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「お待たせ致しました」
声がして、あたしは窓の外から視線を戻す。テーブルにすっとコルクのコースターが置かれ、その上に、両手に収まるくらいの透明なティーポットが現れた。
「ブレンドダージリンでございます」
「あ、どうも。ありがとうございます」
あたしは椅子に座ったままぺこりとお辞儀をする。
そうして顔を上げた先には、窓から差し込む光に負けないくらいの鮮やかなオレンジ色が、静かにたっぷりと揺れていた。丸いティーポットに満ちた紅茶が、きらきらと光を跳ね返す。その姿はまるで大きな、とても大きな宝石のようだ。しかもよく見れば、中では細長い茶葉が上下にぷわりぷわりと浮いたり沈んだり、楽しそうに踊っているのがわかる。
あたしは思わずポットに顔を近づけて声を漏らした。
「わぁー、すごい。葉っぱが弾んでる!」
するとマスターは笑って尋ねる。
「お客さん、見るのは初めてですか?」
「はい! 紅茶は今までも飲んだことあるけど、自分でいれたことなんてなかったから見たことなくて……ポットの中って、こんなふうになってるんだー」
「ええ、こんなふうになっているんです」
ポットの表面がレンズのように光を屈折させ、踊る茶葉たちを大きく見せる。
「これは、ジャンピングと呼ばれる現象です。沸騰した直後の湯で紅茶をいれると、対流に乗って茶葉が上下すると言われています。そうすると、一つ一つの茶葉から満遍なく味と香りが抽出されるので、おいしい紅茶になるというわけです」
「へぇー、そうなんですね! おもしろーい!」
茶葉がポットの中で上に下にかわるがわる漂うさまは、見ていて不思議と飽きないものがある。なんだろう、例えばひっくり返したあとの砂時計の落ちる砂をついしげしげと見つめてしまうような、そんな感覚に似ている気がした。
「はは、そんなに気に入って頂けるとは、思わぬ収穫でした。普段は陶器のティーポットでお出しするんですが、今日はたまたま、ガラスのものを使ってみてよかったです」
「普段はガラスじゃないんですね。こうやって中が見えるの、いいと思いますけど」
「まあ、それはそれ。陶器のほうが保温性が高くて、渋味も出にくいので」
「そう、なんですか」
ポットの材質一つで結構変わるものなんだな。あたしはそんなふうに思いながら再び背筋を伸ばして座った。そして、他の店ではどうだったっけと思い出そうとして、そもそもティーポットというもの自体を久しぶりに見たことに気づく。
「っていうか、ポットで出てくるんですね。紅茶って」
あたしの感想にマスターは一瞬「ん?」という顔になるが、すぐに納得した様子で答えた。
「ああ、よくあるチェーン店とかだと、カップ一杯で出てくる店も多いですよね」
そうなのだ。最近友達と行った街のカフェやファミレスでは、どこもコーヒーや紅茶はカップ一杯。だいたいそれで四百円とか五百円とか。安いと思ったことはないけれど、高いと思ったこともない。たぶん場所代も入ってるんだろうし、それが普通なんだと思っていた。
「うちは基本的に、どのメニューもポットでお出しますよ」
一方で、この店は紅茶が六百円から。もちろん上を見ればもっと高いメニューだってあったけど、それでもポットで出てくるなら決して高すぎるという気はしない。いや、むしろものによってはファミレスよりもお得なんじゃ……? だって目の前のポットの大きさを見る限り、これで明らかに二杯以上は飲めるのだから。こんな雰囲気のいい、ともすればセレブの若奥様とかがお忍びでやってきそうな店でも、意外と値段に差はないんだ。
そんなことを考えている間に、今度はマスターがティーカップを出してくれた。ポットの前に丁寧に置かれたそれは、まるで開いた花のように丸い縁が印象的な黄色のカップだった。
「あとうちの店は、初めてや久しぶりのお客さんには、特別なティーカップで提供させてもらってます。その方に似合いそうなものを、こちらで選んで」
