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歩きながら上村くんのことを考えているうちに、少しずつ彼との出来事を思い出した。
彼は本当はもっと割のいいバイトを探していたけれど、ちょうどいいのがなかったからと、カフェに来た。3ヶ月のつもりだと言っていたのが、結局半年ほどいた。
上村くんは夜のイメージがある。深夜ではなく、日が暮れたばかりの夜。彼といる時間が夕刻が多かったからかもしれない。
カフェのカウンターに入り、上村くんのそばにいると、彼のほうから風が吹いてくる気がした。
気になって彼を見ると、ぼうっと天井近くを見ている。私が声をかけると、びっくりしたようにこちらを見下ろして、笑う。今思い出してたんだけど、と小声で、訪れたことのある国の話をしてくれた。
お客さんが来ると中断してしまうけれど、上村くんの旅の話を聞くのが好きだった。
ある日彼がお店にあったチラシを見つけて、あっと声をあげた。奥の方にいたお客さんがチラッと彼の方を見る。上村くんは1枚手に取り、カウンターに入ってきた。
「繭子さん、この写真家、知ってる?」
「ごめん、写真、全然詳しくなくて」
舞い上がる様子に、私が申し訳なく答えると、彼はまったく気にせずに言った。
「ヨーロッパの人なんだけど、世界を周っていろんな国を撮ってるんだ。すごく好きで。写真展やってるんだって。気づかなかった」
私は彼の手の中に印刷されている写真を覗き込む。モノクロの色彩の中に、道端に立つ女性がこちらを見ている。映る人物は、ただそこにいてカメラに目を向けているだけなのに、不思議と胸に迫った。何気なく佇んでいるだけで、秘めた光を放っているようにも見える。見た瞬間にすっと風がそよぎ、包まれるような感覚だった。
「……すごいね」
「繭子さん、一緒に行く?」
「いいの?」
「もちろん。……来週までか。予定合わせよう。これあげるよ」
上村くんは嬉しそうに私にチラシを手渡した。
彼から吹いてくる風と、この写真から巻き起こる風。
私は上村くんの秘密を知ってしまったような気がした。
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