Menu 1 『Darjeeling First Flash』

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 五月の最後の土曜日は、朝からまぶしいくらいの快晴だった。  あたしは家の玄関から出て戻ってを三回くらい繰り返したあと、一歩一歩吊り橋を渡るような気持ちで怖々と駅に向かった。電車に乗り、市営公園の併設駅でホームに降りる。そのまま一つしかない出口をとぼとぼと過ぎようとすると、突然背中に声が降った。 「自分で呼んでおいて、無視はないんじゃないか」  咄嗟に振り向いたあたしは、目の前の人物に心底驚く。なんとそこには、白シャツと黒いジーンズに身を包んだマスターがいたのだ。 「え、あ、あれ……? ホントに来てくれたんですか?」  するとマスターは「はぁ」と大きな溜息をついた。 「そりゃ、あんなことされたら来るしかないだろ。あのままじゃ不正会計で、こっちが悪いことになるんだからさ」  不正会計……ああ、そっか。お金を余分に受け取るのも、お店側としては問題があるんだ。正直そこまで考えてなかった。というか……。 「あの、なんかマスター、喋り方違くないですか?」 「いや、だってここ店じゃないし。君にあんなことされて、俺は月に一度の休日をわざわざ今日にずらしたんだよ」 「あ……一人称も僕じゃないんだ」 「オフなんだから別にいいだろ。こっちが元の喋り方なんだ」  そういえば、あたしの呼び方もさっきは『お客さん』じゃなくて『君』だった。いつものマスターに垣間見えていたほどよい気怠さは、しかし今日は三割……いや、五割増といったところだ。心なしか髪の毛も少しボサッとしている。 「えー……それってちょっと、詐欺臭くないですかー」  思わずぽろっと出た感想に、瞬間、マスターの目がすーっと冷えた。 「……帰る。やっぱ土曜は稼ぎ時だから休めない」  目にも留まらぬ速さであたしの左手に千円札を握らせると、駅に向かってすたすた歩き出す。 「あー! 待ってください待ってください! ごめんなさいっ!」あたしは慌ててそれを追いかけた。「せっかく来てくれたんですから、一緒に行ってくださいよー!」  すぐさま腕を掴んで引き留め、両手で一本ずつマスターの指をこじ開けて千円札をぎゅうぎゅうこれでもかと押し付ける。いけない。詐欺臭いはさすがに失礼だし言いすぎた。仮にもこの人は、あたしの一方的な約束のために今日、ここまで足を運んでくれたのだ。  不格好にすがるあたしを見て呆れたのか、その口から「はぁ」と溜息がまた漏れた。「まあ、いいけどさ」  そのときふと、マスターの背負ったやけに大きなリュックサックに視線がいく。 「ところで、その荷物はなんですか?」 「何って、仕事道具だよ」  しわくちゃになった千円札を渋々ポケットにしまいつつ、当然のようにマスターは答えた。 「仕事、ですか? でも今日はオフって」 「オフだけど、一瞬だけ仕事するよ。だからあれか、そういう意味じゃ今日は、休日と営業日の中間みたいなもんかな」 「ん?」とあたしがクエスチョンマークを浮かべる間に、マスターはまた早足で、今度は市営公園の方に向かって歩き出してしまった。 「冗談みたいな出張費だけど、もらった分はちゃんと働いておかないとな」  結局それもよくわからない返答だったが、ひとまずあたしも遅れてマスターのあとを追った。  この市営公園には全部で十六面のテニスコートがある。これを男女で半分ずつ使い、今日一日で準々決勝までの団体戦を行う。そしてベスト4に残った高校だけが明日もここで試合をし、優勝を決めるのだ。インターハイに出場できるのは優勝した高校だけ。この一席を、五十以上の高校で争う。会場に近づくと、ある一角を示してマスターが言った。 「あそこにいるのが、君の高校の子たちじゃないか?」  つられて視線を向ける。