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四月末から始まった連休は気づいたら終わっていた。やったことといえば、数回友達と遊んだのと、週に一回の肩のリハビリに行ったくらいだ。そもそもあたしにとって、テニスができなくなってからの生活はずっと休んでいるようなものだったから、一週間の休日を特別に感じることはない。あたしは三ヶ月前から、もうずっと休んでいる。
五月になっても放課後は変わらず暇なまま。もう三年生になったんだし、暇なら受験勉強をしたほうがいいとわかってはいるのだけれど、どうにも始められないままだ。とりあえず机の上に教科書とノートを広げつつも、見ているのはもっぱら窓の向こうの空ばかり。
そんなあたしを、教室の外から呼ぶ声があった。
「伏見さん、ちょっといい?」
テニス部の顧問の先生だ。ジャージ姿。たぶん部活の合間に来たのだろう。こうして話すのは結構久しぶりな気がする。
「はい。大丈夫です」
「知ってるとは思うけど……一応連絡ね。今月末、テニス部のインターハイ予選があるわ。団体戦が、四週目の土日。学校からバスが出る予定だから、伏見さんも、もし応援に行くつもりがあれば、席を空けておこうと思って」
インターハイ予選か……確かにもうそんな時期だ。
「ああ、もちろん、伏見さんのしたいようにして、いいんだけどね」
先生はやんわりと目尻を下げながら、すかさずそう付け加える。丁寧に言葉を選んでくれているのがわかる。先生はいつだって優しい。
あたしは一瞬だけ迷ったが、すぐにできる限りの笑顔を浮かべて明るく答えた。
「あはは、えっと……ありがとうございます。でも、席は空けておかなくていいですよ。行くとしても、あたし、自分で行きますから」
先生はしばらく黙っていたけれど、やがて静かに「……そう」とだけこぼした。あたしの答えをある程度予想していたのだろう。落ちた視線に驚いた様子は感じられなかった。
「あのね、伏見さん。部のみんな、あなたのためにも頑張るって言っていたわ。今年は絶対ベスト4に入って、それで……そのまま優勝までいくんだって」
「本当ですか? 嬉しいなー。じゃあ先生、よかったらあたしからもみんなに、頑張ってって伝えてください」
「ええ、伝えるわ。だけど伏見さん、できたらそれは直接……」
「先生」あたしはそこで立ち上がり、先生の言葉を遮るように口を開く。「連絡、ありがとうございます。でも、すみません。あたしこれから、行かなきゃいけないところがあって」
深く腰を折り、机に広げた教科書とノートを鞄に放り込むと足早に教室を出る。去り際、先生は何か言おうとしていたようだったけど、結局、あたしを呼び止めることはなかった。
うちの高校は、テニスに関してそこそこの強豪だ。この『そこそこ』というのが過大でも過小でもなく正しいところで、公立校であることの限界も含めて妥当といえる。昔は正真正銘、随一の強豪で、地区では当たり前のように優勝をさらっていたような高校だったが、今では私立校の勢いに押されて五番手か六番手くらいの位置にいる。
だから先生の言っていた「今年は絶対ベスト4」は、あたしたちにとっては目標である以上に、意地のようなものでもあった。優勝だって、決して夢物語で口にするわけじゃない。もっと形のある、実感を伴って手を伸ばすべき先にあるものだった。
去年の大会で、一つ上の先輩たちが準々決勝で負けベスト8に終わったとき、涙とともにもらった言葉を、あたしは強く覚えている。
――伏見がいれば絶対、来年はもっと上にいけるよ。だから、頑張って!
それから一年が経った今、あたしはラケットを握っていない。
席を立ってしまったのでそのまま学校を出ることにした。西日の中を昇降口へと向かう。
すると、途中の廊下で麻理子先生と顔を合わせた。俯き気味に歩いていたあたしはかなり接近するまで気づかなくて、ぶつかる直前になってようやく視線を上げた。
「あ」
「こんにちは、菜乃花さん」
麻理子先生はいつも背筋をすっと伸ばしているから、実際の身長よりも大きく見える。ぱりっという音が聞こえてくるくらいにしわ一つない白のブラウスと黒のスラックスは、先生から溢れる清潔感と真面目さをそのまま服に仕立てたみたいだ。あたしの髪よりも少しだけ長い、肩にかかるくらいの深く黒い髪を揺らし、とても大人っぽいメゾソプラノの声で話す。
「前を向いて歩かないと危ないですよ」
「あはは……そうですよね。気をつけまーす」
「はい、そうしてください」
先生はあたしの目を見て、軽く微笑んでから尋ねた。
「ところで、今日はこれからお忙しいですか?」
