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Menu 2 『Uva』
私がこのカフェに来るようになって、もう二年ほどが経っただろうか。いくつかのバイトを掛け持ちしている私は、その合間や前後にここを訪れる。特に、金曜の夕方から都心のバーで夜通し働いたあと、帰宅ついでの土曜の早朝からここで紅茶を飲むのが至福の時間だった。
そんなお気に入りのカフェに、近頃、変化があった。
「もうマスターってば。あたしのことは名前で呼んでくださいって言ってるじゃないですかー」
「え、だから呼んでるだろ。菜乃花さんって」
「さん付いてるじゃないですか!」
今までマスターさんが一人で切り盛りしていたところに、突然バイト志望の女子高生がやってきたのだ。そのとき、ちょうど私もその場に居合わせたのだが、バイトの申し込みと同時にマスターさんに公開告白をするという彼女の体当たり具合には、かなり驚かされたものだった。
「なんだよ。付いてないほうがいいのか?」
「当たり前じゃないですかー」
「当たり前なのか……最近の女子高生ってわからんもんだな」
「呼び捨てで呼ばれたいんですよ。マスターのかっこいい声で、菜乃花って!」
「はぁ……? まあ、そのほうが呼びやすいし、そっちがいいならいいけどさ」
そんな彼女がバイトに来始めて、はや半月。徐々に仕事にも慣れてきた様子だったが、最初のうちは騒がしい光景を何度か目にした。
皿洗いでケーキプレートを盛大に割ったり。
茶葉を保管する缶を頭上の棚に並べようとして、ドミノ倒しで一つ残らず落下させたり。
レジを打ち間違えて、店の端から端までありそうな極長レシートを生み出したり。しかもそのレシートは私の会計のときのもので、お釣りが五十万円になっていたりもした。はたして私は何を注文していくら払ったのか。
毎度、怒ったり呆れたり笑ったりしながらうなだれるマスターさんの表情で写真集が一冊作れそうだな、なんてことを私は密かに思っていたほどだ。
けれども、彼女は失敗にめげることなくいつも一生懸命だった。それどころか、叱られながらもどこか嬉しそうにしているあたり、マスターさんを慕ってバイトに来たと言うだけはある。
そして今日も今日とて彼女はバイトに邁進中。意中のマスターさんにも猪突猛進真っ最中だ。
「ねぇねぇマスター。マスターって、なんて名前なんですか?」
「なんだよいきなり。別になんでもいいだろ」
尋ねる彼女の横で、マスターさんは私の注文したメニューを用意してくれている。その真剣な顔は目の前の紅茶に向けられているため、彼女の話は流し聞きだ。
「雇用主の名前くらい知っておきたいじゃないですか。隣の家見ても、表札とか出てないし」
「勝手に見るなよ、そんなの」
「えー、だって」
「それより菜乃花。いいから早く皿洗ってくれ。お前さっきからスポンジでシュコシュコ泡立ててるだけじゃないか」
「ちぇー、わかりましたよー」
彼女は頬を膨らませながら、それでもやはりどこか嬉しそうに洗い物に取りかかる。身に纏うは白いシャツブラウスに黒のスカート。そこにマスターさんとお揃いのミドルエプロンをつけ、首にはアクセントとして淡い黄色のスカーフを一巻き。彼女が鼻歌で奏でる何かの曲に合わせて、そのスカーフがひょこひょこ揺れる。
現在、午前七時二十分。このカフェはいつも七時オープンで、今日は土曜だから、この時間から彼女がバイトに出てきているのだろう。
少ししてマスターさんが、カウンターの向こう側から出来上がった紅茶をサーブしてくれる。
「お待たせしました。こちらニルギリです」
「ありがとうございます」
「すみませんね、うるさくて」
「いえ、全然」
実際、うるさいというよりは賑やかという印象だった。そして私は、彼女のその賑やかさとまっすぐでまっさらな性格を、わりと気に入っているのだった。
