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その野営から暫く歩き、近くの川まで寄った。
絵に使う墨や顔料を溶くためには水がいる。
先程の団体客で全て使い切ってしまったので、荷物から瓢箪を取り出し、水を汲んだ。
そして、冷たい水で手を洗い、また次に売るための春画や美人画を描き始めた。
真っ黒な硯に、先程汲んだ水を少しずつ加えながら、墨をゆっくり擦っていく。
筆にすくい、納得のいく濃さになれば、庄右衛門はすぐにさらさらと紙に描いていく。
「……。」
描き上がった下絵を、眉間に皺を寄せて見つめた。
線だけでも伝わる肉欲。男の力強く荒々しい肉体、女の悦に浸った表情、今にも揺れ動きそうな、豊かな胸、柔らかそうな尻…。
美しく繊細ながら、激しく刺激的な春画だ。
「こんなんがあいつらの慰めになるなんてなぁ」
一つため息をついて、下絵を傍に置いた。
これだけの画力を持ちながら、庄右衛門は自分の絵で興奮など到底できない男だった。
背後に誰かが来た。ちらりと確認すると、十六歳ほどの少年が立っていた。
白い鞘に収まった大きな刀を背負っているが、刀を扱うには心配になるくらい線が細い。
藤色の旅装束を身に纏い、艶々とした黒髪を高いところで一つに結んでいる。
そしてその顔は、白くきめ細かい肌に、非常に整った顔つきの美形だ。
切長の目で庄右衛門を眺めているが、庄右衛門は構わず絵を描き続けた。
やがて少年は、庄右衛門に話しかけようと近づいてきた。しかし、ギョッとして立ち止まる。庄右衛門の周りに墨で描いた無数の春画や美人画が散らばっているのに気付いたのだ。
少年は出来の良さやら数に戸惑いながらも、おずおずと声をかけた。
「もし、そこの……」
「今仕事中だ」
庄右衛門が遮ると、少年はムッとしたように顔を顰めた。
「俺の絵を買いに来たのかぁ?ボウズにゃまだ刺激が強すぎるだろうが。ん?」
少年はわずかに頬を染めながら片方の眉を釣り上げ、花びらのような唇から凛とした声を発した。
「私が気になっているのは、その横に置いてある……」
あ?と庄右衛門が少年の視線の先を見やると、そこにある絵は、春画やら美人画ではない。荷物から落ちた、昨日描いた絵。
なんとも不気味な大蛇だ。
体中の至る所を大きな分厚い鱗が覆っている。しかし、本来あるはずのところに目も鼻も見当たらない。
代わりにやたらと大きな口がポッカリと開いていて、その中には鋭い歯が何列も並びながらビッシリと生えている。
その口から垂れた唾液なのか毒なのかが地面に落ちると、たちまち煙が上がってその場に無数の穴が開く。
何枚ものその化け物の絵は、描きかけのようで尻尾がない。しかしかなり迫力があり、今にも襲ってきそうな恐ろしい化け物絵であった。
「売りもんじゃねえんだ。冷やかしならどっか行けよ」
庄右衛門はそそくさとその絵を隠した。少年があっ、と残念そうな声を上げて、近くに寄ってきた。
「お願いだよ、もっと良く見せてほしい!」
「な、なんだお前⁈」
あまりに近い距離までグイグイと顔を近づけてくるので、驚いて飛びのいた。
ガッチリと大柄な見た目の割に庄右衛門はかなり身のこなしが速い。
ところが、少年もなかなか身軽だった。庄右衛門が避けても避けても、諦めず臆せず近寄ってくる。
とうとう、不意を突かれて絵を奪われた。
少年はマジマジと絵を眺めている。
心なしか、目が輝き始めている
…ゲテモノ趣味があるのか?と庄右衛門は顔を顰めた。
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