その先には見慣れた――どころか少し前まで着慣れていたユニフォームの数人がいた。周りにいる部員はジャージで、マスターはきっと、その背中に書かれた高校名を見たのだろう。 「あ……そうですね。うちの高校です」 「見た感じ、試合はまだみたいだけど」 「たぶんうちはシードなので、一回戦目はありませんよ」 「へぇ、強い高校なんだ」  まあそれなりに、と心の中だけで答え、かわりにマスターの腕をとった。そのままみんなとは反対の方に向かって歩く。 「あっちで見ましょう」  少し離れた場所に、コートを遠目から俯瞰できる観戦席があったはずだ。なるべく気づかれないように試合を見るならそこがいい。  ボールの音、飛び交う声援、気迫溢れる試合の熱量。あたしは移動をしながら懐かしさを感じると同時に、そういうものから身を守るように口を動かした。 「高校テニスの団体戦は、ダブルス、シングルス2、シングルス1の三つの試合で勝敗を決めるんです」 「ほう」 「それぞれ別のコートで同時に始めて、二試合分の結果が出た時点で終わります」 「なるほど。それで団体戦か」  一人で来ていたらこうはいかない。マスターと一緒でよかったと早くも思う。  観戦席はそれなりに空いていた。基本的に生徒はコートのすぐそばで応援するので、離れた場所は人もまばらだ。 「ここでいいの? 確かに見やすいけど、さすがにちょっと遠くないか?」 「ここでいいです」  見る分にはいい場所だ。離れているかわりにコートが三面、よく見える。トーナメント表によると、うちの高校の属すブロックでは全ての試合をその三つのコートで行うらしい。ただ、叫んでも声は届かないだろう。それでいい。  じきにぱらぱらと一回戦が終わって、二回戦となる。うちの高校の試合も始まった。 「そういえば、マスターはテニスのルールって知ってますか?」 「んー。大学の授業でやったくらいだから、正直あまり」マスターはあたしと同じく前を向いたまま答える。「相手コートにボールを打って、相手が取れなかったらポイントってくらいかな」 「すごいざっくりですね」 「まあでも、基本はそうだろ? だから今、君の高校が優勢だってことはなんとなくわかるよ」  コートで行われている試合を見ながらマスターは言う。確かにあたしたちの高校は、開始からわりと危なげなく優勢を維持している。 「ポイントは、0から数え始めて、1点入るごとに15、30、40とカウントします。4点目をとったら1ゲーム取得なんですけど、40-40になった場合は、どちらかが二回連続で得点するまで続けるんです」 「ふーん」 「これを、サーブ権やコートを変えながら繰り返します。6ゲームを先取すると1セット。セットの中で5-5になった場合は、どちらかが2ゲーム連取して7ゲームになったら終了です」 「じゃあ6-6になったら?」 「そのときはタイブレーク、つまり延長戦ですね。0-0から始めて先に7点取ったほうが勝ちです。これも6-6になったら、2点差つくまでずっと続けます」 「ずっとって、本当にずっと? 終わりはないのか」 「はい、2点差つくまで終わりません」 「それは……かなりの体力勝負だな……」  マスターはあたしの説明を聞いただけでげっそりしていた。もちろん実力差があって早く終わる試合もあるけど、どうしても勝ちたい試合ほど長くなるのがこの競技だ。技術や戦略を始め、体力だけじゃなくて気力もいる。  あたしたちはそれからもたびたび会話を挟みながら観戦を続けた。  やがてうちの高校は、三回戦を勝ち上がる。勝負事に絶対はないものだけど、ここまでは堅いとあたしも思っていた。  喜びながら勝利を称えるうちの部員たち。その輪の中で、次の試合のことを考え始める選手。  でも、この観戦席にいるあたしには、コートの反対側で悔しさに涙を流す他校の部員たちの姿も見えた。