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遠くの君へ
たどたどしいピアノの音がどこからか聞こえてくる。
町の光は遠く、山の輪郭さえはっきりとは見えない。
少しだけ開けた窓の向こう。冷たい空気を顔に感じながらその音に耳を澄ませた。
吐く息は白く、空に浮かぶ星ははっきりと見えている。
毛布を引き寄せ、身体に巻いた。
窓枠に触れた手は体温を奪われ冷たくなっている。
ピアノを弾いている子は、温かい部屋にいるだろうか。
この冷たい空気の下ではきっと指も動かない。
ポロポロ手のひらから零れ落ちる音を掬い一つ一つ当てはめていくような拙い演奏。
時折同じフレーズを繰り返す。
目閉じて聞いた。
ピアノの練習は辛いだろうか。それとも楽しいだろうか。
少しずつできることが増えてきて、思ったとおりに弾けるようになればきっと楽しいだろう。
そこから自分の世界が広がっていくのならきっと。
誰もいない音楽室であの時君は僕にだけその音を聞かせてくれた。
将来すげぇアーティストになってやると鼻息荒く話しながら、ピアノとかギターが出来たほうがいいよなと僕に同意を求めた。
鼻歌で作曲したらと返せば、カッコ悪いと笑われた。
でも僕は君が、鼻歌を歌って新しいメロディを奏でていることを知っていた。
ポケットの中でこっそり録音したそれは、今でも僕の手の中にある。
夕日の影の中にいる君を覚えている。
拙いピアノはただの音の繋がりで、曲にはならなかったね。
こんがらがるとその手を叩いて、犬のように唸りを上げた。
それをただ見るのが好きだった。
見られていると気になると言っていたのに、いつも音楽室に行く時には誘ってくれた。
幼い時に少しだけ習ったピアノ。
手を重ねれば君は驚いて固まってしまった。
おしゃべりな口も閉じて、その丸い目は僕を見た。
一言、好きだと言えば良かっただろうか。
それとも、言わないままで良かったのかな。
赤くなった耳を隠すように制服の下に着たパーカーをかぶってその顔を隠してしまった君は、僕のことをどう思っていたんだろうか。
少しは仲の良い友達だと思ってくれていた?
君の将来の夢を教えてもらえている、数少ない特別な友達だと自負しても良かった?
ファン第一号だと言い切れるよ。
全世界の、全宇宙の人が君のファンになったとしても、一番は絶対に僕だ。
どんなに君を愛しそして救われる人がいたとしても、やっぱり一番は僕だ。
言い切れるよ。
思い出は少なく溶けていく。
あの時の音楽室はもう無いし、あのピアノももう何処へ行ったのかわからない。
もう少し一緒にいたかった。
青春の一ページではなく、もっとずっと一緒にいたかった。
沢山の知らない人と音楽に囲まれて、笑う君が見たかった。
すげぇアーティストになる前に、きっと挫折もしただろう。
その時に隣にいて、慰めることもきっとできたね。
慰めて、応援して、その背中を叩いて送り出す。
君に触れられるのは、その時の背中だけ。
体温の高い君はいつも何枚も着込んでマフラーも手袋もしていて、その赤い頬が冷たさのせいなのか暑さのせいなのかもわからなくなっていた。
そんな君が、冷たい雪の上で貸してくれた毛糸に移った温もり。
君そのものを手にしたようで、嬉しくて、複雑だった。
誰が弾いているのかわからないピアノの音は止んでしまった。
時計の長い針がもうすぐ12を指し示す。
家は連なってなどいないのに、時間を考慮してしまったんだろう。
僕の思い出を引っ張り出す音だった。
彼に似た音。
僕はもう、もし目の前に彼が現れても触れることは出来ないだろう。
鍵盤を叩く人差し指でさえ、彼には届かない。
取り込んだ鼻歌のメロディは劣化せず繰り返され、変わることは無い。
あの時の彼の声で、あの時の匂いや色を思い出させる。
あの時の音楽室に戻れたなら、何か変わるだろうか。
どうして僕を誘ってくれるのかと聞くことくらいはできただろうか。
伏せた丸い目に、もう一度。
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