マスターはそう言いながら、軽く視線でカウンターの奥を示した。そこにはいくつもの正方形が連なる木製の格子棚。各々のマスに一つずつ、色も柄も形も様々なティーカップが並べられている。そして今は、そのうち一マスが空いていた。たぶん、目の前にある黄色のカップが置かれていた場所なのだろう。
あたしはマスターを見上げて尋ねた。
「あの、それって、マスターはこのティーカップがあたしに似合うと思ったって、ことですか?」
「ええ。ああでも、あくまで僕の勘ですので、気に入らなかったら聞き流しておいてください。単なる店側の趣味とでも思って」
あたしは「はい」と曖昧に返事をしながらも、内心では、とんでもないと思っていた。気に入らないなんて、聞き流すなんてとんでもない。マスターが慣れた手つきでポットから一杯目の紅茶を注いでくれている、その鮮やかな黄色いカップを見つめながら、あたしの胸は不思議な驚きと暖かさで満ちていたのだ。
だって黄色は、あたしの一番好きな色。他でもない、菜乃花の色。あたしを元気づけてくれる喜びの色だ。
そのときあたしは、初めてマスターの切れ長の両目を見た。
きっとこの人は、あたしのことを、よく見ている。
「ちなみにですね」ふと、ポットをコースターに戻したマスターが言った。「ダージリンというのは、インドの北東部、ダージリン地方で採れた紅茶のことを、こう呼びます」
「じゃあ、地名がそのまま紅茶の名前になったんですね」
「ええ。紅茶の名前は、実はそのほとんどが地名か国名です」
「へえー。それって、日本茶とか、静岡茶みたいな?」
「ああ、そうですね。そんなところです」
マスターはポットの上から布でできたカバーのようなものをすっぽりと被せる。それは確か、ティーコジーという、紅茶を冷まさないためのものだ。
「中でもダージリン紅茶は、世界で最も有名な紅茶。いわば紅茶の代表です。その鮮やかなオレンジの水色と華やかな香り、甘味と渋味の絶妙なバランスから『紅茶のシャンパン』とまで呼ばれているんですよ」
紅茶のシャンパン! もう何がなんだかわからないけどとにかくオシャレ。
「初めて、聞きました」
たぶんこんなこと、あたしの友達は誰も知らない。それどころかきっと、父さんも母さんも知らないだろう。学校では、こういうことは教えてくれないから。
感心するあたしをよそに、テーブルの上にはミルクと砂糖、茶こしが順に並べられていく。
「その名に違わぬ逸品ですので、ぜひご賞味くださいね。お茶が濃く出すぎたときには差し湯もできますから、気軽に言ってください」
そして最後に「ごゆっくり」と残してマスターは下がった。
あたしは一人になり、目前のきらびやかな茶器たちにちょっとだけ気後れしつつも、両手で掬うようにカップを取る。
紅茶のシャンパン。その名に違わぬ逸品なんて言われても、あたしによさがわかるだろうか。
けれど口にした途端、そんな不安は嘘みたいに溶けて消えた。同時に、はっと目の覚めるような感覚がする。鼻に抜ける香り、舌に広がる味、喉の当たり。どれも今まであたしが飲んできたもので例えることが難しい、幅と深みがある。甘く、そして仄かに苦く、熱さの中に冴える玲瓏な爽やかさ。まるで様々なものの風味を一度に取り込んでいるような感じ。
……おいしい。
細かい理屈はわからないけど、でもはっきりとそう言えた。
あたしはそれから、マスターに言われた通り本当にゆっくり、夕日がしっかり沈みきるまでの時間をかけてポットの中を空にした。
その間、店には仕事帰りと思われるお客さんが何人か訪れた。席に座ってマスターと長く雑談をしていく人もいれば、ケーキのテイクアウトをして帰る人もいる。客足は、まばらではあったものの途切れることがなく、あたしはその中でタイミングを見計らってマスターに声をかけ、手早く会計を済ませて店を出た。
すっかり冷えた夜の帰り道、そして、家に着いて夕食を食べ終えたあとでさえ、マスターの紅茶の味は強く確かな余韻となってこの口に残っていた。
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