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 キャリーケースを引きずり学校法人華麗学園の大学キャンパスに到着した途端、カレーの香りで朝から何も食べていなかったことに気付いた。ただでさえ食欲が高まる秋なのに、緊張と期待でそれどころではなかった。インドのタージ・マハルみたいな豪華な時計台がお昼休みを知らせるチャイムを鳴らす。僕の経営コンサルタントとしてのデビュー戦を歓迎しているかのようだ。  社会人としての第一歩を踏み出すことに気分は高まるが初っぱなから危機に直面しているのも事実だ。駅前で力士同士のケンカの仲裁に入ったため時間を取られ、理事長との顔合わせを兼ねたランチミーティングに遅刻してしまった。  投げ飛ばされて厚手のコートが泥だらけになり、スーツのジャケットの脇部分が破れもした。ありあまる正義感で多くのトラブルに巻き込まれた人生だったけどこればかりは仕方がない。正義感は僕の遺伝子に深く刻まれ自分の意志ではコントロールできない。 「キャー! 通り魔よー!」  女性の悲鳴だ。見回すと三人組の女子学生を大男が通せんぼしている。男は映画で見た殺人鬼を連想させるマスクを着用し、長い棒を空に掲げていた。  自然と体が動いた。男に背後からタックルすると体格の割に簡単に倒れた。さっき相手した力士と違って足腰が弱い。 「早く逃げて!」三人組に避難を促し、そのまま男に食らいつく。 「やめてくださいよ。僕が何をしたんですか。背中をケガしてるのに」関西弁のイントネーションで抗議される。まだ東京から引っ越してきたばかりなので新鮮だ。 「棒で襲いかかってたじゃないか」 「違いますよ。アイスホッケー部の勧誘です」男がマスクを脱ぐと童顔のニキビ面で、悪いことをしそうに見えない澄んだ目をしている。 「ごめんね。通り魔だって叫ばれてたから勘違いしちゃった。ここの大学生だったんだね」 「と、通り魔のはずないじゃないですか。変なこと言わんといてください」いやに動揺している。「それに僕、大学生じゃなくて高校生です」 「なんで高校生が大学キャンパスで勧誘してるんだよ」 「僕は華麗学園の中高等部にいて将来的には大学に内部進学する予定なんです。大学でもアイスホッケーを続けるつもりやし、今のうちから人材を確保しとこうと思って」  ポール栄司さんから聞いた話を思い出した。華麗学園は僕が今いる大学と、道路を挟んで向かい側にある中高があるんだった。 「死ぬ気でやらんと駄目なんです。本気なんやってところをアピールしないと」事情をよく知らないが切羽詰まっているようだ。「ところで、お兄さんは誰なんですか?」 「私、御校を担当させていただくことになりましたコンサルタントの大太千晴です」  名刺を差し出す。初めての名刺交換なるか。 「コンサルタントって?」 「コンサルタントっていうのはね」正直、まだよく理解できていない。世界各国から集まった同期とともにニューヨークで研修を受けたがそもそも英語ができないのでどうしようもなかった。ノーベル経済学賞を取ったらしい大学教授の講義も受けたがついていけないので早々にマンツーマンレッスンに切り替わり、その後すぐに「ユーアースペシャル」と言われ自由行動になった。覚えているのはブロードウェイで観たオペラ座の怪人とマンマ・ミーアぐらいで、言葉が分からないなりに楽しんだ。 「自分でもよく分かってないんだよね」 「お兄さんこそ怪しいですよ。十月なのに真冬のコート着てるし」アイスホッケー部員は怪訝そうな顔で走り去った。  季節感のない格好には理由があるのだが詳しくは説明できない。変質者と誤解されたかもしれないが、なあに、まあいい。これからだ。ポール栄司さんもOJTが大事だって言ってたし。OJTがどういう意味なのか知らないけど。  胸ポケットからメモ帳を取り出し走り書きを読み返す。