考えてみれば、そんな光景をしっかりと見るのは初めてのことかもしれなかった。  上へいくほど、あたしたちだけじゃなく、誰もが本気だ。本気で負けたときの悔しさは、他のなにものにも喩えられない。一方が勝てば一方が負ける。それはとても当たり前のことのはずなのに、誰もが本気だというもう一つの当たり前とどうしても噛み合わない。最後に笑うのは一校だけ。今日に限った話でも、笑って帰路に着くのはベスト4に残る四校だけだ。  準々決勝、次がうちにとっての正念場。ここでの勝利がみんなの悲願。  肌を灼くような暑さと陽光の下、ついにその試合が始まった。  相手は文句なしの優勝候補。地区で一位二位を争う私立校だ。とはいえ、同じ高校生で同じ三年生。同じく強豪と呼ばれる場所に身を置く者同士、それほど実力に開きはない。  序盤は誰の目から見ても拮抗した試合運びだった。ポイントを、取っては取られのシーソーゲーム。互いに一瞬の油断も許されない、緊張感にひりつく展開。  あるとき、相手のきわどいショットが風の影響でアウトになり、うちの得点になるという幸運があった。けれどそういったことは当然、相手にだって訪れうるもの。小さな幸運と不運の連鎖が、次第に拮抗を崩していく。  遠目から冷静に見ているとよくわかる。やはり相手は一枚上手だ。うちの選手が予想外の展開にいくらか浮き足立つ一方で、相手は不測の事態に動じることなく、一時的な劣勢にもほとんどペースを乱さない。長期戦の見込まれる試合では自分のペースを見失わないことがとても重要だ。そういう意味で相手は試合に――もっと言えば、勝つことに慣れている。気紛れな天秤の傾きによって生じる不運を落ち着いて取り戻し、幸運のほうだけを着実に積み上げていく。  うちの選手には、焦りの挙動が見え始めていた。気持ちは痛いほどわかる。じりじりと差が開いていくスコア。それは、自分の伸ばした手から勝ちがゆっくりと離れていく感覚そのものだ。食らいつけると思っていた相手に、想像以上の高い壁を見る瞬間……。  あたしは思わず立ち上がっていた。  相手のショットが自陣のコートを割るたびに、身を切られるような痛みさえ感じる。両手を胸の前で握り、息をするのも忘れてボールを目で追う。  嫉妬が抑えきれないかも。心から応援できないかも。ここに来る前のあたしは、そう思っていたはずだった。もちろん嫉妬がないとは言えない。今、あのコートに立っているのがあたしだったら。そう思わずにはいられない。  でも、それだけじゃない。それだけじゃないんだ。頑張れって、あたしの心が叫んでいる。  ――頑張れ。みんな頑張れ。頑張れ……頑張れ!  そう思えているのが嬉しくて、でも嬉しいからこそ悔しくて……嬉しくて悔しくて嬉しくて悔しくて……お願い、負けないで。今日は、みんなに、勝ってほしい。  あたしは祈るように試合を見ていた。  そのときだ。正面のコート、シングルス1の試合。  隣のマスターも、コートの周囲で応援する両校の部員たちも、きっとその瞬間を見ただろう。  体力も厳しくなってくる試合中盤。ゲームカウント3-4でこちらが負けていて、けれどあと1ポイント取れば同点に並ぶ。そうすればもう一度、勝利への道筋が見える。  そんな場面で。  こちらの打ったボールがネット上端に当たってガッと跳ねた。相手選手が崩れた体勢で振り下ろした強打に、半ば見切り発進で飛び込んで返したボールだった。  両者、もはや拾いに走る余裕はない。選手も観戦者も、見ていることしかできないこの状況で、ぴったり真上に跳ね上がったボールが自陣か敵陣、どちらのコートに落ちるかなど、まさしく神様の振るサイコロのようなものだ。  そしてそのボールは、注目の中、実際よりも何十倍も長い体感時間を経て……。  こちら側のコートに落ちた。  こんなのテニスでは比較的よくある光景だ。けどそれが、まるで示し合わせたように今――。  