったら手の中があふれそうだった。 「ありがとう。助かったよ」  真中さんは私なんかの頭をポンポンたたいてくれた。  人と距離を取っても、いけ好かないやつ、暗いやつ、こっちが親切にしているのに空気も読めないやつって嫌われる。  近づいても、気持ちが読まれてしまって建前なんてできない。  近づいても離れても、嫌われてしまう私はどうすればよかったの。  こんなにガラス瓶はキラキラ輝いて綺麗なのに、なんで感情を持っている私は汚くて邪魔で、生きる価値もないの。 「……辛かったね」  鞄を落とすと、真中さんは私を抱きしめてくれた。 「なんで君だけが傷つくの。なんで君は自分に価値がないって言うの」  苦しいよって彼はくしゃくしゃな顔になった。 「俺が友達と笑っているときも、部活で皆と過ごしているときも駅のホームで並んでいるときも、君はいつも一メートル七十センチの殻の中で自分を守っていたんだと思うと苦しいよ。こんなに、こんなに可愛い女の子なのに」  可愛い。  可愛くない。きっと前世で悪いことをした最低な人間なんだよ。 「こんなにも心を痛めてる子が可愛くないはずない。傷つきたくないって、自分だけ我慢しなくちゃいけない子を」 初めて抱きしめられた。家族以外に初めて優しい言葉をかけられた。 こんなに優しい人が世界にあふれていたら、私はもっと生きやすかったのかな。 「ふふ。俺のこと、ちょっとは信用してくれたのかな」 真中さんは私を抱きしめていた手を離し、足下に落とした鞄からガラスの瓶を差し出してきた。 「あげるよ。俺の親友が、俺の絵が初めて入賞したときに作ってくれたんだ。綺麗だろ」  そんな素敵な思い出があるものをもらえるわけないのに。 「いいよ。俺は作ってくれる親友がいる。君に彼のいいところを知ってほしい」  手をつかまれ、ガラス瓶を握らされた。 「君の心は鍵の開いた白い部屋。全開で誰でも覗きたくなくても中が見えてしまう」  覗いてしまったお詫びだよって。 「初対面で慣れ慣れしい俺のことなんて、怪しいって思って当然だし。心に思ったことをそのまんま口に出してね」  言いたくなくても聞こえることで、今まで散々な人間関係だったのでそれは難しい。 「私のことなんてどうでもいいので、こんな大切なもの、受け取れませんってば」 「今更でしょ。もう君がボロボロで悲鳴を隠してたことは知ってるから。隠す必要ないよ」  エビフライみたいなコートから綺麗にアイロンされたハンカチを取り出してきた。 ガラス瓶についてはテコでも譲るつもりはないらしい。彼の中では私のことを考える方が大事な様子。 「思ったことまんま口に出している親友が俺にいるけど、不器用に危なっかしく、彼は頑張っているよ」  それってつまり生きにくいんじゃないかな。 「それ。別に口に出していいじゃん。てかもうばれたんだから、隣に座ろうよ」  真中さんはあたりを見渡し、公園を指さす。坂の途中の細道を少し行くと公園が見えた。  ブランコは撤去されブランコだった棒、びよんびよん動く馬の乗り物、砂場、ベンチ。寂れた公園のベンチに座り直すと、自分の横をポンポンとたたく。  なんでそんなに順応が早いの。私のこんな能力、気持ち悪くないの。  不気味で距離を置こうって思わないの。 「うーん。俺ね。色が見えるんだよね」  困ったことに、と言いつつも全く困った様子が見えない。 「オーラっていうの? 周りのやつには言えないのは君と一緒なんだけど、考えているのが色で見えるんだ。うわあ、怒ってるなあっとかなんか嫌なことあったのかなあって。色でわかっちゃうんだ」  突然何を言い出すのだろう。私に気を使って自分も変な能力があるんだよって空気を和ませようとしてくれているのかな。 「いやいや、もう君の心が読める距離なんだから口に出してよ。本当だよ。空気が読めるって自分ではもう才能だってポジティブに考えてるんだ」  確かに私と違って読まれるよりは読めた方がきっといい。  