ポール栄司さんの説明によると、店舗数世界一のカレーチェーン「DONDONカレー」を創業した華麗土門さんが学校法人華麗学園の理事長を務めている。大学は土門さんが父親から理事長の座を引き継いだ後に立ち上げた新設校で、外食業界で活躍する人材を育てるのが設立当初の目的だ。外食産業学部と食料生産学部、グローバル食人材教育学部の三つの学部があり、大学院もある。カレーへの思い入れは深く、専門の研究所まであるらしい。なんにせよ変わった大学だ。  大学から道路を挟んで向かい側には華麗学園中高等部のキャンパスがある。創立百年を超える伝統校で、こちらはいたって普通の進学校だ。  教えてもらうまで知らなかったが、私立の学校は学校法人という組織が経営することになっている。華麗学園では学校法人職員が働く事務棟が大学のキャンパス内にあり、僕はしばらく毎日通うことになる。  僕が所属するコンサルタントファームのクライアントは企業が大半で、学校法人は極めて珍しいらしい。今回、「君にうってつけだ」とポール栄司さんに言われてやって来た。当初、勝手に入社の話が進んでいて困惑したが、「学校を救うヒーローになれる」と口説かれてその気になった。苦戦前提で業界をえり好みせず就活に挑んだのになかなか決まらず疲れていたというのもある。  考え込んでいる間に時間が経ってしまった。早くランチミーティングがある来賓用レストランに急がないと。 「キャー!」  遠くから女性の悲鳴がした。僕は常に弱き者の味方で、弱き者の声に敏感なのだ。駆け付けずにはいられない。 「イヤーン!」 「バカーン!」  叫び声を頼りに走り回っていると駐輪場で女性が立ち尽くし、大きな木を見上げて泣いていた。  女性の横顔に予感を抱く。僕に気付いて正面を向いた女性の目は大きく透き通っていて、流れる涙にはあらゆる汚れを浄化する特別な力があるように思えた。勘違いの恐れがあるのでよくよく見直したがやはりずば抜けて可愛い。一目惚れだ。 「どうかしましたか? 悲鳴が聞こえて来たんですけど」 「クミンちゃんが、クミンちゃんが」  女性の視線を追うと木の枝にインコが立って青空をにらみ付けている。 「なんでインコがあんなところに」 「飼っているんです。空気を入れ替えるために窓を開けた瞬間に出て行っちゃって」涙声の関西イントネーションに心を揺さぶられる。 「大変でしたね。よし、僕に任せてください」  考えるより先に手足が動くのが僕の性だ。革靴とソックスを脱いで裸足になり太い幹にしがみつく。実は似たようなシチュエーションで木登りをしたことが何度かあるので手慣れたものだ。 「いい子だからこっちにおいで」  恐る恐る手を伸ばすとクミンちゃんが飛び去り、女性の肩に乗った。結果オーライだ。と、気を抜いた瞬間に体勢を崩し、建物の壁にあった監視カメラをつかんだが駄目だった。カメラごと地面に全身をぶつけて暗闇を星が舞い、土が不味い。 「大丈夫ですか? 大変! どうしよう」  女性の存在を間近に感じる。幸せな気分で我に返り、体を起こした。 「平気ですよ。こういうのは慣れてますから」 「慣れてるんですか?」 「しょっちゅうですよ。今朝も力士に投げ飛ばされてウォームアップできてたんで余裕です」 「変なの」二人で笑い合う。そろそろ行かないとランチミーティングが終わってしまうけど、もう少しだけ時間がほしい 「学生ですか?」 「よく間違われるんですけど職員なんです」 「クライアントの方なんですね。僕、今日から御校を担当させていただくことになったコンサルタントの大太千晴と言います」 名刺を取り出そうとズボンのポケットを探ったがない。 「あれ?」どこかに落としたのだろうかと周囲を探していると、格子状のフタ越しに溝の底に落ちた名刺入れを見つけた。フタを外すと人が潜めるぐらい広い空間で、乾いて水気がないので降りて目的の品を取り戻した。 満を持して名刺を差し出す。今度こそ初めての名刺交換なるか。 「すみません。今は名刺持ってないんですけど、私は華麗果琳です。