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数日ぶりの学校史編纂室はやはりカビ臭かった。凛子さんはしかめっ面でノートパソコンに向かっている。経緯を一から説明したが反応がない。全く連絡を返さない上に警察沙汰まで起こしたんだから機嫌を損ねるのは当たり前だ。
「本当にすみませんでした」
何度目だろう。いくら謝罪しても徹底して無視されるのでタイミングを見計らって謝罪し、無視され、また頃合いをみて謝罪し、無視されることを繰り返している。
「どうしたら許してくれるんですか」また無視されるかもしれないけど聞いてみた。
「君の特殊能力について教えて」凛子さんがキーボードを打つ手を止め、今日初めて会話が成立した。が、無理なものは無理だ。
「できません」
「じゃあ私がプロジェクトを降りる」
「困りますよ! そもそも簡単にドロップアウトできないでしょ。ポール栄司さんがきっと許さない」
「あんなおじさんどうでもいいよ。もう九州に帰る。疲れた」
何を言っているんだこの人は。僕のせいで会社を辞めるということか。
「地元帰って結婚なんて気乗りしないけど、こんな過酷な仕事を続けるよりマシだわ」
よっぽどストレスを感じているんだ。そうだよな。僕が仕事しない分を凛子さんが全てカバーしているわけだし。
「いろいろ迷惑を掛けて申し訳ない気持ちでいっぱいなんですけど、それとこれとは別問題なんです。言えないですよ」
「大太君のことは評価しているんだよ。大太君が体を張って頑張ってくれたおかげで学校内の私たちの評価は急上昇している。本来の仕事じゃない部分ではあるけど頑張りを見せて、今まで協力的じゃなかった人の一部が心を開いてくれるようになった」
厳しい上司に褒めてもらえて誇らしい。狭い空間で何十時間も粘った苦労が報われた。
「でも私が君のせいでしなくていい苦労をしているのも事実なんだよ」上げて落とされた。でもその指摘は正しい。
「本来二人でやる仕事を全て押し付けられてパンク寸前よ。デートの予定も飛んじゃったし、これ以上婚期が遅れたらどうしてくれるのよ」
「すみません」僕のせいではないような気はするが、とりあえず謝っておこう。
「冗談よ。私は婚期なんて全く気にしていないから。気にしているのは周りだけ」凛子さんの目は笑っていない。
「催眠術士なの?」
「何のことですか」
「催眠術を使ってクライアントと良好な関係を築くとかそういう感じじゃないの? でっかいキャリーケースをいつも持ってるけど七つ道具が入ってるんでしょ?」
「絶妙に惜しい!」ある意味、催眠術みたいなもんだけど違う。
「そうなんだ! あるいは陰陽師? スピリチュアルな力を使ってクライアントを言いなりにしちゃうとか? キャリーケースに数珠とかお札とか清めの塩が入っているの?」
「これ以上ヒントを出しちゃうと特定されるので勘弁してください」
「まあいいよ。もういい。特殊能力採用なのに特殊能力を発揮しないし、教えてもくれないなんて私も舐められたもんだわ。辞表書いて来月にでも田舎に帰る。嫌だなあ。せっかく独身生活を満喫してたのに」
「学校がこのまま潰れちゃってもいいんですか?」
「うん、いいよ」真顔で即答した。「通り魔事件の犯人もまだ捕まらないし、このままだと潰れちゃうかもね」
「冗談はやめてくださいよ」
「こんな物騒な学校に誰が来たいと思う? 数カ月の間に二人が背中を切り付けられてるんだよ? 経営状態も悪いし、起死回生につながるかもしれないキャンパス移転は事件のせいでなくなる可能性がある」
「移転ってなくなるんですか?」
「二人目の被害者が出たことで学内でも反対の声が強くなっているのは事実よ」
「それっておかしくないですか? 確かに僕も移転は急な気はしますけど、暴力に屈すると犯人の思うつぼじゃないですか」
ドンドンとドアをノックする音がする。
「今から緊急のミーティングをやるんで大部屋に来ていただけます?」扉が開き男性職員が顔を出した。
「私たちも参加していいんですか?」
「もちろんですよ」職員がウインクする。数日前まで厄介者扱いだったのに態度が好転している。あらためて鬼塚さんに感謝だ。でも緊急のミーティングってなんだろう。
大部屋では数十人の職員全員が強ばった表情で立ち上がり、副理事長に視線を注いでいた。リーゼントヘアの副理事長の目には迫力がみなぎっていて、さながら羊を率いる狼だ。隣に寄り添うトップの理事長は枯れ木のように影が薄い。