同時に開かれた右手には、銀色の鍵が一つあった。たぶん音楽準備室――より正確には、第二音楽準備室のものだろう。その部屋はもう長いこと使われておらず、最近まですっかり放置されていた。この学校の音楽教師は去年まで定年寸前のおばあちゃん先生だったから、楽器を動かしたりする力仕事は極力見送られていたのだという。麻理子先生は赴任した今年からそれを少しずつ片付けていて、あたしもよく手伝っていた。
でも、今日は……。
「あー……ごめんなさい。あたしこれから、行かなきゃいけないとこがあって」
「そうでしたか。では、仕方ないですね」
先生はまったく気を悪くした様子もなく、右手の鍵を引っ込める。
「そもそも菜乃花さんは今年から受験生ですし、あまり気軽にこき使うものではないですね」
う……受験勉強は、まだ全然してないけど。
ただ、それとは別に嘘をついてしまったことを、とても申し訳なく思った。こんなに短い間に同じ嘘を二回もついてしまうなんて。別に行かなきゃいけないところなんてないのに……。
そのときあたしは、ふと思い出す。
行かなきゃいけないところじゃないけど、でも行きたいところなら、一つあるかも。
あたしは笑顔を作って、麻理子先生にもう一度「ごめんなさい」と頭を下げた。手伝えなくて、受験勉強してなくて、嘘をついてごめんなさい。
そうして先生とすれ違って学校をあとにした。
あたしの足は、ほとんど迷うことなく丘の上のカフェに向かった。一度ふらふらと行っただけでも、案外、道を覚えているものだ。
「ああ、また来てくれたんですね。ありがとうございます」
扉を開けたとき、マスターはあたしを見てすぐにそう言った。
「よく……覚えてましたね」
「まあ、こういう商売ですからね。一度来て頂いたお客さんは覚えますよ」
なんでもないことのようにマスターは答えたけど、それって結構、すごいことだと思う。意外な出迎えに、あたしはまるで行きつけの店に来たみたいな気分になった。
前回と同じく、夕日に照らされた店内に他のお客さんはいなかった。どうやら平日のこの時間帯は空くらしい。テーブル席を選んで座る。
「ご注文は?」
「えっと、ブレンドダージリンで、お願いします」
「かしこまりました。よければ今日は、一緒にケーキなんてどうです? ちょうど桜味のシフォンケーキができたんですよ」
「ケーキ、ですか」
メニューを見ると、桜味のシフォンケーキは五百円だ。飲み物と一緒にケーキセットとして頼むと百円割引されるらしい。ということは、紅茶と合わせてぴったり千円。ちょっと贅沢かもしれないけど……でも、今日はさっき学校から逃げ帰ってきてしまうようなことがあったばかりだし、だから自分を励ましてあげなきゃいけない気がするし、それなら甘いものはうってつけだし……うん、いっか。
「じゃあ、お願いします。だけど、桜味がちょうどできたって変じゃないですか? 今、もう五月なのに」
「はは。本当はもっと早くに出せる予定だったんですけど、試作をこだわっていたら桜の時期に間に合わなくて」
「そ……そうなんですか」
季節物って時期遅れたらダメなんじゃない? とは思ったが、ほどよく力の抜けたこのマスターの様子を見ていたら、つられてあまり気にならなかった。っていうか、桜味って当たり前のようによく聞くけど、実際のところ何が元になってるんだろう。桜の花びらがみじん切りされて入ってたりするのかな。いや、そんなわけないか。
それでも、やがて運ばれてきたほんのり桜色のシフォンケーキは、確かにちゃんと桜の味がした。平たいデザートプレートに乗った揺れる扇型が、もう見ただけでもふわふわとわかる。加えて横にはたっぷりの生クリーム。アクセントに添えられたハーブは、その鮮やかな緑から桜の葉を連想させる。
あたしはフォークを手に、黙々とそれを食べ始めた。甘味と一緒だと紅茶の味もいっそう際立ち、一口ごとに互いの味がしっかりと感じられる。
静かで落ち着いた店内は、時間までもがゆっくり流れているような気さえする。身体から次第に強張りが抜けていき、そこで初めて、あたしは自分が今まで緊張していたのだと知った。
しばらくしてケーキと紅茶が半分ほどなくなったとき、そばを通りかかったマスターがふいに言った。
「今日は少し、元気がないように見えますね」
はっとして、あたしは思わず顔を上げる。素直に驚いていた。もともとあたしは活発な性格で元気もあって、だから空元気だって得意分野……なのにまさか、こんなふうに言い当てられるなんて。
「あ……えっと……」
でも、マスターの言った通りだった。今のあたしは、言い訳のしようもなく気落ちしている。部活の大会の話を聞いたときから。学校ではちゃんと気を張って明るくしていたつもりだったのに、ここに来て周りに知っている人がいないから油断した……?
