佐倉

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佐倉

「好きな男が好きになってくれる訳がない」  そんなことは分かっている。分かっているのに好きになるのは愚かだろうか。  佐倉に初めて声を掛けられたときのことを憶えている。人見知りなところのある僕は独りでいることが多い。別に友達がいないという訳じゃない。それでも教室で浮いていたのだろう。軽い調子で話し掛けてきた佐倉の明るく穏やかな顔が忘れられない。  佐倉は僕を穏やかで優しいと言うけれど、それは佐倉の方だと思う。少し低めの落ち着いた声で、けれど明るくて優しい喋り方をする。  だから。まるで脅すようにスマホを突きつけられて僕は怯んだ。バレてしまったということよりも、佐倉の瞳に浮かぶ昏いいろが怖かった。  昨夜一緒にいたのは佐倉に告げた通りの相手だ。高校の一つ先輩で、その頃からずっとそういう付き合いだ。僕たちみたいなのは、恋愛と欲求を分けて考えないとやってられない。恋は叶わないもの。好きになる相手は、テレビの中の芸能人よりも遠くにいる気がしていた。だから代用品を探して温もりを得る。目を閉じれば必ずそれを好きな相手だと思い込める訳ではないけれど。 「利害が一致していると思う」  放たれた言葉は抑揚もなく、冷たく胸に落ちた。差し出された手に触れる勇気はない。震えているのが伝わってしまう。もしかして違うものまで知られてしまったらもう友達でもいられない。  ふ、と自嘲が漏れた。バカだな僕は。前を歩く佐倉の背中を見つめながら思う。もう、友達ではいられない。なのに胸の奥のどこかが僅かに色づいて騒めく。  好きな相手が好きになってくれる筈がない。  好きな人に抱いてもらえることも、一生ないと思っていた。 「目、瞑るな」  佐倉が言う。 「ちゃんと目を開けて、お前を抱いてるのが俺だってことを見とけよ」  佐倉はバカだ。こんな佐倉の匂いが染みついた部屋で、ベッドで、聴き慣れた佐倉の声で。そんななかで、いったい佐倉以外の何を想像できると思っているのか。 「桐野」  よく知っている、けれど知っているのよりも少し低くて熱を含んだ声が汗ばんだ肌に落ちる。そろそろと目を開けると佐倉が見下ろしていた。劣情に濡れた目は先ほどまでの昏さが薄れていて勘違いしそうになる。これがただの処理だということを忘れて縋りつきたくなる。抱き潰したいと言っていたくせに思わず優しい指の動きに、期待してしまう。  だからまた目を閉じた。 「なあ桐野、目え開けて」  頰を包まれても開けない。 「開けないとキスするぞ」  そんなことを言われて開ける筈がない。 「桐野」  低くて穏やかな声が甘みを帯びる。佐倉は誰を想って囁くんだろうか。抱き潰したいほどに焦がれるのはどんな人だろうか。この手を、声を、あの瞳を。手にする権利のある誰かは今何をしているのだろう。  こちらを見下ろす佐倉の濡れた瞳に、(これ)は違うと過るのを見たくない。二度と目を開かなければ、さっきの熱を帯びた劣情だけを信じていられる。  僕たちの想いは報われることがない。だから初めから期待しない。告げようとも思わない。そして代わりを求める。 「目を開けろよ桐野、なあ」  佐倉の想いが一生届かなければいい。  そう思った。  講義が終わって帰り支度をしているといつもの面子が集まってきた。その中にはもちろん佐倉もいる。いつも通りの笑顔で、あの日の出来事は夢だったのかと惑うくらいに、何も変わらない。だから僕も何食わぬ顔で応じるしかない。  だらだらと取り留めのない会話をして正門を出たところで散り散りに別れてゆく。バイトやらデートやら、大学生は案外忙しい。 「桐野なんか予定ある?」  所在なげに立っていると佐倉に声を掛けられた。 「いや。別に」  鼓動が跳ねる。期待する。当たり前だ。たとえ誰かの代わりでも、僕は好きな相手の熱を知ってしまったのだから。 「ふうん。じゃあちょっと付き合えよ」  気がつけば仲間は誰もいなくなっていて、門の前に立っているのは佐倉と二人だけだ。 「他の奴じゃダメなの?」  せっかくのチャンスをふいにするかもしれないのに僕はバカだ。 「誰にでも持ち掛けられることでもないからな」  佐倉の答えにほっとする。僕は本当にバカだ。そんなことが嬉しい。佐倉に選ばれた訳でもないのに。  佐倉を見ないまま頷いた。歩きだす佐倉の後をついてゆく。隣には並ばない。高鳴る胸の音を、染まる頰を、佐倉に気取られないように。そっと息を詰める。  どこかの誰かが佐倉に気づくまで、あの熱は僕だけのものだ。
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