「先日、再び学内で通り魔事件が発生しました。警察に協力を仰ぎ、自分たちでも警備会社にお願いして守りを固めて警戒していたのですが、大変残念なことに秘書室長が被害に遭われました」
秘書室長は今どうしてるんだろう。ひょろ長い中年を探すと普通に立っていた。背中を切られたはずだがそこまで大きな傷ではないのだろうか。心なしか顔に覇気がない。通り魔に襲われたのだから当然か。
「卑劣な犯人は今も脅迫状を送り続けてきています。要求は引き続きただ一つ。キャンパス移転の検討をやめることです」
まだ送り続けてきていることに驚く。犯人はよっぽど移転してほしくないのだ。
「ここで宣言します。我々は絶対に犯人に屈しません。断固、移転計画を実行し、必ずや再建を果たしてみせます」シーンとして誰も反応しない。
「ちょっといいですか」秘書室長が正面の副理事長を向いて挙手する。
「どうぞ」
「移転計画ってまだ正式に決まったものじゃないですから、計画ありきで話されているのはおかしい」
「秘書室長は暴力に屈するんですか?」
「三人目、四人目の被害者が出たら取り返しがつかなくなる。私も、私の前に被害に遭った学生も軽傷で済んだからよかったものの、下手したら命を落としていたんだぞ!」
声が異様に震えている。どういうわけか僕が抱えるモンスターが準備運動を始めたようで、コートの前方を閉める。
「警察は警備体制を強化すると約束してくれています」
「あんた、前もそう言ってたじゃないか! 安心してたら背中を切られたんだよ!」
大部屋は静まり返る。矢面に立つ副理事長は表情を一切変えず、キャンパス移転への並々ならぬ決意を感じる。犯人に屈しない姿勢は評価するけど、不安に感じている人がいるんだからもう少し丁寧に説明するべきなんじゃないだろうか。やはりこの人のこと好きになれない。
「貴重なご意見ありがとうございます。ですが、ここで要求に応じてしまった場合、悪しき前例を作ることになる。脅せばなんでも言うことを聞くと誤ったメッセージを犯人に与えてしまうことになる」
「だったらどうなんですか! 学校の平和が最優先でしょ!」女性職員から抗議の声が上がる。怒るのももっともだ。
「そもそもキャンパス移転はみんながみんな賛成しているわけじゃないんだし、いったん最初から考え直そうよ」
「誰かさんが新聞にリークしたせいで揉めてるだけだろ」
賛否の声が飛び交い始めた。険悪な雰囲気になってきたぞ。そして、ここにきて特殊な腹痛の度合いが増す。もう耐えられない。この場にいるとボロが出る。
「大丈夫? いったん外に出る?」
「そうします。ありがとうございます」
凛子さんが助け船を出してくれた。大部屋から出て廊下でうずくまり痛みが去るのを待ったが、脂汗が止まらない。
「お腹が痛いの?」
「めちゃくちゃ痛いです。秘書室長を見ていると気持ちが変になっちゃって」しまった。事実ではあるが、誤魔化さないとマズい。
「私も同じことを考えてるかもしれない」
「え?」秘書室長みたいな神経質なおじさんがタイプなのだろうか。
「なんか引っかかる。この通り魔事件」ああ、そっちか。「第二事件の犯人の服装についての証言の不一致は変だよね。大太君はオレンジだと証言しているけど、秘書室長と大学教授は黒だと言っている」
「僕も変だと思います。オレンジは疲労による見間違いだって鬼塚さんに言われましたけど、あの時は犯人を捕まえてやろうと気合が入りまくっていましたし見間違えるはずがない」
「一番おかしいのは秘書室長の証言が迷彩から黒に変わったことよ。迷彩服姿の大太君が警察に取り押さえられたのを見てから勘違いだったと説明し始めたそうだけど、すごくきな臭い」
「秘書室長がウソを付いているってことですか?」
「その説が一番辻褄が合うのよ。迷彩と黒を勘違いするはずないでしょ」
「ウソを付く意味が分かりませんよ。なんで自分を切り付けた犯人をかばうんですか」
「秘書室長と犯人がグルだったら? オレンジ色の服を着た犯人役が秘書室長を申し訳程度に切り付け、そのまま柵を乗り越えて逃げた。秘書室長は巡回中の警察官を呼んで被害を訴え、犯人は迷彩の服を着ていたとウソをついた。理由は、警察に犯人を捕まえさせないため。大太君が見た不審者は秘書室長が悲鳴を上げる前に柵を乗り越えたということだったけど、時間稼ぎのためにタイミングを遅らせたと考えれば説明がつく」
