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「好きな人のイニシャルを消しゴムに書いて使い切れば恋が成就するらしいよ。」
私が消しゴムになったきっかけは香苗のこの言葉だった。
美術の授業の前だったか、廊下を歩きながら窓の外の曇った空を眺めていると隣を歩いていた香苗が言った。
その時は馬鹿らしいと思って取り敢えず「すごいね。」と軽く相槌を打ったのだが、後から少しずつ気になってきて、香苗のいないところで彼のイニシャル、'Y'を消しゴムに書いた。
告白をする勇気のない私はこんな馬鹿らしい事にも縋るしかなかったのだ。
香苗の前では「どうせ彼が私なんかを相手にするはずがない」と言っていたので、香苗には秘密にしておこうと思った。
書いている時にちょうど外で雨が降り出して、何だか悪い事をしているような気がしたのを覚えている。
半信半疑ながらも、私は丁寧に消しゴムを使った。今まで消しゴムを最後まで使い切った事が(記憶に残っている範囲では)ない私にとって新しい挑戦でもあった。
早く達成したくて、何も書いていない所でも擦っていたのは今思えば反則だったかもしれない。
角が無くなって、丸くなった消しゴムは持ちづらかったけど、彼のイニシャルである'Y'をなるべく保つようにバランス良く使っていった。
小さくなっていく消しゴムに対して次第に妙な愛着が湧いてきていた。
私の愛は彼に対するモノだったはずなのに、いつの間にか彼が好きだという事よりも消しゴムを丁寧に使い切ってあげる事の方が重要になっていた。
それは香苗の前で言っていたように'どうせ彼が私なんかを相手にするはずがない'という私の中の前提があったからかも知れない。
少し書き間違えれば消しゴムを手に取る。少し擦れて汚れれば消しゴムを手に取る。何もなくても消しゴムを手に取る。本来、文字を消すための道具である消しゴムの役目は曖昧になっていた。
国語の授業の時も、数学の授業の時も、英語も、社会も、その他どんな教科でも。
私の生活の傍には気付けばいつも消しゴムが存在していた。
「茜、彼のこと、好きなんだよね?付き合いたいって思わないの?。」
香苗に言われて私は初めて気付いた。
その時の私は、彼の彼女になることを目標にしているわけではなかった。
「私は彼の消しゴムになりたい。」
彼の生活の傍にいる存在、それだけでいい、そんな意味を込めて言ったつもりだったけれど、私の中では案外しっくりときていた。
「どうしたの?体調悪い?。」
「そうかもしれない。」
消しゴムを使い切った瞬間に私が本当に彼の消しゴムになっているなんて、この時には思いもしなかった。
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