私みたいなこんな呪われた能力と違う。やっぱ性格もいい人はいい力をもらえるんだ。 「人生チート。イージーモード。だとしたら君はハードモード。生まれた瞬間に呪われ、呪いを解くために奮闘しなきゃいけないなんて思ってる?」 「いえ。この能力がなくなることなんてないと思います。頑張って親の前で練習したけど思考を停止させることはできなかったし」 「練習ね。必要ないよ。嘘なんてつけない。嫌いなものは嫌い、好きなものは好き。それか少しでも嫌なものは好きなところを見つけて好きになるってどう? ピーマンは苦いけど見た目は好きとか艶々した光沢を描いてみたい、素敵、みたいな」 「いいところを見つけてそこに重点をおくってことか」  さすが高校生。考えることが大人だなあ。 「俺も同じだって。いろんな色が見えるんだ。愛想笑いしててもこの人は俺が嫌いなんだなっとか。俺の絵を褒める人の多くは嘘の色だった。マーブル状のいろんな色を隠した汚い感じ。俺も絵を他人に見せるのが怖くなったよ」  こんないい人だから下手でもきっと下手なんて周りは言えないんだろうな。  私もきっと心を隠せたなら、真中さんみたいな人は傷つけたくないって思ってしまいそう。 「言ったな。よし俺の絵を見せてやろう」 「えええ、待ってください、ちょ」  ポケットから携帯を取りだして画面をスライドしだした。  芸術なんてわからないしピカソみたいな絵を見せられてもどう判断していいのかわからないよ。嫌な思いをさせたくないのに。  さっき、私はこの呪いみたいな力を否定されなかっただけで幸せだったのに。  見たくなくて目を閉じたのに、でも彼が描く世界も知りたくなった。  傷つけるかもしれないのに真っ暗な世界で彼の絵を、見てしまった。 「すごいっ」  さきほどの天文館の天井の星たちだ。  星と惑星が流れ星みたいに地球へ落ちていく絵。  お菓子のあふれる家から、泥棒みたいな袋を持って逃げ出す機械の人形の絵、  魔女から足が生える薬を奪うために人魚のお姉さんたちが戦う絵。  抽象的な絵よりも物語が飛び出してきたような、童話ちっくな絵が多い。 「マーブルっていうよりオーロラ色」 「え、あ! 私の色ですか!」  こくんと真中さんは頷くと、嬉しそうだった。 「私は本当の気持ちしか言えないので言うけど、すごく素敵だと思います。可愛い世界。なんだろ、優しくなれる世界じゃないですか」 「うん。色も嘘を言っていない。君は色が薄いけど、でも嘘じゃない。ありがとう」  嬉しそうな彼は、鼻を指先で擦った。 「絵本の挿絵とか、絵本作家とか憧れるな。俺は両親が働いていたから妹の面倒をよく見てて絵本をよく読んであげてたけど、あいつ絵柄が気にくわないと読んでくれないからいろいろと探すうちにね。自然と好きになっていったんだよね」  確かに子どもが喜びそうな絵。素敵でかわいらしい絵ばかりだった。 「君はえーっと」 「香澄です。香りが澄むって書きます」 「香澄ちゃん。うん、可愛い」  本心がどうかわからないけど、真中さんの笑顔はだまされちゃう。  優しいんだよね。 「本心だよ。俺は人の心が見えてしまうから、嘘をつくのはやめてる。傷つけること以外はね」  きっとじゃあ、心の色と絵の感想が違った人は同じだったんだと思う。  誰も彼を傷つけたくなかったか、絵本みたいな絵じゃなくてピカソみたいな絵が好きだったとか。 「ふふ。香澄ちゃんって画家詳しくないでしょ。ピカソぐらいしか知らないじゃん」  う。いや、クリスチャンラッセンとか好きだし。光るパズル持ってる。 「光るパズル! わかる。ラッセンは欲しくなるよね」  あははって笑う。ひどい。私が世界でラッセンとピカソしか知らないと思ってそう。  でも確かに知らないけどさあ。 「でね、君の心の色は真っ白だったよ」  急に今度は私の話。  彼は目を細めたり周りをキョロキョロ見渡しながら、私のことを観察する。 