だからメニューを受け取ったついでに、マスターさんにこう尋ねる。
「そういえば私、結構長いことこの店に来てますけど、マスターさんの名前知らないですよね?」
もちろん、さきほどの二人の会話を聞いたうえでの質問だ。
マスターさんもそれを理解してか、ちょっと苦笑いで答える。
「……お客さんがうちのバイトに優しくて助かりますよ」
「いえいえ。でも、知りたいのも本当ですよ」
「まあ別に、珍しい名前でもないですが。僕は黒川杏介と申します」
その瞬間、私が彼女のほうを見やるとばっちり目が合った。彼女がにひっと嬉しそうに笑顔を向けてくるので、私は口元だけでくすっと返す。
「ちなみに、お客さんのお名前は?」
尋ねるマスターさんに視線を戻し、こちらもしっかり自己紹介。
「私は、野並葵といいます」
「では、野並さん。今後も当店をぜひ、ご贔屓に」
私が紅茶を飲み終える間にバイトの彼女は早くもマスターさんの呼び方を改めたようだった。
「杏介さん。あたしあとで、自分で紅茶いれてみていいですか? 練習したいです」
「ああ、そりゃまあ」
「やたっ!」彼女は跳ねるように喜ぶと、その足で格子棚の前に移動する。「じゃあ、ここから好きなティーカップ選んでいいですか?」
「お前、実はそっちが目的だろ」
「にひひ! だってここのカップすっごく綺麗なんですもん! 使ってみたくなるんですよー」
おそらく彼女がこんなことを言い出したのは、さきほど私の使い終えたカップを片付けたからだろう。今日のはトルコ食器のように透き通る青色をしたカップだった。
彼女の気持ちは、よくわかる。この店のカップはどれも一点ものらしく、とても綺麗だ。そして綺麗なものにはやはり、手を伸ばして触れてみたくなるものだろう。
「杏介さん! あたし、あのカップがいいです! あの銀の花柄の!」
狙いを定めたらしき彼女が、棚の最も左上に並べられたカップを指差す。それは白磁に銀一色で花柄の装飾を入れた、シンプルと華やかさの両取りをしたようなカップだ。
すると、マスターさんが咄嗟に口を開いて言葉をつまらせる。
「あ……いや、それは駄目だ」
「えー、なんでですか」
「それは、お客さんの私物なんだ。よく来てくれる人の物をうちに置かせてもらってるだけで」
へぇ、なるほど。そういうシステムもやっているのか。いわゆるボトルキープみたいな……この場合はティーカップキープか。確かに、今彼女が示したカップは、何度かここへ来ている私も出されたことがない気がする。
そういう理由では仕方がないと、彼女は諦めて次の候補を探し始めた。
その間に私は、荷物を持って席を立つ。
「ほら菜乃花。そろそろ野並さん、お帰りみたいだぞ。レジ頼む。練習はあとで見てやるから」
マスターさんの声に、棚を見上げていた彼女は「はーい」と答えてレジまで駆け寄ってくる。私の向かいに立つと、にっと人懐こい笑みを浮かべた。
「あ、野並さん。さっきはありがとうございました」
「ん?」と考えながら財布からお金を取り出して。「ああ、マスターさんの名前のこと?」
「はい。杏介さんって、あたしが何訊いても、絶対一回はああやってはぐらかすんですよ。それが野並さんみたいに綺麗な人に聞かれたら、すーぐ教えるんだもんなぁ」
綺麗、か。そう言われるのはとても嬉しいけど。いや、でもあれは。
「あれは、私がお客だからだよ」
「そうですかねー」
チン、とレジが開いてお釣りとレシートを渡される。どうやら今日は普通の長さだ。
「大丈夫。こっちからはすごく仲良しに見えてたから」
「そう、ですかねー」
彼女は首を傾げながらも、レジから出てきて入口まで見送ってくれる。ありがとうございました、とまだ初々しさの残るそのお辞儀を背に、私は店をあとにした。
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