例えばこれが練習試合なら、あるいは別の試合なら、一つ前のラリーなら「そういうこともある」と言えたかもしれない。でも今は、今だけは――反撃に繋がる千載一遇のタイミングだったのに!  相手選手の顔には、いくらか安堵が浮かんでいた。  およそ返せる見込みのない強打に食らいつき、運の力も借りて得点。もしそうであったなら、十分に逆転の足がかりになっただろう。それでも。  奇跡はそう簡単に起こったりはしない。コートを囲んで応援しているうちの部員の表情には、隠しきれない陰りが生まれた。もう届かないと、誰もが思ったに違いなかった。  そんな中、起き上ったうちの選手は、しかし――笑っていた。悔しさと闘志を奥歯で噛み締め、それでも必死に、笑っていたのだ。  そのときあたしの心臓が、強く高く、鳴る。同時に口を開いていた。 「ねえ、試合って」 「ん?」  小さな呟きにも似たあたしの言葉に、マスターはしっかりと返事をくれる。 「スポーツの試合って、いつ何が起こるかわからないから、面白いんですよね。めちゃめちゃ余裕でも、突然足元掬われたりすることなんて、ザラにあります。逆に、誰が見たって絶望的で勝ち目なくても、一発逆転することだって」 「まあ、そうだな」 「だから……だからあたしは思うんです。いつ何が起こるかわからない。それを面白いって言うんなら、自分にとって不利な展開になったときこそ『面白くなってきた!』って、笑えるようじゃなきゃいけないなって」  そしてこれは、きっとスポーツだけじゃない。 「人生も、たぶん、おんなじなんですよね」  ずっと膝に頬杖をついて前を向いていたマスターが、ふとこちらを見上げていた。曲がっていた背中を伸ばし、少し唖然とした表情で、目を丸くして。 「あ! たかが十八歳の小娘が何を、とか思ってますか?」 「ああ、いや……そんなことないよ。いい言葉だと思ってさ。何、もしかしてそれ、有名な人の言葉か何か?」 「え、違いますよー。あたしが今、考えました」  あたしはにひ、と冗談混じりに軽く微笑んでみせる。  するとマスターはちょっとだけ固まっていたが、やがて同じように笑ってくれた。  そう、こうやって、笑うのだ。きっとあたしの怪我も『いつ何が起こるかわからない』うちの一つなんだから。  試合はそれから目立つ展開もなく終わり、うちは準々決勝で敗れた。遠くで選手たちが試合後の挨拶を終え、応援していた部員たちのところへ戻る。軽く頭を下げながら力なく笑って。  笑って、それから……。  視界がふにゃ、と揺れて滲む。 「あれ……?」  驚いて首を動かすと、目元からつーっと雫が落ちた。座ったままのマスターが下から差し出してくれたハンカチを見て、あたしは自分が、泣いているのだと自覚した。 「あ、あれ、どうしてあたし……だって今、笑おうと、思ったのに……」 「どうしてって、向こうでもみんな泣いてるよ。当たり前なんじゃないか。必死でこれまで頑張ってきて、そんで負けたんならさ」  さっきまで笑っていた選手たちは、今はもう、部員たちと一緒になってみんなで泣いていた。  笑って、戦い、敗れ……戻ってみんなに笑いかけ、けれど有り余る悔しさに耐えかねて涙を流す。それはわかる。でも……じゃあ、あたしは?  あたしは今、あの輪の中にはいない。あのコートには立ってない。今日まで必死に頑張ってきたみんなより先に、あの場所を離れてしまったから。 「どうして、あたしまで……」 「それは、君も一緒に戦ったから、だと思うよ」  胸を、優しく打たれたような気がした。マスターの言葉があたしの瞼の裏を急速に焼いた。  そうか。あたしも……戦っていたんだ。苦しかった練習の記憶。楽しかった競い合う記憶。それらを抱えて、あたしも一緒に戦っていたんだ。  この場所で。  そう思うと、涙も声も、もう止まらなかった。あたしは差し出されたままのハンカチで顔を覆い、脱力して座ると同時に思いきり泣いた。