「こんなに真っ白な子は見たことなくて、すっごく興味をそそったんだよ。なんで真っ白なんだろうって」  真っ白か。つまり私は何もない。  個性も何もない、真っ白でつまらない人間だと。  言い当てられていて乾いた笑いがこみ上げてきた。 「白って一番綺麗な色で、一番何でも染まっちゃう色だから、君は今からってことだよ。今まで色が見える場所になっていなかったんだから」  卑屈に考えちゃうのは仕方ないよ。でも大丈夫だよって彼は笑う。 「きっと描く前の四角いキャンパスの中なんだよ。人と関わることが怖くてできないとか、逃げてきたとか、君は心を見せたくなくても見せちゃうから逃げるしかないでしょ? 四角いキャンパスの中に逃げちゃってる。要は誰かをすきになったこともどんな思想も知らないから、真っ白なんだよ」  彼は鉛筆で下書きしてあるキャンパスを見せた。 「君の心はこのキャンパスの四角の中みたい。ここが君の心の部屋だよ」  白い四角の部屋。 「これから勇気を出したり、もし声が聞こえなくなったら丸い優しい心になるかもしれない。でも今は、君のせいじゃないんだし尖った四角でいいんじゃないの。何がだめなのか俺にはわからないよ」  いいじゃん、四角で。真っ白で綺麗なままでもいいし、好きな色を探せばいい。 「心は自由でいいんだよ。香澄ちゃん」  自由でいい。自由でいいんだよって。  この人はきっと、私に一目会ったときから真っ白なオーラを見て、受け止めて否定せず気づかせてくれた。  私一人が我慢することはないって。 「で、君のその真っ白なオーラを描かせてよ」 「真っ白なのに?」  どう描くんだろう。 「気になるなら描かせて。さっき、天文館にいる真っ白な君がとても綺麗だったんだ。だめかな」 「駄目ではないけれど」  人にここまで近寄ってもらったことも心を聞かれたこともない。  不快になるんじゃないかな。嫌な思いしかさせないんじゃないかな。  黙ることができない心の声は邪魔だろうし、いつかこの優しい彼の負担になってしまいそう。 「描かせてって俺が頼むのに、君が気を遣うことはない。そしてもし俺が君に不誠実な行動や態度を取っても。ーー絶対に取らないけど。その時は君じゃなくて俺が悪いんだ。くそ野郎って吐き出しちゃってくれてかまわないからね」  だから、お願い。  彼は自分のかわいらしさを知っている。男の人に可愛いっていうのもなんだけど。  あざといっていうのかな。捨てられた子犬のようなまなざし。断ったら後味が悪いじゃん。 「いいでしょ。ガラス瓶あげるんだし」 「……私と関わっていいことなんて考えつきません」  心の綺麗な人ならたくさんいるだろうし。私のクラスの真昼さんとか。  芸能人とか、見目麗しい人を描いた方が楽しそうだし。 「あはは。ほんと香澄ちゃんって気にしいだね。うっとおしいぐらいマイナス思考」  う、うっとおしい? 「大丈夫。約束する。俺はもう香澄ちゃん、気に入っちゃった。だからごめんね」  決定だよってケラケラ笑ってる。  顔は整って綺麗で、相手の心の色が見える人。  私とは正反対で、この世界をチートで生きてきた人。  だからなのかな、彼には私なんて怖くないんだろう。  チートな世界で生きてきたから彼はこんなに楽しそうに笑うんだ。 「えー、じゃあ、俺が君を笑わす。それがお礼だよ。笑顔の場所になるよ」  安心しなよって彼はまた笑った。  彼が生きている世界はきっと彼に優しいんだ。 どれぐらいの徳を積めば、私の罪は許されてこの人ぐらいチートな世界に足を踏み込めるんだろう。 「さて、うだうだ言ってる間にも俺の貴重な休みがなくなっちゃう。まずは、そうだね。この時間なら映画観行こう。ガラガラだから君でも見れるよ」 「え、今、描くって」 「うん。君に色をつけていこう。何がすき?」  携帯を開いて映画のタイムスケジュールにアクセスすると、上映中の映画を私に提示してきた。 