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公園にて男と出会う
こういう経験は初めてではないが、この先も当てが無いというのはさすがになかったことだ。
公園で寝泊りするのは好きではないが、真冬でも真夏でも梅雨でもなく、9月の中旬であったのはせめてもの救いだ。
諦めてしまえばなんとかなる。
そうできないのは、まだなんとかなるかもしれないという甘えなのかもしれない。
それでも家に帰る気にはなれない。
今夜一晩、ここで過ごして、朝目が覚めたとき、いよいよあきらめるしかないとなるのならそれもいい。
だが、今は静かなこの夜に、何も考えずに、何も決めずに眠りたい。
だが、この空腹だけはどうにもならない。
せめて夢の中でたらふく食べられたら……、いや、夢を見るためには寝ないといけない。
だがこの空腹のままでは眠れない。
情けないジレンマが膨張していく。
本来向かい合うべき相反する思いを忘れさせてくれるなら、そのまま放っておくほうがいいように思えて仕方がない。
本当に、仕方がない。
やりたいことをやろうとしてもその機会を与えても貰えない。やりたくないこと、居たくない場所にいれば、衣食住すべて満たされる。
本来ジレンマにさえならないような選択を僕はずっと避けてきた。
しかし今は空腹で眠れないことのほうが、何より重要な問題だ。
こんなに月明かりのきれいな心地のよい夜に、僕は眠れないでいる。
「はーい、こんばんは、どうやらお困りのようですね」
突然話しかけられたことに驚きはしたものの、何よりその声の主が近づいてくるのにまるで気づかなかった自分自身に驚かされた。
人の気配も感じられないくらい、僕はこのささやかなジレンマに支配されていたのだろうか。
人気の無い広い公園、町の雑踏からも隔離された閑静なロケーションにあって、足音も立てずに近づいてきたこの男に警戒心を持たないはずも無い。
「決して怪しいものではございません。物取りなら声もかけずにそれを実行しますし、殺人鬼ならなおのことです。ゆえに、私は怪しいものではございません」
怪しげなその男は、ずけずけと勝手な持論を言う。仮に理屈が通っているからといって、こんな場所でこんな時間に音も立てずに近づいてくる輩を信頼できるはずもない。
そもそも僕は他人を簡単に信じることはしないし、この状況で怪しまないのは、命の危険によほど鈍感なのか、鈍感でいられるほど腕っ節に自信があるか、武装しているかのどちらかであって、あいにく僕はそのどれでもない。
「お約束します。怪しまれるのは仕方がないですが、決して危害を加えたり、欺いたりは致しませんから。ただちょっとお話を聞いていただいて、それでお役に立てればと思っているだけですから」
男の背格好は中肉中背よりはやや線が細く、身なりは上下黒のスーツに黒のシャツ、暗闇に溶け込むように全身真っ黒である。その声の様子や、不健康に黒ずんだ顔色をしている。
目の細さに対して鼻の大きさが目立つ。目じりのしわが暗がりでもくっきりとしている。オールバックにしている髪に少しだけ白いものが混じっているように見えるが、公園の電灯の加減で光って見えているのか判断がつかない。40代後半か50を過ぎたくらいだろうか。
「すいませんが、誰かと話をする気分ではないので、ご遠慮いただけないでしょうか」
相手を怒らせず、かといって話せる奴だと期待させず、丁寧にその男の提案を断ろうとした。
「ええ、よく存じ上げております。こんな時間にお一人で人気のない公園のベンチで休まれている人が、見ず知らずの人と話がしたいなどということは無いでしょうなぁ。ですが会話をする必要はございません。ただ少しだけ、私の話に耳を傾けていただければ、それで用は済みます。時間は取らせませんし、この距離より私が近づくこともございません。どうか、少しばかりお時間をいただけませんでしょうか」
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