1.日常が変化する時はいつも、雨の音がする

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講義を聞きながら、気が付けばその時の姉のことを思い返していた。 声は震えてはいなかった。けれど、気丈に振る舞ったのだろうその声は、いつもより少し低く、静かだったように記憶している。 (おれは、何も成長していないんだなぁ…) 自分だって、実は同性の敦也が好きだった。 それに戸惑う暇もなければ、誰かに打ち明けようと思うこともなかった。だって、気が付いた時にはもう、失恋していたから。 ではおれが同性愛者なのかと訊かれると、それはまた違う気がした。“敦也だから”、好きになったのだと思う。 けれど例えば、それを人に打ち明ける時、普通に彼女が出来たとか女の子で好きな子がいるんだと打ち明ける時の、何百倍もの勇気がいるものだろうか…。 世間の目はまだ、冷たいのだろうか。好奇にさらされてしまうのだろうか。 日本はまだ、同性婚についての理解が追い付いていなかったように思う。近年やっと、ニュースで一部条例で『同性パートナーシップ証明制度』とかなんとかの導入で、認められるようになったと騒いでいたような気がする。それでも、それも結局のところ、異性間の結婚とは大分異なる内容なのだろう。……よく知らないけど。 『…………………そうですか』 先程の。 なんの気配りもない自分の、ただの相槌が甦る。 一人残された彼は、何を思ったろうか。 あっけらかんと事も無げに言っていたが、実のところはどうだったのか。震える声を誤魔化してはいなかっただろうか。 のらりくらりと流されながら生きて来たから、こんな時ー真剣な想いに直面した時ー言葉が何も浮かばない。 最近になってやっと、そんなことに後悔する。これまでの人生に。 取り零して来た、沢山の想いがあっただろう。 期待されてた様々なことを、無下にしたことがあっただろう。 「…………」 黒板では教授が、ソクラテスがどうだとかアリストテレスがアルケーがと、よくわからない話をしていた。 だから僕は、心の中でそっと耳を閉じて、目を閉じて………何も知らないふりをした。 その日の帰り。 スーパーのお会計の時に財布を覗いて固まった。 「…………」 「え、何?もしかして、足りない?」 指を財布に突っ込んだまま固まったおれに、バイトでレジに入っていた[[rb:翔>しょう]]が黒ブチ眼鏡の奥で目を見張った。それから、しゃーねぇな、と笑う。 「ツケとくよ。芳樹の彼女だから、特別なー」 「…………悪いな」 「いーって。また返してくれたら」 カップ麺数個と飲み物で683円のお会計に対して、財布に入っていたのは264円。カップ麺一つだけだったら買えるけど、家にもう何もなかったはずだからその厚意に甘えることにした。 更にスーパーの袋まで甘えて、その足で銀行に向かった。 しかし、ATMの画面に映された通帳残高にまた愕然とする。 728円。 画面の中で事務服を着た女性のキャラクターがアニメーションでお辞儀を繰り返す。 注釈に、『引き下ろし最低金額を満たしていない為、引き下ろしが出来ません』とあるせいだろうか。 次の仕送りまではまだまだ日があった。 (…………まぁ、なんとかなるかな……) 人間、水分さえ摂っていたらなんとかなるだろう。 しかしその認識が、甘かった。 「シュウヤくーん!」 その日は雨が降っていた。 パラパラと、傘はいらないくらい。 そろそろ、梅雨入りだろうかと思われる。何と無く天気の悪い日が続いた。 雨の日は嫌いだな、と否応なしに呼び起こされる記憶に、憂鬱に一人、次の講義の教室へ向かっていた。 また彼はそんなおれを目敏く見付けて駆けてくる。 そろそろ耳と尻尾が見えなくもない。まるで、忠犬のようだ。 バイセクシャルであることをカミングアウトしても、彼は普通だった。だから、おれもいつも通りに接した。少しだけほっとしている自分がいた。 「倫理、楽しい?」 「………別に」 「シュウヤ君が倫理を選択してるのって、なんか痺れるね!」 何が?と思ったが言わなかった。 相も変わらず、至極当然のことのように彼はおれの隣で肩を並べて歩く。…実際には、神城さんの方が十五センチくらい背が高い。 「大学、慣れてきた?どう?楽しい?」 「………まぁ」 「夜とかフラフラしちゃってる?」 「なんですか、その質問」 いつもの取り留めもない軽口。 ヘラヘラと相変わらず掴みどころのない笑顔で、彼は大袈裟に「いーなー」と溜め息を吐いた。頬に添えている手なんかが、彼の中性的な雰囲気にマッチしている。 「放課後にどっかそこら辺で晩御飯食べて、[[rb:友達>ツレ]]のアパートで飲み明かしたり。ダーツにビリヤード。コンパ。バイトするも良し。サークル活動に放課後を捧げるも良し。はぁーっ、大学生って夢あるよねーっ」 「……………そうですか?」 「違うの?そんな感じじゃない?」 「………最近、飯は」 食べてないですね、と続くはずが、地面が揺れて言葉が出なかった。 「シュウヤ君っ?!」 いや、揺れていたのはどうやらおれの体の方らしい。 急な目眩と吐き気で、おれはそのまま床に倒れてしまった。
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