理事長の秘書をしてます」 「華麗さん? 華麗土門理事長の親族の方ですか?」 「娘なんですよ」名刺に目を落とす果琳さんをまじまじと見つめる。ホームページで見た理事長の厳めしさの欠片もない。母親似なのだろう。 「大太さんは優秀なんですね。私、仕事できないから尊敬します」 「僕なんてクソですよ。全然勉強できないし、仕事も始めたばっかりでよく分かってないし」 「コンサルタントって優秀じゃないとなれないんでしょ? 知り合いにいますけどすごく賢くて憧れてました」 「まあ、いろいろあって。特殊能力というか、なんというか」  恥ずかしくなってきた。あんな異様な姿、果琳さんには決して見せられない。 「特殊能力? すごいじゃないですか。どんなことができるんですか?」 「い、いや、特殊能力というか、足ですね。足で稼ぐんです。現場命でひたすら駆け回る。そういうスタイルです」  いつも落ち着きなく走り回っているのは間違いない。ただ、いつも結果には結びつかず空回りする。さっきのインコ救出作戦のようにうまくいくのはまれだ。  果琳さんは釈然としないといった顔をしている。仕方がない。ここで裏人格の話を明かすと嫌われてしまうかもしれないから。それにしても本当に整った顔立ちだなあ。ん? おかしいぞ。美女を目前にこんなにも心が騒いでいるのに、体は全く反応しない。あの忌々しい男のシンボルの移植手術を受けて以来、特定のおじさんに反応することはあっても、好きなタイプの女の子に反応することはなくなった。一体、僕はどうなってしまったんだろう。 「コノヤロー!」  野太い声に振り返るといきなり地面に組み伏せられた。草が鼻に入って気持ち悪い。 「副理事長、待って! この人は悪い人じゃないんです! 木に飛び降りたまま動けなくなったクミンちゃんを助けてくれただけ」 「なんだ。通り魔かと思ったぜ。真冬みたいな格好してるし怪しすぎだぞ」副理事長、リーゼントヘアで革ジャンを着込んでやけに男らしい。 「なんで監視カメラが地面に落ちてるんですか」知らないおじさんが増えた。ひょろ長く頭髪が貧しい神経質そうな男だ。 「すみません。木から落ちた時につかんじゃって」 「秘書室長、ごめんなさい。私が悪いんです」 「やってくれましたね。これ高いんですよ。弁償してもらわないとなあ」ナメクジみたいな陰湿な視線が気持ち悪い。秘書室長、苦手なタイプだなと思った瞬間、下半身に異様な痛みが走る。怪物がうずいている。とっさにコートで隠す。果琳さんに見られたら僕は即死してしまうだろう。 「兄ちゃんケガはないか? ごめんな。タイミングが良くなかった。ニュースで知ってると思うけどうちの学校いろいろあったから」 「何かあったんでしたっけ」 「知らないんですか? あなた、テレビとか新聞読まないの? 大ニュースですよ」秘書室長が声を荒げる。いちいち大げさだ。 「仕方ないですよ。豪雨被害とか火山の噴火とか政治家の汚職とか、あとはワクチンが効かない新型コロナウイルス患者の国内初確認とかここ数日はいろいろありましたし、株価は大暴落しました。報道機関としてもうちの通り魔事件だけを報じる余裕はないですから」果琳さんがフォローしてくれる。 「ここで通り魔が出たんですか?」 「高校生が背後から切り付けられたんです。アイスホッケー部の子なんですけど」 「アイスホッケー部? そういえばさっきキャンパスでたまたま部員の男の子と話したんですよ」 「じゃあその子ですね。アイスホッケー部って一人しかいないから。彼はいつでもアイスホッケーの試合できますよって格好してる変わり者なんですよ」 「僕、女の子を襲おうとしているヤバい奴と勘違いしてタックルしちゃったんですよ。そういえば背中をケガしたとか言ってたけど大丈夫だったのかな」 「うーん、まあ、傷は浅かったそうなので大丈夫ですよきっと。」  不安になってきた。また余計なことをしてしまった。 「兄ちゃんは大学生? やけに厚着だけど風邪でも引いてるのか?」 