いや……たぶんそれだけでは、ないのだろう。あたしはマスターの黒い瞳を真っ直ぐに見つめた。前と同じだ。この人は、お客さんとしてあたしのことを、よく見ているのだ。
「そうですね。元気……ないかもしれません。実は今度、高校の部活の、大会があって……」
ほとんど初対面のカフェのマスターにこんな話して、あたしはいったい、どうしたいんだろう。そう思う冷静な自分もいたけれど、一度開いた口はもう、ぽつぽつと胸の内を語っていた。
これまでずっとテニス一筋で生きてきたこと。三ヶ月前に右肩を怪我してしまったこと。テニスができなくなって、部活に行くこともなくなって、それでも大会の応援に行くべきかどうか迷っていること。
マスターはテーブルの横に立ったまま、静かに話を聞いてくれた。
「応援に……行かなきゃいけない気が、するんです」
話すうちにあたしはいつからか俯いていて、最後には弱々しく独り言のようにそうこぼした。
マスターは小さく「失礼」とカウンターの椅子を引き、浅く腰かけながら言う。
「今の話を聞いた限りだと、普通に応援に行けばいいと思うんですが、そういうことじゃなく?」
「……あたし、もうしばらく部に顔出してないから、あたしのこと知らない一年生もいっぱいいるし、知ってる人にだって、気遣わせちゃうかもしれない。大事な試合の日に空気悪くしたら迷惑かなって。それに……」
一度言葉が途切れたのは、後ろめたさが自制をかけたからだった。けれどもう、いまさら口を閉じることはできない。
「それに、純粋に心から応援できる自信、なくて」
あたしは動けないまま、食べかけのケーキを見つめ続ける。
「もちろん、みんなには頑張って勝ってほしいと思ってます。でもそれとは別に、嫉妬も、たぶんあって。みんなは今も当たり前にテニスができるのに、なんであたしだけできないんだろうって、考えたことがないわけじゃないから……実際に目の前で試合なんて見たら、そういう気持ち、抑えきれなくなっちゃうかもしれない。それが……すごく怖いんです」
「怖い、ですか」
そう、怖い。みんなの勝利を願う気持ちが、嫉妬に飲まれてしまうのが怖い。
こんな気持ちのまま、形だけその場に足を運んでも、本当に応援できるかどうかはわからない。そんなんじゃ、みんなのためにはならないと思う。だったらもういっそ、行かないほうがいいのかもしれない。ぐるぐる、ぐるぐる、そんなふうにただ考える。
「でもお客さんの中には、応援に行かなければ、という気持ちもある。だから悩んでいると」
マスターの穏やかな声が、あたしの吐露した本音を順番に掬い上げてくれる。
応援に、行かなきゃいけない。これも間違いなく、あたしの本音だ。嫉妬する気持ちと同じくらいに強い気持ち。
それは……どうして? 一緒の部活だったみんなを応援するのは当たり前のことだから? 怪我をして試合に出られないからって、応援すらできないような薄情な人間になりたくないから? ここで行かないのは逃げるみたいだから?
ううん、違う。きっとこの気持ちには、もっと別の理由がある気がする。
「んー……そういうことなら、僕は行ったほうがいいと思いますよ。難しいことは考えず、とりあえず行くべきかと」
「とりあえず……ですか」
「そ、とりあえずね。だってできることは、できるうちが花ですから。できなくなってからでは遅いんですよ。他人事で言っているつもりはありません。実際、僕なら行くと思いますし」
「マスターなら……」
あたしは半分惚けたみたいに、言われた言葉を繰り返していた。そして次の瞬間、ほとんど無意識に口が動く。
「じゃあ……マスターも一緒に、行ってくれますか?」
けれどそれは、なんと突拍子もない提案だったのだろう。マスターなら行く。そんな言葉だけの短絡的な繋がりがもたらした、どうしようもない飛躍思考。
「え、僕も一緒に?」
マスターは当然、驚いて目を丸くした。無理もないだろう。それでも、表情に出てしまった一瞬の動揺を隠すようにすぐ「はは」と笑う。
「いや、まさか、そうくるとは思いませんでした。あれですかね。『CAFE: TEAS 4u 出張サービス』みたいな」
「そう、それです。たぶん」
「出張サービスは、まだうちではやったことないんですよね。興味は少し、あるんですけど」
おそらくマスターは、あたしの言葉を冗談として受け取ったのだろう。たまたま始まった架空の話に、ちょっと付き合ってくれているだけ。そんな感じだ。
一方のあたしは、冗談か本気か自分でもわからないまま、先を尋ねる。
「もしやるとしたら……いくらですか?」
「そうですねー。んー……ま、お客さんは高校生みたいですから、学割とか、初回サービスとか、全部込み込みでとりあえず千円! なんてどうです?」
マスターはそう言うとまた、楽しそうに「はは」と笑った。
ちょうどそのとき、店の扉が開かれる。気づけばもう外は日が落ちていて、再び店に客足の集まる時間帯となっていた。
マスターは緩慢な動作で立ち上がると、訪れたお客さんの対応に戻っていく。
混み始める前にと思い、あたしは頃合いを見て会計に立った。レジの前で改めてマスターと向かい合い、請求金額が千円と出て……ふとあたしに魔が差したのは、開いた財布にちょうど二枚の千円札を見つけたからだ。一枚は、頼んだケーキセットの分。そして、もう一枚は――。
「あの、マスター。部活の試合、今月末の土日なんです。えっと、だから、その……土曜日の朝九時に、市営公園の駅で待ってます!」
言い終えるより早く、あたしはカルトンの上に二枚の千円札を置いて店を出た。
「え? あ、ちょっとお客さん!?」
後ろでマスターの呼び止める声が聞こえたが、あたしはそのまま振り返らずに走って帰った。
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