1匹の蛙

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1匹の蛙

「これは僕の妄想で現実には存在しない」 そんな君に僕は恋をしている、と男は続けた。 春先だというのに、雪が降り()もっている。春一番(はるいちばん)を耳にするのはまだ先の話になりそうだ。 そんなことなど気にしている場合ではない男が1人。薄っぺらい紙を手にし、眺めていた。そのまま(たたみ)に体を預ける。ばたん、と(はじ)けた音が青い部屋に響く。 「いつもいつまでもギリギリでこちらの身にもなってくださいよ。先生が言う初恋の人の話は聞き飽きましたけど、僕としてはこのお話はまだ続いてほしい限りです」 原稿は頂いていきますよ、と男が手にしていた1枚を奪うように持ち去っていってしまった。その際にひらり、と僅かに見えたのは“金魚(きんぎょ)(かえる)”。そして、“きさらぎまこと”と書かれていた原稿用紙(げんこうようし)。 これは、きさらぎまことが幼い頃の話。 漁師(りょうし)家系(かけい)に生まれたこともあり、船に乗ることは珍しくないことだった。漁師を継がないことは珍しいことだが、そんな彼に一難(いちなん)見舞(みま)われた。 男が書いた物語によれば、その日は涙を流してしまうほどの暑さだった。帰りたい、帰りたい、と船に乗り慣れているはずの幼い男は父親の足にしがみつき、泣きじゃくっていたそうだ。 数時間が経ち、やっと足から離れたか、と思った矢先(やさき)だった。突然(とつぜん)豪雨(ごうう)に襲われた。波は荒れ狂い、船を飲み込むほどの大きな壁が此方(こちら)へやってくる。父親はすかさず幼いきさらぎまことの手を引っ張ったが、遅かった。吸盤(きゅうばん)にでも吸いつかれてしまったかのように船は横転(おうてん)した。 体の小さい男はぐるぐると(うず)に遊ばれ、その後の記憶はなかった。 気がつけば、砂浜で船のように横になっていたそうだ。 そのときだった。 穏やかな波音(なみおと)。口の中は砂の味で溢れている。眩しい太陽に瞬きを繰り返しながら、(かすみ)のかかった視界の中で海の中へ飛び込む大きな尾鰭(おびれ)が見えたのだ。 まるで、童話で王子を助ける人魚姫が王子へ恋に落ちてしまったように、彼も恋に落ちてしまったというのだ。 「一段落(ひとだんらく)ついたし、棚田(たなだ)さんが買ってくれたお弁当食べよう」 インクで変色してしまった机。()きっぱなしの布団。仕舞(しま)いどころを失った本の山。使われることを忘れてしまった水道は蛇口(じゃぐち)のある意味をしていない。支払いを忘れて止められたわけではないのでご安心を。 黒色(こくしょく)が目立つ手の側面(そくめん)であけられそうになっているお弁当の(ふた)の下は野菜一色(いっしょく)。 千切られたレタスに2等分されたトマトが2つ。引き離されてしまったが近くにいるような兄弟(きょうだい)ブロッコリーと(はかな)くもスライスされた紫色の玉葱(たまねぎ)(つや)の隠せないとうもろこしが表紙のコーンスープと粉末状の汁と凝縮(ぎょうしゅく)され切ってしまった具材の豚汁。その下に埋まっていた唐揚げ弁当。宝探しをしている気分になりそうだ。 (はし)を割り、手を合わせる。 「いただきます」
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