「恋愛、あにめ、アクション、ファンタジー、サスペンス、どれにしようか」 「え、ええー?」  恋愛は私たちが見たら気まずくなりそうだしアニメは見たことないやつだし。ファンタジーもアクションもよくわからないけど。 「あ、じゃあこれにしよう。ホラー」 「ホラー!?」  ホラー!? 無理。想像できない。怖いやつ?  どうしよう。超怖い。だったら恋愛の方がまだましかも。 「決まり。恋愛しよう。女の子向けの映画みたいだし決まり-。あと30分で始まる。走ろー」」  手をつかまれ気づけば、坂を走っていた。  まるで坂を走り抜けるような爽快感で私と彼は慌ただしい毎日の中、こうやって時間を見つけて会うことになる。 *** それからの二ヶ月は、本当に私の今までの人生の中で一番大切で、一番楽しく、心が洗われていく時間だった。 真中さんが私を見つけて手を振って境界線を越えて入ってきてくれるとき、私は泣きたいほど嬉しかった。 私の本音を拒絶しないでくれている人。 そんな人が現れると思わなかった。 「今日はさ、友達の美術部がカフェで作品展してるらしいんだ。そこに行こうよ」 「え。でも美術館とかっておしゃべり禁止でしょ? 私はうるさいよ」 「ああ、大丈夫だよ。カフェだからわいわいしてる。それにテーマが夏の騒音だってさ」 「私の本音も騒音扱いしてくれたらいいんだけど」 逆だったら全く私は困らないのに。 「でもまあ、絵の感想が聞こえてくるって、本人たちには嬉しいんじゃない。どう? うまいでしょ、なんて聞けないし」 真中さんって必ずいいところを探そうとする天才だと思うな。 「そーゆうとこ可愛い。あと自分の本音を騒音って片付けちゃうのか可愛い」 気にしないでいいよってまた真中さんは笑ってくれた。  カフェは入った瞬間、ジャングルみたいな木々が壁に貼り付けられ、所々キラキラ光る蝉が飾られ、海で踊る絵や海の中の絵、色とりどりの魚たちが描かれた絵もあり、確かに賑やかだった。BGMに蝉の声や、夏の流行の歌が流れており最高に面白かった。 イベントで流しそうめんが始まったとき、真中さんが皆から離れて私と一番下流でそうめんを待ってくれて参加することもできたのは嬉しかった。 皆、掬えなかったので下流の私たちの方がたくさん食べることができた。 でも真中さんのお箸から外れたそうめんはいいけど、他の人の箸がついたのは汚くないかな。 「ぷっ」 「あ! 笑った」 「いや、本質的に香澄は神経質だから苦労するんだなって、てか俺はいいのか」 ラッキー、俺ってば人徳じゃんって彼は耳まで真っ赤にして笑っていた。 その日、彼のお友達が「彼女?」って聞いてきたから必死で否定したら、二人して夕日の絵を見つめて肩を組んでいた。 「お互い、もてない文系部活は夏はつらいな」 「確かに。頑張ろうぜ、来年の夏」  今年はもう冬も何もかも諦めるらしい。  私の本音が聞こえてしまったのか、二人は夕日の絵の前で倒れて起き上がってこなかった。 「さっきの俺の友達、大知って言うんだ」 「黒縁眼鏡の、茶髪の人ね。息が合ってる感じがしました」 「うん。あいつの色も好きなんだ。嘘偽りないから安心できる。裏表がなさ過ぎる人って以外と世界中に転がってるんだなってかんじ」 それは私のためにも言ってくれてるのだったら嬉しい。 「うーん。香澄ちゃんは聞こえるから開き直って、地を出しちゃえばいいよ。悪いとこもいいとこも味があっていい」 それって喜んでいいのかな。 駅の線路と並んで歩く帰り道。電車は怖くて乗れない私のために、真中さんは自転車で一緒に行動してくれる。 彼のリュックからカチャカチャ鳴る、画材の音。 真中さんの全てが安心できるのは、本音の私を見ても受け入れてくれたから。 でも嘘偽りのない私を否定されたら私はどうしたらいいのだろう。 本当の私を拒絶されたら、嘘がつけない私は嫌われる以外の選択肢がない。 「嫌われてもよくない? 