「僕、今日から御校を担当させていただくことになったコンサルタントの大太千晴です。厚着には特に深い意味はありません」 「なんだ紙芝居屋か」初めての名刺交換を期待したが、副理事長は名刺を菓子袋を開けるようにして破り僕の手に戻した。あまりの仕打ちに驚く僕を無視し、果琳さんに優しく微笑む。 「なんでインコがまだ学校にいるんだよ」 「引き取り手が見つからなくて」 「捨ててこい」 「でも」 「口答えするな。今すぐに捨ててこい」 「分かりました」果琳さんの目が再び潤む。 「別にいいじゃないですかちょっとぐらい」つい口に出してしまった。副理事長が見下したような目を向けるが構わず続ける。「今は経営立て直しの最中で皆さん心が荒んでいるんじゃないですか? インコが癒しになるんじゃないかと思うんですけど」 「お前はクライアントの女を口説くつもりなのか?」 「二人は付き合ってるんですか?」 「もうすぐ結婚するんです」果琳さんが笑顔を作るがぎこちない。さっきから恋人であるはずの副理事長に対して敬語だし、役職で呼ぶのも不自然だ。副理事長はぱっと見で四十 歳ぐらいで、果琳さんより少なくとも一回りは年上だから遠慮があるのかもしれない。いずれにせよ事情がよく分からないので話題を変えよう。 「そんなことよりインコを捨てるなんて言語道断ですよ。動物虐待だ」 「うるせえよ。お前は紙芝居だけつくってりゃいいんだよ。ただしここでは誰もお前の紙芝居なんて読まないけどな」  さっきから紙芝居、紙芝居ってどういう意味だ。理解できないけど馬鹿にされているのは明らかだ。反論しようとしたところで副理事長のスマホが鳴り小声で話し始め、秘書室長を手で招きそのまま駐輪場から立ち去った。 「すみません。巻き込んじゃって」  もうすぐ人妻になる人だと分かっても果琳さんは変わらず魅力的だ。 「気にしないでください。クミンちゃんはどうするんですか?」 「家で飼うことにはお父さんからも反対されてるんです。引っ越して狭くなっちゃったし」  果琳さんが押し黙り、また悲しそうな顔になった。見ていられない。 「僕が引き取りますよ。動物好きだし」 「そんな。悪いですよ」 「初めて実家を離れて暮らすから寂しいんですよ。東京から引っ越してきたばかりで友だちもいないし」 「大阪で生活するの初めてなんですね。私でよかったら友だちになってください」 「ぜひ!」がっつきすぎだと反省するぐらい声が大きい。 「なんでインコを飼い始めたんですか?」 「学校の経営が大変やからちょっとでも役に立ちたくて。その、さっき大太さんも言ってましたけど、癒されるじゃないですか。キャンパス移転の話でみんな殺気立ってたし」  キャンパス移転? そういえば、ポール栄司さんがそんな話をしていた気がする。 「副理事長も最初は飼うのに賛成してくれたんですけど、急に考えが変わっちゃったみたいで」 「なんで反対するようになったんですか?」 「よく分からないんです。ここ数日の間に捨てろって言い出して。理由を聞いても教えてくれないし」 「辛くないですか? あの人なんか乱暴そうだし。男女のことなのでよく分からないですけど」 「心配しないでください。口調は荒々しいですけど、根は優しい人なんです。ケンカしたのはクミンちゃんのことが初めてです」  言葉にウソはないようだ。悔しいけど果琳さんは副理事長と結婚するのだ。 「昼休みが終わるしそろそろ戻らないと。秘書室長、一分でも遅れたらめちゃくちゃ怒るんですよ」 「あの人の説教ねちっこそうですもんね」僕も道草を楽しみすぎた。「今から理事長とミーティングなんです」 「じゃあLINEの交換しましょ。クミンちゃんのことで相談したいですし」  副理事長がいないのを良いことにちゃっかり連絡先の交換を終えた。これも人助けの一環だと心の中で自分に言い聞かせているのが我ながら滑稽だ。
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