ジレンマ

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ジレンマ

 勝手な物言いだと思いながらも、この男の口調は退屈な音楽か大学の講義のように無機質で穏やかで、警戒心や興味を薄れさせる。道端に咲いている雑草や路地にずっと放置された自転車のように空虚で無益で、無表情だ。  僕はしかたなく、沈黙した。拒むことも受け入れることもせずに、ただ無関心でいることでその場をやり過ごそうとした。 「人にはそれぞれ、したいこと、したくないこと、無関心なことがございます。かく言う私にもそれはございます。その点で言えば、私はあなたには無関心であり、しかしこうしてこの場所であなたを見つけたからにはお話したいことがあり、話すからには無駄にはしたくない。そこに遠慮やジレンマのようなものは一切ございません」  この怪しげな男が何を言いたいのかまるでわからないし、知りたいとも思わなかったが『ジレンマ』という言葉が、妙に引っかかった。 「ジレンマ――そう、相反する二つの事柄に板ばさみになるというそれです。あなたにもそういう経験がございましょう。ジレンマを抱えていない人間などこの世のどこにもございません。いや、居るのかもしれませんが、私の知る限りにおいては、皆それぞれに大小さまざまなジレンマを抱えていらっしゃる。そうは思いませんか?」  名乗りもせずにしゃべり続けるこの男の目に、僕はどう写って見えるのだろうか。ジレンマを抱えて一人公園のベンチで悶々としている若者――そう、少なくともこの怪しげの男より僕は若い。  だからといって、男の話を聞いてやる筋合いも無いが、無碍に話を止める気にもなれないし、まして自分がこの場から立ち去さるのも違う。ベンチに腰掛けて目の前に小石が落ちていたとして、それを気にも留めないのと同じで、僕にはこの男が無害であるのならば、わざわざ排除する必要もなければ、こちらが別のベンチに移る必要もない――無関心で無礼な若者と思われたとして、それは損でも得でもない。だから質問に答える必要も無い。僕は無視を決め込んだ。 「たとえばダイエット。おいしいものをたくさん食べたいけれども、それをしてしまうと痩せられない。せめてその分運動をすばいいが、そんな面倒なことはしたくないし、運動したらまた食欲がわいてしまうかもしれない。人はやるかやらないかを迷い、先送りにしつつも、わずかながらの欲望を満たしていきながら歳をとり、老いてなお、あの時、もっとああしておけばよかったと後悔しつつも、いまさら悔い改めるなどということもしたくない。実に怠惰で強欲、それでいて少しでもモテたいから痩せたいし、それができている他人を妬みつつ、それでも毎日食べずには気が済まず、痩せられないことを誰かのせいにして怒ったあげく、自らを正当化する傲慢さを持つ。私もその一人ではあるわけなのですが、本当に人というのは、罪深い」  聞いた事のある話だと思った。ただそれ以上のことを考えようとしても空腹感が邪魔をする。いっそこのまま寝てしまいたいと思ったが、さすがにそれは失礼すぎるし、無用心だし、そもそも空腹で眠れない。 「問題は解決できるに越したことはありません。しかし、最適解というのは、強い精神と忍耐を要することが多い。誰もが聖人君子のようになれるわけではない。私もなれない側の人間ではないわけですが、さて、あなたの抱えてらっしゃる直近の悩みは、放っておけば時間が解決してくれるようなものかもしれません。そう夜明けまで待てば否応なしにね。しかし、それでも少しでも早く解決できるのなら、それに越したことはないとは思いませんか」  言っている意味はわかるが、なぜそんなことをこの怪しげな男が僕に提案してくるのかまるでわからない。わからないというよりは、不気味だ。 「あなたが僕の何を知っているのかは存じ上げませんが、どうか僕のことは放って置いてください。見ず知らずの人に施しを受けることを、僕は望んではいないのです」 「わかっていますよ。だからこそ、今、あなたは苦境に立たされている。空腹と睡眠。寝てしまえば空腹に耐える苦しみから逃れられるのに、空腹がそれを邪魔する。そうではないですか」  普通なら腹を立てるか、或いはそこまで言うのならば、この空腹をあなたの財布で満たしていただけませんかと頭を下げるところだが、僕にはそのどちらもできなかった。できない僕だからこそ、そのジレンマの中でもがいているのだろう。 「不愉快です。どうかお引取りを」 「これは失礼いたしました。あなたのプライドを傷つけるつもりなど毛頭ございません。私がご提案したいのは、空腹に邪魔されることなく眠れるようにしてさしあげようというお話です。無論、何か対価をいただくわけではございませんし、あなたが眠ったところを襲おうだとか、身包みを剥がそうなどという野蛮なことをするつもりもございません。それに、それは不可能なのです。私には」
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