ジャック

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ジャック

「ああ、これは失礼致しました」  男がメニューに書かれた見慣れない文字を右手でなぞり始めた。すると不思議なことに文字が僕のわかる言葉に変化していく。 「傲慢、強欲、嫉妬、憤怒、色欲、暴食、怠惰」  怪しげな男が読み上げた言葉の意味を僕は理解したが、どんな料理なのかまるで想像がつかなかった。 「お望みでしたらすべてのメニューの品をお持ちしますよ。なんにしても、口にしてみないことにはわかりませんからね」  僕にはまるで考えが浮かばなかった。ただただ空腹を満たしたい。同じものを注文することにした。  だがどれだけ食べても一向に空腹は満たされない。ただ食べるほどに女の声が弱弱しく、か細くなっていき、やがて何も聞こえなくなった。 「どうして……どうしてこうなる。なぜ空腹が満たされない。なぜ女の声が聞こえたりする。お前は誰なんだ。僕を馬鹿にしているのか。僕は怒っている。食べるのも面倒だし、考えるのも面倒なのに、なぜ満たされない。もうどうでもいい」  席を立とうとするが、身体が動かない。僕のおなかはパンパンに膨れ上がっている。あまりの重たさに身体が動かない。 「おやおや、困りましたね。もう終わりですか。他のメニューもぜひ堪能していただきたかったのですが、残念ですね」  一瞬怒りがこみ上げるが、その感情を別の勘定、何もしたくない、どうでもいいという怠惰な気分が身体を支配する。そうかこれは現実ではない。そして何が起きているのかについて、答えを見出せそうになったところで怪しげな男が立ち上がった。 「申し遅れました。私の名はジャックといいます。私がつけた名ではありません。ああ、それはみなさん、そうでいらっしゃる。私のジャックという名はいわゆる通り名でございまして、本当の名を明かすことは控えさせていただいております」  流暢な日本語を話すからといって、日本人であるとは限らないし、名前がジャックだからといって、外国人であるとは限らない。ジャック、この怪しげな男はジャックというのか。  するとジャックは急に身体をダンサーのように右に一回転させて、両手を大きく広げて大声で叫んだ。 「はーい! ジャックだよ! あなたの夢はこのジャックが乗っ取らせていただいた。悪いがこの先、私の指示に従ってもらう。逆らうことは許されない。Do you understand what I mean? 」  怪しげな男の手にはいつの間にか黒く光るものが握られている。銃を見たのは初めてだ。僕は両手を挙げて降参をした。 「結構、長生きをしたければ、私の指示に逆らわないこと。ここは今から私の夢の世界だ。逆らったら恐ろしい現実の世界に逆戻りだぜ。ベイビー」 「なんでも言うことを聞くから、どうかこの空腹を満たしてください。お願いします」  ジャックはご機嫌だ。僕の夢を乗っ取り心を操り、これから好き勝手なことをするのだろう。あの7つのメニューすべてを実行し、僕はどこまでも落ちていく。情けない。  僕は手を合わせ、何者かに祈りをささげた。僕はもう堕ちるだけです。 「お赦しください」  ジャックが突然暴れ狂い、テーブルを激しく叩きながら僕をにらみつけた。 「Hey Brother ! 祈りなぞ無駄だぜ、誰も救ってくれない。誰も許してなんかくれない。Do you understand ?」  それでも僕は祈り、赦しを請うた。 「やめろ!」  僕はやめなかった。 「もう手遅れだ。お前が何を食ったのかを見せてやる!」  ジャックは僕を突き倒した。椅子にかけたまま、僕は後ろにひっくり返り、そして激しい痛みが背中を襲う。辺りは急に真っ暗になった。公園、ベンチが見える。僕はベンチから転がり落ち、目が覚めたようだ。ふと手に何かべとべとした生暖かいものが着いている気がつく。血だ。真っ赤な血だ。僕のすぐ横に女性が倒れているのが見えた。その身体には見覚えのあるナイフとフォークが突き刺せてある。  「嘘だ。そんなはずない」 「これが現実ですよ。あなたにはもう逃げ場は無い。さあ、夢の中にもどりなさい」 「嫌だ」 「あなたの夢は私のものだ」 「そんな契約していない。知っているぞ。契約なしに、お前は何もできない。これはまやかしだ」 「なぜそういい切れる」 「なぜなら僕は、まだお腹が空いている。何も食べちゃいない。だから誰も殺してなんか居ない」  怪しげな男の細い目が大きく開いた。その瞳は人のそれではなかった。 「これは驚いた。せっかくいい寝どころを見つけたと思ったのですがね。そのベンチはあなたに譲りましょう。では私はこれにて失礼」  怪しげな男から怪しげな気配が消えた。男の鼻は小さくなり、肌の色も血色がいい。男はそのまま去っていった。あれは何だったのだろう。あの中年の男に取り付いた何かが、僕に乗り換えようとしていたのだろうか。  空腹でお腹が鳴る。 「嗚呼、僕は生きているんだ」  安心したら急に眠気が襲っていた。僕はベンチに横になり、家族の顔を思い浮かべた。 「おやすみなさい。明日帰るよ」  夢を乗っ取られずに済んだ安堵感から、僕はすぐ眠りに着き家族に詫びる夢を見た。  ふと人の気配がしたが、もう起きる気力は僕には残されていない。このままずっと眠っていたい。あれほど空腹に悩まされていたのに……、今は何も感じない。 「嗚呼、ひもじいとは、生きているってことなんだ」 おわり
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