おやすみ

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おやすみ

「どうぞお好きなように」  おかしなことをいう奴だと思いながら、しかし、怪しげな男の言葉に身を委ねたいという誘惑と早くこの珍妙な状況から逃れたいという気持ち、それにどうにでもなれという投げやりな気分が重なり、つい声に出てしまった。 「結構、では一言、私に向かっていってください。簡単な一言、だれでも毎日使うだろう一言です」  怪しげな男の口調が少しばかり高揚しているように感じたが、何か一言、この怪しげな男に言って済むのなら、それでいいと僕は思ってしまった。 「では、私に向かって、一言『おやすみなさい』と言って下さい。ただそれだけです。毎日の挨拶と同じです。誰でも一日一回、言うだろう一言です。誰に言うのかが違うだけです。私に向かって言って下されば、それですべて丸く収まります」  怪しげな男の細い目が、笑っている。何をそんなに喜んでいるのか僕にはわからない。男の大きな鼻がひくひくと動いているように見える。獣が何かの匂いをかぎ分けようとしているのに似ている。男の口元が異様に釣りあがっている。それはまるで……。 「さぁ、どうか一言、私に向かっておっしゃってください。さぁ」 「おやすみ、なさい。これでい……」 『これでいいですか』と言い終えることはできなかった。 『おやすみなさい』と言った瞬間、僕はベンチから転がり落ちた。いや、落ちてはいない。地面にぶつかってはいない。身体が急に重くなり、突然何倍もの重力に引っ張られるかのようにベンチにへばりついた。意識が落ちていく。失われるのでもなく、消えていくのでもなく、ただ下へ、下へと落ちていく。 「おやすみ、よい夢を、ともに見ましょう」  怪しげな男の声が聞こえた。僕の意識はずっとずっと落ち続け、そして闇に溶け込んだ。
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