身体の中から溢れ出てくる何もかもを、抑えることなくただただ泣いた。  その間、マスターは黙ってそばに座っていてくれた。  やがて、視界からわずかに涙が引いた頃になって、目の前に白い紙コップが現れる。注がれた飲み物は淡いオレンジ色で、立ち昇る湯気に混じって花のような香りがする。気づけばいつの間にか、周りには携帯コンロややかん、茶こしにガラスのティーポットが。 「こ、こんなの」ぐず、とあたしは涙に濡れたままの声で言った。「こんなの、どこから出てきたんですか」 「そりゃリュックからだよ。仕事道具、持ってきたって言ったろ」 「もしかして、それってわざわざ、このために……?」 「ああ。これが君からもらった出張費分の、俺の仕事だ」  あたしは言葉もないほど驚きながら、でもなぜか、このマスターから紅茶が出てくるのは、とても自然なことのようにも思えていた。 「カフェの店主の鑑……ですね」  差し出された紙コップを両手で受け取る。そのまま一口含んだ瞬間、春の草原を駆け抜けるような爽やかさが身体中を満たした。  頬を撫でる風が、ゆっくりと涙を乾かしていく。あたしはしばらく無言で紅茶を啜り、空になったコップを返して……そのときふと目についたティーポットを見て、ぽつりと呟いた。 「あたしって……この紅茶の葉、みたいです」 「え?」マスターは一瞬、何を言われたのかわからないような表情になる。「これ、結構高くて、いい茶葉なんだけど……もしかして自画自賛?」 「違いますよ。この、お茶をいれちゃったあとの、出がらしみたいだなってことです」  言いながら、そばのティーポットをそっと手に取る。ポットの中には、既に湯で抽出されたあとの茶葉が壁面に付いて固まっていた。 「今のあたしは、これまでの人生を全部懸けてきたテニスができなくなって、最後の試合もこうして終わっちゃって……おいしいとこのなくなった、抜け殻みたいだなってことです」 「はは、なるほど。そういう意味か」 「え、ひどいマスター。今の笑うとこですか?」 「いや、悪い。もちろん君は知らずに言ってるんだろうけど……でも、とても素晴らしい、ぴったりな喩えだと思ったから」  ぴったりって、そりゃ自分で言い出したことだけど……こうも手放しで頷かれるとさすがに複雑な気分になる。  顔をしかめるあたしの隣で、しかしマスターは、なんとそのポットに再び湯を注ぎ始めた。 「ち、ちょっと、何してるんですか」  紅茶は普通、一回きりの飲み物だ。例えば緑茶のように、二回三回といれるのはマナー違反。それくらいのこと、紅茶に詳しくないあたしでもさすがに知っている。  なのにマスターはあたしの制止に耳を傾けることなく、ついにその紅茶を紙コップに注いで差し出してきた。愉快そうに、顎でくいっと……どうやら飲めということらしい。  あたしは眉を潜めたままそれを受け取って口に運ぶ。すると――。 「えっ!? おいしい……」  きっと、ただのお湯に色が付いただけの、なんとも言えない味がするのだろう。てっきりそう思っていたのに、意表を突かれたように目を見開く。  マスターは自分のコップにも同じものを注ぎながら、少し意地の悪い笑みを浮かべていた。 「君は、自分をこの茶葉のようだと言ったけど……いやいや、うん、とてもいい味のする茶葉じゃないか」 「なんで、ですか……? だってこれ、二回目の……」  尋ねると、茶葉を保管する金色の缶が、あたしの前にコトッと置かれた。 「メニューの紹介がまだだったな。これはダージリン、中でも今年の春に収穫されたファーストフラッシュという紅茶だ。水色は明るく淡いオレンジ色で、瑞々しく爽やかな味わいと、花のような甘味を持つ。加えて質のいいものなら、紅茶には珍しく何煎か楽しめる銘柄だ。一煎目は紅茶らしいパンチの効いた風味がある一方、二煎目からは角のとれた柔らかな風味が出る」  とても楽しそうな口調の、滑らかな説明。