「だとしたら何でそんなことするんですか」
「キャンパス移転計画を潰すために決まってるでしょ。脅迫状を送り続けたけど副理事長の気持ちは変わらない。だから被害者を作り出す必要があり、自分が被害者を演じることにしたのよ」
「犯人役も移転に反対している関係者ということですか」
「そう。いるでしょ一人。大太君も知っている人が」
「思い付かないです。誰だろう」
「アイスホッケー部の彼よ」
「え? 彼が一体なんで」
「アイスホッケー部は部員が彼しかいない。練習のためには特殊な施設が必要で、経営難の学校が移転先に新しく設ける可能性は低い。毎日ホッケーマスクをかぶって部員の勧誘をしているような熱心な子だし移転に反対する動機はあるよ。それに彼が被害に遭ったことに対して不自然だと感じない?」
問われても特に違和感はないので凛子さんに続きを促す。
「彼が背中を切り付けられたってことは、いつも大事そうに着ている競技用の防具をその時だけなぜか脱いでいたってことを意味しているんだよ。気になって本人に確かめたんだけど当時はワイシャツ姿だったと認めた。なぜなのか聞いても答えなかったけど、背中を秘書室長にきちんと切ってもらうためと考えるのが自然よ」
「彼に出会った時は大柄に感じたんですけど、あれは防具を着用していたからなんですね。どうりで体格の割にあっさり倒れたわけだ」
「大太君が溝の中から見たオレンジ色の不審者が細身だったのは、アイスホッケー部員の彼が当時防具を着ていなかったからだと思う。防具を着ていると目立つし、素早く逃げるのに邪魔になると判断したんでしょうね」
凛子さんが軽く咳払いして推理を続ける。
「おそらくだけど、第一事件が起きても副理事長は移転計画を止めなかった。引き続き脅迫状を送り続けたけど事態は好転しない。そこで第二事件を仕組んだものの誤算が生じた。君が迷彩の服を着て溝に隠れていたからよ。架空のはずの犯人が出てきてしまったので秘書室長はやっぱり黒だったと証言を翻した」
「僕が逮捕されちゃうとマズいと思ったんですかね」
「秘書室長と事務局長が揉めてた時、大太君って移転に反対だって言ったそうじゃない。それで君のことを味方だと思ったんじゃないかな」なるほど。筋は通る。
「大学教授にも移転に反対する理由はある。教授は忍者グルメの研究をしてるんだよね? すごくバカっぽいし、学校にお金があった頃に抱えた負の遺産よ。移転費用は副理事長がお金を出すとは言えすごい額が発生するし、可能な限り無駄は削らないといけなくなる。そうすると芽の出ない研究は真っ先に切られてしまう」
秘書室長に対してずっと感じていた違和感の正体が徐々に姿を現してきたような気がする。この腹痛はもしかしたら、僕の中の眠れる怪物が直感的に秘書室長に怪しさを感じているからかもしれない。
「ただ、あくまでも全て仮説よ。決定的な証拠がない。あと個人的に引っかかるのは、犯行予告でも通り魔という言葉が使われているんだけど、移転に反対するという目的があるから誤用なんだよね」
「どういうことですか?」
「通り魔って動機なく人を傷付ける行為を指すから、厳密に言うと使い方が間違っているんだよ。秘書室長ってすごく細かくて神経質だし、そんな凡ミスするのかなと思って」
「秘書室長が全て正直に話してくれたら解決するんですけどね」
凛子さんの熱い視線を感じる。何だろう。
「私たちには大太君の特殊能力があるじゃん。催眠術に近いと言ってなかったっけ」
「無理です」当然の即レスだ。
「正直、もう時間がないのよ。保護者やOBの間でも不安視する声が大きくなっているし、このままだと反対派の声が大きくなって計画が白紙になりかねない。計画の是非を精査するのが私たちの仕事だけど、こういう形で終わらせるのは良くないよ。賛成派、反対派が対立したままだと上手くいかないし、遅かれ早かれ学校は潰れる」
果琳さんの顔がふと脳裏に浮かぶ。このまま学校が潰れてしまったらあの人はどうなってしまうのだろう。すごく悲しむだろうな。気乗りしないが腹をくくるしかない。
「仕方ない。分かりました」
「やる気になった?」
「やるしかないでしょ。その代わり、手伝ってほしいことがあるんです」凛子さんは興味津々といった顔だ。なんか嫌だな。この人のこと本当に信頼してよいのだろうか。
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