万人に好かれるなんて無理。嫌われたら、その人のことを忘れちゃえばいいんだよ。香澄ちゃんは自分が嫌いな相手に必死ですがりつく理由はあるの?」 嫌われた人にすがりつく理由か。 本音を受け入れてもらえなかった人にそれでも必死で嫌われたくなかった場合。 その人が私が好きだった場合か。じゃあ、友人でもない人に嫌われてもダメージなんて感じなくていいってことなのかな。 「そうそう。人間だもの、黒い部分ももっちゃおうよ」 人を嫌いでもいいんだよと、彼は爽やかに笑う。 こんなに素敵な人でも、黒い部分が色で見えちゃうからだ。 見えていても、きっと傷ついても、この人は乗り越えちゃうように達観できてるんだ。 どれぐらい修行したら私も達観できる術が身につくのだろう。 「修行かよ。達観できた俺は実は忍者か」 なんでちょっと嬉しそうなんだろう。 その日の蝉の声、夏の暑い温度も、地面から反射される日差しもへっちゃらなほど、誰かと関わることが楽しかった。 海も行った、川も行った、夏祭りも行った。 そして合間合間で変化していく私の色を描いてくれた。 「君がいろんな体験をするたびに、透明な海の波が大きく揺れていく感じ」 「へえ。色は?」 「色はね、たまに反射されてるうっすらな感じ。綺麗だよ」 綺麗だよって褒められ私の心は弾けて波打つ。 何も知らなかった私に、次は何を教えてくれるのだろうか。 *** そして「香澄ちゃんを描くには、やっぱ本人をよく知りたいよね」と言われ、「家に行ってもいい?」と言われたのが昨日。  お母さんに伝えると、徹夜で片付け、翌日にはできたてのパンの良い匂いと、父が買ってきた真っ赤なバラがリビングの至る所に飾っていた。  そんなの飾っても、私はいつもと違うって言えば、真中さんは気づいちゃうのに。無駄なことだよ。 「すごいわ。その人、香澄ちゃんの特異体質も受け入れているのね」 「お、おおおお父さん、有給残ってるかも。あ、スーツはどこかな」 「いいから、二人は普段通りで良いから」 恥ずかしいじゃん。呼ぶのやっぱやめようかな。 絶対、お昼ご飯にお寿司とかピザとか頼むでしょ。 「お寿司駄目?」 出前のチラシを握って電話寸前だった母さんが真っ青になる。うう。恥ずかしいな。 真中さんには、親がご飯もどうぞって言ってたと伝えてしまい、11時に家の近くで待ち合わせしてしまった。やめとけばよかったかな。 「わかった。お母さんは隣の部屋でお仕事しとくし。ご飯は見栄を張らないから」 本当に本当に、余計なことしないでね。 「ねえねえ、真中さんって絵も描けて優しくてイケメンさんって」 イケメンまでは思ってません! 「香澄ちゃんの彼氏なの?」 違います! 私の修行の師匠です! なんで家に招待するってだけど、親が有給使おうとしたり、機械洗うのが大変だって止めていたパンを作ったり、家がモデルハウスみたいに綺麗になるの。 「くくっ」 笑い事じゃないのに。 「俺もスーツで来ればよかったかな」 やめて。親が誤解しちゃう。 とは言っても黒いキャップにブランドもののポロシャツとジーンズって、普段のだるっとした服よりもちょっとちゃんとしてる。 お土産に、私が美味しいって言った駅前のケーキ屋のシュークリームだし。 「人の家に行くんだもん。俺だって普通によく見れたたいじゃん」 やっぱリクルートスーツにしようかなって焦る真中さんを止めるのが大変だった。 ちょっと私のお父さんと同じ反応で笑ってしまった。 「え、香澄ちゃん、頭いいじゃん」  スクールで受けた学力テスト、全力テスト、全国テストを見て驚いてる。  いくら本音を言うからって「私は勉強できますよ」って話の脈絡もなくアピールはしませんってば。 「学校に行けないから、勉強だけは頑張ってます」 「最近、俺と遊んでるのに」 「まあ、帰って勉強してます」 「これなら受験は楽勝だよね。俺の高校来てよ。偏差値けっこう高いと思うけど余裕だよ」 「国立か公立狙いです。