6 幸福

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 仕掛け絵本が開くように、arisaのライブは始まった。  キラキラと光る刺繍のされた布をまといのっそりと舞台中央で立ち上がった彼女は、幕が上がった興奮で沸き立つ場内に静けさを取り戻させる。月明かりのようにスポットライトは彼女を照らし、声が、響いた。  おれは彼女の世界をそれなりに好みはしたが、MVを見ている限り特別視はしていなかった。知らない人の紡ぐ歌をそれなりに楽しめればいいだろうとここに来たが、思ったよりも彼女の歌に惹かれる。それが彼女の強さであり魅力なんだろう。芯のある歌声は舞台役者がセリフを言うようにこちらに訴えかけてくる。舞台には、彼女唯一人。他には何も要りはしない。  彼女だけで成り立つ世界に、本当にリョウさんが出てくるのかと心配になった。最初から最後まで彼女一人だったとしても何ら不思議ではない。この箱にみっしりと詰めた客の視線をくぎ付けにしているのが何ら不自然ではない。こんなところに、リョウさんは出てくるの?  曲は続いていく。仕掛け絵本のページをめくるように、演じるように彼女は歌い舞台上を移動する。スポットライトは彼女を追ってその世界の手助けをしていた。青いライトがだんだんと、朝日のように黄色へと変わっていく。眩い光が彼女一点から世界を広げる。舞台全体、そして客席にまで広がっていく。  眩しくて目を細め、閉じた。  瞼の向こう側の光が収まり舞台上を再確認したとき、彼は、リョウさんはすでにそこにいた。  arisaはダンサーを従えベールを脱ぎ、美しい素顔を晒している。強かったはずの彼女が今ではまるで、処女マリアのようだった。それならば後ろに共にいるリョウさんは、天使役だろうか。  柔らかな布がひらりと舞う。踊れば風を受け膨らんで、手足のように決められた形を作っていた。  arisaもリョウさんも髪形や化粧はシンプルで、していないと言われても信じられる。俺が見知っているリョウさんがそこにいて、言語化できない脳みその奥に刺さる踊りを見せてくれる。神経を隈なく走り全身が持っていかれる。  息をするのを忘れてしまった気がした。瞬きはできていただろうか。  周りの人が舞台に熱狂している。隣の子がarisaの名前を大きく呼んだ。遠くからも、後ろからも同じように彼女を呼ぶ声がする。それは声援なのか、はたまた祈りなのか。  男性客はいたが女性客が多く、自分は縮こまったほうがいいだろうかと思ってもいた。でも今は、リョウさんに少しうざがられた身長があってよかったと思っている。もしおれが150センチほどの可愛らしい女の子だったなら、リョウさんに気持ち悪いほど繰り返し愛を伝えても気持ち悪くはなかったかもしれない。だけどこの視界は得られない。  服をも手足のように操る彼を知れたことを、幸せに思う。
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