群青

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「次は、忠乃海、忠乃海です。」ふと気がつくと、目的の駅はとうに過ぎていた。朝から慣れない人波に飲まれたから、疲れていたんだろう。「忠乃海」という地名に惹かれ、下りてみることにした。海沿いの田舎を走る路線。駅が近づいても栄えている様子はない。赤や青の瓦屋根に混じって、年季の入った無機質なコンクリートの建物が見える。センスのない行政が建てた建物だろう。バブル期に余った金で作ったんだろうな。今は維持だけで大変だろうな……と思いながら、海を求めて電車を降りた。 外の風はやはり生ぬるい。潮の香りが一面に広がっている。遠くからセミの声が降り注いでいる。少し街を離れたからか、ツクツクボウシの声も混じっている。降りる人影はほとんどいない。一人、スーツの似合わない就活生風の男が汗を拭きつつ電車に乗り込んでいった。こんな田舎町でも、都会の就活という波に飲まれるのか。スーツの男とすれ違いながら、同じことをしていた時が、はるか昔に思えてきた。 人気のない改札を出ると、思っていたよりも賑やかな町だった。駅前にロータリーこそないものの、駐車場は車でいっぱいだった。すぐそばには交番もあるし、コンビニだってある。駅の前には少し古いけれど旅館もある。今日はこの町で過ごすのもいいかもしれない。観光をするつもりはなかったが、せっかくなのでと駅員に話しかける。少し歩いたところに観光名所があるらしい。どこにでもあるコンビニで、観光客向けのヤマシタラムネとどこにでもある水を買い、照り付ける日差しの中を歩いて行った。  大した距離じゃないから大丈夫だろうとタカを括っていたのが間違いだった。大荷物と酷暑ともいえる日差しの下は思っていた以上にハードで、すぐにでも海に飛び込みたい。救いだったのは海風があったこと。暑さにバテそうになっても、海風が気を紛らわせてくれた。「ジャム作りが体験できますよ」と慣れた口調で案内した駅員の言葉を信じて歩いてきたが、ジャム作りどころじゃない。ここ最近ずっと冷房の中に引きこもり、運動不足の身に真夏の暑さは堪えた。空よりも濃いブルー外壁が、だんだんと近づいてくる。水は全部飲み干し、残ったのは生ぬるくなったヤマシタラムネが半分。もう炭酸もだいぶ抜けていて、もう飲む気はない。ヲヲハタジャムデッキに到着する頃には、ただの荷物になっていた。「あら、お兄ちゃん、この暑い中歩いてきたん?えらいわなぁ。」「その荷物はどうしたん?旅行かぇ?ええわぁ。」「はょ中に入って涼みんさぃ。えらい汗かいとるわぁ。」観光バスに乗り込もうとする奥様集団に絡まれた。こんな平日から若い男一人で歩いているのが珍しかったのか、キンキン甲高い声が耳障りだ。イヤホンで聞こえないふりをして、作り笑顔でやり過ごした。厚化粧と香水と日焼け止めと潮風の混じった匂いが鼻につく。中に入ればゴミ箱ぐらいあるだろうと期待していた。  いざ入り口を前にすると、少し気分が上がってきた。SNSのフォロワーなんてたかが知れているが、映え写真を撮ろうと建物をバックに自撮りした。相変わらず不細工だな、俺。ぬるくなったヤマシタラムネを顔の横に持ち、建物が入るようにスマホを構えた。何枚か写真を撮って中に入った。冷房の効いたフロアの奥には受付がある。さっきの観光バスのバスガイドだろうか。紺色の中折れ帽に赤いリボン、腰まである長い黒髪。体のラインが見えているピンク色の制服。ひざ丈のベージュのスカート。スカートの下から伸びたストッキングを履いた足がスラリと伸びている。おそらく同年代か。「あんなおばさん達相手に、大変だろうな。」若い女性の脚をまじまじと見たのは久しぶりだった。 受付に話を聞こうと歩き始めたが、暑さにやられたのか頭がクラクラする。思わずしゃがみ込んでしまった。なんだよ、だっせーな……と思った瞬間、「大丈夫ですか?」とどこか懐かしい、柔らかい声がイヤホンの上から聞こえてきた。どうやらさっきのバスガイドが、気を遣って声をかけてくれたらしい。立ち上がって「大丈夫です」と言おうとしたが、うまく力が入らず、立ち上がれない。若者らしいクロエの香水が、うっすらと漂ってきた。顔を挙げようとした目の前に、ストッキングを履いた膝と、ベージュのスカートが見えている。スラリとした脚の隙間から、美しい太ももがのぞいていた。「大丈夫で……え?しゅんくん?」懐かしいと思って聴いていた声の声色が、驚嘆の声に変っていた。声の変わり方に驚いて顔を上げると、忘れようとしていた懐かしい顔が目の前にあった。 「しゅんくん!大丈夫??どうしたのこんなところで??」バスガイドは学生時代以来会っていない、百香だった。化粧こそバスガイド用に変わっているけれど、長いまつげ、ぷっくりした唇、ほっそりとした顔のラインは変わらない。一番仲が良くて、一番一緒にいた女友達。色々な思いがこみ上げてきたけれど、今はそれどころじゃなかった。「暑さにやられたみたい、大丈夫だよ。」「顔真っ赤だよ!?ちょっと待ってて、受付の人に言ってくるから。」百香はコツコツと足早に受付に走り、手短に事情を説明した後、俺のところに戻ってきた。「ここの休憩室を貸してくれるって。少し横になるといいよ。」「ありがとう。仕事中?なのに悪いね。」「ううん、大丈夫……だけど、バスを待たせてるから行くね。あとでメールしてもいい?」「俺のことは気にしなくていいよ、仕事の邪魔してごめんな。」「気にしないで。今日は遅めのランチコースだから。じゃ、またね。」百香は足早に建物の外に出ていった。 百香に言われた通り、受付の女性が休憩室へ案内してくれた。小声で礼を言いながら、ソファーに横になったところで急激な眠気に襲われ、眠ってしまっていた。
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