こんな特異体質なので」 「俺の高校、私立だよ。でも俺が居るから大丈夫。おいでおいで」 真中さんの高校が、全員真中さんだったらこちらから入学をお願いしたいぐらいだよ。 「これはなに?」 木箱を開けようとしたので、すぐに手で押さえた。 この中には私の宝物や、真中さんにもらったガラス瓶が入ってる。 「聞こえちゃったから開けて良いじゃん」 「……ひどい」 普段はベットの枕元に飾ってるのもどうせばれるんだから、先にばらしとく。 「うん。潔い。そしてありがと」 そして宝箱を開けてしまった。中には、母をまねて見よう見まねで作ったアクセサリー。 そして失敗作を詰めたガラスの瓶。 「すごいね。やっぱ香澄は女の子だ。香澄が持つとガラス瓶がこんなオシャレになるんだから」  嬉しいけど照れくさいな。でも失敗作なんかをこんな綺麗なガラス瓶に詰めて悪いよね。 「ううん。てか、俺は勝手に香澄の絵を描くじゃん? だから香澄は俺になんか作ってアクセサリー」 「ええええ、いや、アクセサリーなら私じゃなくて隣の部屋で作業してる母に」 「俺は香澄が良い。香澄が作って」 そして少し考えてから、手をピースの形にして私の目の前に差し出してきた。 「そのガラス瓶くれた友達と俺の分、二つ作って。今度、そいつが軽音部でライブやるらしいから、派手なやつ。材料費は払うし、香澄の思ったまんま作って」 どうして家に呼んだだけで、こんなことになってしまうの。 ガラス瓶をくれた人ってことは、真中さんの親友じゃないのかな。 そんな人に素人が作ったアクセサリーを? 「そのガラス瓶を作ったのも、素人だよ。大丈夫、照れて乱暴なことは言うかもだけど、傷つける嘘だけは吐かないやつだから」 真中さんには数え切れないほど、大切な時間をもらった。 だからそれぐらい作ることは当たり前なんだけど、でもあったらもっと価値があるものをほしがって欲しい。 でもこの部屋には高価なものはないしなあ。ラッセンの画集? 真中さんの絵を勉強したくて買ってこっそり読んだ絵画の通販雑誌? 「え、そんなの買って勉強してくれてたの。やばやば」 絵画は有名な人ほど高いって勉強になりました。 「それって勉強になってないってば」 よいしょってリュックから取り出した画材セット。 それを開いて、一個一個、画材の名前を教えてくれる。握る部分が色あせている筆とか、薄く絵の具の色が移ったキャンパスとか、新しく買ったガラス瓶とか、よくわからないバターの塗るやつみたいなやつとか。 「いや、ヘラぐらい覚えようよ。覚える気がないだけだな」 しょうがないよね。興味は真中さんしかないんだから。 「アクセサリーを作る材料はどれ? 見せて」 母から自由に使って良いよって言われたり、使わなくなってもらったビーズや糸、レジンの材料もある。 「この液体はなに?」 「それはレジン作るやつ。それはちょっと下手くそなの。空気がすぐ入っちゃうの」 「ふうん。難しいのか。じゃあこれで作って欲しいな。どうやるの?」 意地悪だ。難しいって、失敗してるって言ってるのに。 でも真中さんに作るとしたらどんな色が良いのかな。 いろんな色が綺麗に映るレジンの作品ってどんなのがいいのかな。 「なんかさ」 材料の入った箱を覗いていた私のすぐ横に真中さんの顔が近づく。 息づかいさえも感じてしまう隣で、なぜか私の胸が大きく高鳴った。 「なんかさ」  はい。 「今日は透明だけどうっすらピンクで綺麗な気がする」 横目で真中さんの顔を見ると、頬を染めている。 「隣にいると、香澄ちゃんからの特別だよって声がその」 耳まで真っ赤にして、「心地が良い」って言う。 「俺ってずるいよね。香澄ちゃんの声が聞こえてるのを良いことに、勝手に気づいちゃって」 それってつまり。 つまり? えっと、私が真中さんの横で落ち着いたり、今みたいにドキドキしたり、いろんな感情をもらっていたとき、私は真中さんに好き好きオーラを出していたってこと? 