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Menu 1 『Darjeeling First Flash』
傾いていく日が、視界を淡い蜂蜜色に染めている。
駅を出て当てもなくさまよっていたあたしは、いつの間にか見知らぬ住宅街を歩いていた。知らない場所、見たことのない場所は、それだけで空気までも違っているように感じさせる。初めて吸い込む空気で身体中を満たしながら、あたしの足は家々の間を縫っていく。
どうやらこの辺り、進んでも進んでも上へ延びる道が終わらない。緩い丘だから息を切らすほどの勾配ではないけれど、かわりにとにかく長い坂道がただ続く。
そして坂を見つけたら、とにかく上りたくなるのがあたしの性分だ。そこに山があるから……ってのと、たぶん同じ。そんな場当たり的な衝動に任せて、知らず知らずのうちにここまでやってきてしまった。
でも、こんなに長いなら、どこかで引き返すタイミングを決めたほうがいいかもしれない。頭の片隅でそんなことを思い始めながら、結局また一つ、角を曲がる。
すると、ここまで林立していた家屋の連続がふいに途切れ、少し開けた空間に出る。
坂から横に逸れていく道は舗装されておらず、そばには車四、五台分ほどの駐車場が設けられている。そこからさらに奥へ足を進めると、木々に隠れた建物がひょっこり顔をのぞかせた。
印象的な三角屋根、深い茶色の木造建築。ぱっと見の垢抜けた佇まいとA看板で、カフェなのだろうと想像がついた。小さいながらも立派な店だ。名前は『TEAS 4u』というらしい。
そして何よりあたしの目を引いたのは、入口の前で無造作に咲く明るい黄色の花だった。
菜の花だ。
それはあたし――伏見菜乃花と同じ名前の花。
あたしはまるで吸い寄せられるようにそのカフェの扉に手をかけた。ゆっくりとのぞき込むように押し開けて店内に入ると、穏やかな声が耳に届く。
「いらっしゃい」
カウンターの奥にすらっとした長身の男性が立っていた。柔らかそうな黒髪の、健康的な好青年……がちょっと気怠げになったような。白シャツとパンツスタイルの上にミドルエプロンとループタイという格好は、ラフでありながら清潔感もあり、ザ・カフェの店員って感じ。いや、小さい店だからたぶん店長――もっと言えば店長より、マスターって呼びたい風貌だ。
マスターはあたしの姿を見て少しだけ驚いたような表情を見せたが、すぐに慣れた様子で「お好きな席へどうぞ」と微笑む。
その言葉に従い、あたしはカウンターとは反対側の丸テーブルを選んで座った。
そうして改めて店内を見渡す。内装は、外観と同じ色合いの木造でとても落ち着いている。机や椅子のようなインテリアには絶妙な統一感があって、オシャレっていうかオトナっていうか、いわゆるハイソサエティー? そういう嫌味のない上質さを思わせた。
あれ……もしかしてあたし、来る場所間違えた? あたしみたいな女子高生が一人で入っていい店じゃなかったのかな。しかも下校途中で制服のまま……だからさっきマスターは、あまりにも場違いなあたしを見て、驚いていたのかもしれない。
けれどそんな心配は、卓上のメニュー表を見て少しだけ和らいだ。
『紅茶』
・ストレートティー
ブレンドダージリン……\600 アッサム………\650
ニルギリ…………………\650 ウバ……………\650
ヌワラエリヤ……………\650 キャンディ……\650
ディンブラ………………\650 ルフナ…………\650
祁門………………………\650
・フレーバードティー
アールグレイ………………\650 正山小種……\650
正山小種(龍眼)……\700 ジャスミン……\650
アプリコット………………\650 ラベンダー……\650
バニラ………………………\650 ロータス………\650
・数量限定
ダージリン ファーストフラッシュ……\1000
ダージリン セカンドフラッシュ………\1200
ダージリン オータムナル………………\950
アッサム ゴールデンティップス………\800
ウバ ヴィンテージ………………………\750
※全てホットサービスになります。アイスティーはグラスにてディンブラ(\600)を提供させて頂きます。
どうやら、ここは紅茶のお店のようだ。開いたメニュー表の出だしから、その面積の七割近くを費やして並んでいたのが様々な紅茶のリスト。以降のメニューはフリードリンク、ケーキ類と続いていく。よくあるカフェと違うのは、コーヒーの類が一切ないことだった。
にしても、この紅茶メニューの数々……えっと、最初のダージリンは、聞いたことある。二つ目のアッサムも……たぶんどこかで。けど、三つ目からはまるで呪文だ。カタカナの羅列かと思いきや、時々読めない漢字もある。
フレーバードってのは、香りのする紅茶のことかな。アールグレイはなんとなくわかると思う。次に読めないのが二つあって、ジャスミンからは全部フルーツや花の名前だから、きっとそういう香りがするんだろう。
数量限定のやつは……とりあえずちょっと高め。
でも全体的に、決して払えない値段ではない。高校生のあたしの財布にだって、これくらいは入っている。なんならファミレスで友達と食事をするより安いかもしれない。まあ、少ないけど一応、知ってるものもあることだし……。
なんて、難しい顔で考えていたら、いつしか目の前のメニュー表に影が落ちていた。
「あっ、えと……」
見上げた先にいたマスターは、固まるあたしを前にとても自然な口調で尋ねる。
「よければ、ご注文、おうかがいしましょうか?」
「は、はい……じゃあ、ブレンドダージリンで、お願いします」
「かしこまりました」
マスターは軽く頷いて、またカウンターの奥に戻っていった。
あたしはふっと息をつく。慣れないメニューで悩んだ反動かと思ったけど、たぶん違う。単に駅からここまで歩いてきた疲れだろう。
首を左に捻ると、大きな南向きの窓から麓の街が見渡せた。こうして俯瞰する限り、駅からこのカフェまでそれほど離れているわけではない。あたしがただ回り道をしてきただけだ。
まあでも、回り道でも全然オッケー。だって目的は時間潰しで、そもそもなぜあたしが突然、しかも一人でこんなところに来たのかといえば、それは寄り道のネタが尽きたからだった。
今からほんの三ヶ月くらい前のある日のことだ。その日を境に、あたしの生活は一変した。この身体に、この心に、大きな傷を負ったことで。
そして今も、あたしはその傷から立ち直ることができていない。だからきっと、意味もなくこんな、突発的で奇怪な気晴らしに出たりする。学校帰りの電車で寄り道、ふいに気ままに途中下車。言うなればこれは、あたしの小さな、そして密かな、傷心一人旅なのだ。
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