口の端を引き上げたニヤニヤ顔は、だんだんと穏やかな、優しいいつもの笑みに変わっていく。  その瞳が、あたしを見つめる。 「君が人生を試合に喩えるなら、俺は紅茶に喩えてみる。怪我をしても、負けてしまっても、それで終わりなんてことはないよ。この紅茶のように、一回きりじゃ終わらない。もしいっとき、出口の見えない暗闇に迷ったとしても、前を向いて正しい努力を続ける限り、必ず光は差すはずだから。君はこれから二回でも三回でも、何回でも、きっとあのコートに立てると思う」  いやに真剣に言ったあと、マスターは自分のコップをくっと傾けた。「うん。うまいな」なんて軽い独り言を漏らしつつ、てきぱきと広げた道具を片付けていく。  両手でコップを持って呆けるあたしの目の奥が、またじわりと、熱くなった。 「もう! マスターってば! なんてこと言うんですか!」 「うおっ!」半ば押し付けるように返したコップを受け取り、マスターは驚く。 「涙、やっと落ち着いてきてたのに、また……また、出てきちゃったじゃないですか!」  ぐしゅぐしゅに濡れたハンカチはもうしまわれてしまった。あたしは両手で目を覆って、けれど拭っても拭っても、全然止まる気配がない。はらはら、はらはらと絶えず雫が落ちてくる。 「はは、悪い悪い。でも、元気は出ただろ」 「出たかもしれないですけど!」  するとマスターはまた口元を綻ばせた。 「んじゃ、せっかくここまで来たんだし、みんなのとこにも顔出してきたらいいんじゃないか」 「こんな顔じゃあ行けませんよぉ」 「いや、今日はその顔でいいだろ。ほら」  マスターの示した視線の先で、部員のみんなは先生と試合後のミーティングをしながら、それでもやはり、泣いていた。  その光景を見て、あたしは思った。ああ、自分は今、みんなと同じ顔をしているのだ。みんなまだ泣いていて、あたしもまだ泣いている。きっと今の自分は、みんなと同じ気持ちで、同じ涙を流しているのだと。  思って――あたしは立ち上がる。  マスターは座ったまま、そんなあたしを見て満足そうな表情を浮かべた。 「じゃあ俺はもう、今日は帰るよ。よかったら、店のほうにもまたどうぞ」 「……はい」あたしは、ぐす、と鼻をすする。  それからマスターに向かって腰から思いきり頭を下げ、すぐに観戦席を出て走った。遠くに見えるみんなのところへ、泣いたままで向かっていった。  やがてあたしに気づいた部員たちは、この泣き顔を見て、全てを理解してくれたのだろう。  ――試合、見てたよ。  ――うん、負けちゃってごめんね。  ――そんなことないよ。みんな頑張ったよ。  ――ありがとう。来てくれてありがとう。  互いに走り寄って言葉もなく、あたしたちは抱き合った。そしてまた一緒に大声で泣いた。  あたし、今日ここに、応援に、来てよかった。みんなの試合を見ることができて、本当によかった。  怪我をしてからの三ヶ月、あたしの中の時計の針は、ずっと止まったままだった。  でも、この瞬間から、あたしの時間はもう一度動き出した。  そして、高校生としてあのコートに立って過ごした時間を、ここでみんなと一緒に終えた。  また新しいあたしを始めるために――そのために今日、あたしはここへ来たのだった。  涙に濡れた視界が、これまで生きてきた人生のどの瞬間よりクリアに見える。ともに走り続けた仲間と、追い続けてきた黄色いボール。太陽に輝くラケットに、あたしの戻るべきコート。  一瞬、一瞬、駆け足で過ぎていく今がまぶしく胸に刻まれていく、その中で……。  一人では抱えきれないこの悔しさと喜びに満ちた今日という日を、あたしはきっと、死ぬまで忘れないだろう。
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