好きってこと? 人として? 「気づいてなかったのか。じゃあ気づかせて良い?」 なにを、と言う前に、先に彼の真っ赤な頬が視界に入ってきた。 「香澄ちゃんは俺が好きだよ」 次の瞬間、唇に柔らかいものが当たった。鼻にかかった薄い熱を持った息が、私の全身をマッチのように擦って発火させた。 「マッチって」 クスクス笑った後、ずるい彼は私が嫌じゃないと気づいてもう一回唇を奪った。 それが初めてのキスで、私の初めてを全て真中さんが奪っていく。 それが幸せで、それが意地悪で、それが嬉しくて、私の両目から涙があふれていった。 「君の色がピンク色になる度に、嬉しかった。自覚する前に気づいてごめんね」 卑怯者だよねって笑う彼が、とても好きだった。ずるいって言いながら上手に生きていて、生きにくい私に手を差しのばしてくれた。 こんな性格の悪いひねくれた私なんかにキスして真っ赤になって、それでも好きだって言ってくれる方が奇跡だよ。聖人君子だよ。真中さんの参内を作って毎日崇めたいぐらいだよ。 「あはは。香澄ちゃん、支離滅裂じゃん」 私のベットに顔を突っ込んで笑い出した後「お日様の匂いがする」っと顔を上げた。 「俺ね、心の中で思ってること、香澄ちゃん以上に口に出すことにするよ。今日は、香澄のお母さんもうきうきして、ベットの布団もちゃんと干すぐらい部屋も片付けてて、楽してて嬉しそうにしていて、本当に来てよかった。嬉しいんだ」 「うう、ダメージが」 「俺と同じ高校来てよ。それで、青春を謳歌しようね」 駄目だ。いっぺんにいろんなことが起こりすぎている。 盆と正月が一緒に来たみたい。 「えー、面白いな。何それ」 まずは、真中さんと真中さんのご友人にアクセサリーを作るんでしょ。 それで真中さんと同じ高校で青春を謳歌して、お日様の匂いがするお布団があって、お昼ご飯にピザを頼む声もしたし、それに、今。 「うんうん」 ファーストキスが奪われました。 「えー、合意だよ。合意、でしょ?」 首をかしげて甘えてくる感じが、めちゃめちゃ可愛いです。 そして、そんな可愛いけど優しくて、世界中の人、全員が絶対に好きになると間違いない。、そんな真中さんに、私はキスできて嬉しかった。 好きにならないわけないよ。私と正反対のような、こんな人。 「なんで、俺は繊細で結構口が悪くて、可愛い香澄ちゃんが好きだよ」 こんな体質で偏屈だと、客観的に見なくてもわかります。 「まあいいけど。心の中じゃなくてちゃんと言って。俺は君が好きだよ、香澄ちゃん」 そしてやっぱこの人は、自分が綺麗な顔をしていると知っていてこのようなあざといことをしてくるんだ。 そんなことを言われたらスピーカー片手に、スカイツリーの頂上から叫びたくなります。 「うん。なにを?」 なにをって。 「私も真中さんが大好きってことです!」 せっかく私が勇気を出して言ったのに、真中さんは泣きそうなぐらい優しく微笑んだ。 今、気持ちを言葉にするって言ったばかりなのに、微笑んだ。 でも私にも真中さんの声がきこえたきがしたよ。 同じ気持ちだって、顔から気持ちがあふれていた。 彼とは0距離で、抱きしめられると心地が良い。 世界で一番、優しくて大好きな人だった。 真っ赤になって、アクセサリーのデザインについてや、真中さんの高校のこと、親友さんのことを聞いて、途中目が合うと笑い出してしまったり。 そんな胸がとろけるような幸せな時間の後、一階の母から「ごはんだよ」と言われ、降りたまではいい。母が豪勢な料理をするのかと覚悟していたから、そのことはまだ大丈夫。 だけど問題はテーブルのど真ん中にお赤飯が炊いてあったこと。 それだけは、真中さんもさすがに壁に手を当てて前屈みで爆笑していた。 私は穴があったら掘って、日本の裏側のドイツに逃げてしまいたかった。
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