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桐野
「だって好きな男が好きになってくれる訳がない」
けれど身体は疼くのだからしょうがない、そう言って桐野は笑った。自分の言葉に傷ついているのが丸分かりの乾いた声で。
「まあその意見には俺も賛成だな」
だから俺も同じくらい乾いた声で言った。投げやりで、けれど必死な気持ちで。桐野にはそれを決して気取られたくはない。どうせ、好きな男が好きになってくれる訳はないのだから。
「利害が一致していると思う」
俺は握手を求めるように手を差し出した。別に期待なんてしていない。桐野が握り返してくれる訳がない。俺の提案は卑怯で、強引で、残酷だ。桐野に断る隙を与えない。
「……」
ぱしんと俺の手を払って桐野は視線を逸らした。それを気にも留めないふりをして、ひとつ肩を竦めて踵を返す。嫌ならついて来なくてもいい。けれど桐野はついて来る。綺麗で、臆病で、優しいから。
後ろは振り返らずに歩いた。少し離れて足音がついて来る。不思議と胸は痛まない。けれど腹の辺りからムカムカと苦いものが上がって来る。桐野は仲の好いグループの一人だ。その中でも特に距離が近かったように思う。過去形で語るのは既に壊れたと自覚しているからだ。俺が壊した。
けれど、それでも欲しかったのだからしょうがない。奥歯を噛んでそう言い聞かせた。
事の発端は昨日の夜だ。バイト帰りに桐野を見かけた。ちょっと特殊な場所だったので驚いた。しかも桐野は一人ではなかった。男に手を引かれて歩いていた。俺は自分でも驚くくらい血が沸き立って、冷静さを欠いてしまった。
桐野が好きだ。
そう自覚したのは一年の終わり。たまに講義が被るので面識はあった。物静かだけれど話し掛ければ案外屈託なく喋る奴で、いつの間にか普段連んでいるグループの一員になっていた。
俺はもうとっくに自分の性指向を自覚していて、だけど初めから桐野を好きだった訳じゃない。好ましいとは思ってもそれは友人に向けるものだった。他の奴らに対するのと同じように。
それがいつどうして恋に変わったのかなんて分からない。気がついたときには好きだった。でも桐野は友達で。どうにかなるものじゃない。友人間で告白なんかしても、せっかく近くにあるものを遠ざけるだけだ。昔ほど同性間の恋愛が忌諱されなくなったとは言え、それは昔と比べてだ。男女の恋愛みたいに当たり前には受け入れられないし、気味悪がる奴は今でも大勢いる。好きな相手にそんな目で見られることには耐えられない。
恋愛なんて綺麗なことばかりじゃない。大切に真綿にくるんで守りたいと思う気持ちのすぐ傍にどす黒い欲が在る。滅茶苦茶に苛んで縋りつかせたい。汚して壊して泣かせたい。何度も何度も夢想する。罪悪感なんて何度目かの恋で消えてなくなった。その夢が叶うことなど永遠にないのだ。それなら夢にみる権利くらい残してほしい。
それなのに。
桐野が男に手を引かれている。踏み越えられない筈の一線を越えた奴がいる。それは裏切りに思えた。
これがただの友達だったなら、気づかぬふりをして歩み去れた。それがルールだ。でも桐野が。
俺はふらふらと後をつけた。卑怯だとか汚いとか。そんなことはどうでもいい。建物に入っていく二人をスマホに収める。その夜夢想した桐野は、ずっと許しを乞いながら泣いていた。
「昨日手を繋いで歩いてたのって、恋人?」
朝の講義が終わってから桐野を掴まえた。
「え」
戸惑ったような桐野の表情から見る間に色が抜けてゆく。それが俺をますます残酷な気持ちにさせた。
「仲好いね、手え繋いで歩くなんて。俺こいつ知ってる」
言いながら昨夜写した画像を見せる。同じ大学の男が恋愛対象になるのなら教えてほしかった。まあ、教えてもらったところで俺が選ばれる訳でもないが。
「違う」
絞り出すように桐野が言った。
「違う、恋人じゃない。そんな奴好きじゃない」
真っ青な顔で。震える声で。それでも俺を睨んで。
「へえ。恋人でもないのにこんなとこ行くんだ?」
愛しくて堪らない桐野を、大切にくるんで守りたい。そう思っているのは本当なのに。
「好きになった男が僕を抱いてくれる訳じゃない。それでも身体が疼くんだからしょうがないだろう」
「好きな奴がいるのか」
俺の言葉に桐野がハッと笑う。
「何、お前も僕たちみたいなのは男なら見境なく誰にでも盛ると思ってんの? 残念。こっちにも感情はあるの。でも報われることなんて殆どない」
いつも穏やかな桐野にこんな一面があるなんて知らなかった。俺を蔑むその言葉は、桐野自身を傷つけるのだろうに。けれど俺だって、吐き捨てられた気持ちは痛いほど分かる。
「知ってる」
一歩近づくと、ぴくりと震えて桐野は一歩後退る。だけど逃げない。だから手を伸ばす。
「俺にだって好きな奴がいる。でも好きな男は俺じゃない誰かを好きだ。それでも抱き潰したい衝動は抑え難い」
掴もうとした手は体の後ろに回されてしまった。
「だからまあ、桐野の意見には俺も賛成だ。利害が一致していると思う」
荒れ狂う胸の内とは裏腹の静かに乾いた声で、俺はもう一度手を差し出した。
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