サイコパス

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 真壁が死体となって発見されて二日目。  最近も警察は二、三人門の前を見張っているくらいで、まだ大きな動きはない。    しかしこの事件を殺人事件と疑い始めている人物が、少なくとも一人はいるということが昨日分かった。  問題はその人物、冬城拾壱郎が警察の中でどれほどの影響力がある人物かという事だ。  もし彼がそれ相応の影響力を持つ人物なら、すぐに警察が動きだすはずだ。  しかし、そんな様子がないことから、やはり冬城は警察の中でそこまで信頼されていない、ということだろうか。  まあ、そんなことをひたすら考えても、らちが明かないことは確かである。  独り帰り道。  俯き加減に歩いていると、地面に落ちている木の葉の中に、ピンク色の花弁が混じっていることに気づいた。  はっと上を見上げると、道にそびえ立つ木々が桃色に染まっていた。  もう、桜の季節か。  今まで顔をさげて歩くことが癖になっていたからか、咲き始めた桜の存在に気づけなかった。  下を見続けていると、周りの変化に気づけない、か。そんなことを偉人が言っていたな、などと考えつつ、江島は正面を向いた。  前を歩いていた男女と目が合った。  慌てて、そらす。  そして結局、自分が俯いてしまっていることに気づいた。  人の目線を避けていたのが、俯くことが癖になってしまった原因の一つであろう。  しかし、なぜ自分は人の目線が苦手なのだろう。 怖いからか。  嫌われるからか。  いや、そんなことを恐れた覚えはない。  では自分と関わってほしくなかったからか。  おそらく、そうだろう。  江島は昔から自分が行ったことによって人が困るのを恐れていたのだ。  なぜなら、自分は他の人とは違うから。  自分に話しかけて来ても、どうせ困るだけ。  ならば、いっそ関わらないままでいい。  そう思った江島は、本能的に人と目を合わせるのを避けてきたのだろう。  顔を上げると、すでに駅についていた。改札を通り、ちょうど来ていた電車に乗り込んだ。今日も、いつもの席に座る。  人と目を合わせたくないがために、江島は本を読む。  『ドアが閉まります』と、機械的な忠告が聞こえ、ドアがゆっくりと閉まり始める。  「おっと、失礼!」  すると、完全にドアが閉まるあと数センチのところで電車に乗り込んできた不届き者が現れた。  不運にも、その声には聞き覚えがあった。  不届き者は澄まし顔で、席はかなり空いているにもかかわらず、江島の隣に座ってきた。    ガクッと振動がして、電車が動き始める。  隣の、上方向からかなりの視線を感じた。本を読みながら無視を貫こうとするも、耐え切れず、江島はため息を吐く。  「なぜいるんですか、冬城さん」  「江島くんを駅で待ち伏せしていたんですが、いつの間にかあなたが乗り込んでいたもので。焦りましたよ」  そう言うとシルクハットを脱ぎ、汗を拭くような仕草をした。  「‥‥‥」  「おっと、あなたが読んでいる小説、一昨日会ったときとページ数が変わっていませんね。読んでいるフリですか?」  「‥‥‥」これもお見通しだったか。「なるべく人と目を合わせたくないんです」  「ふぅーん」  興味なさげに呟く冬城。  しかし、彼と会うのはこれで三度目である。  最初は興味本位で近づいてきているのかと思ったが、だいぶしつこい。  「で、何で電車にまで乗ってくるんですか。ストーカーですか?」  「逃げられないようにですよ。かなりきわどい内容の話ですので」  また話をするつもりか。  江島は冬城の自分に対する強い執着心に呆れた。  「なるほど」江島は持っていた本をしまう。「ところで、捜査はどんな感じなんですか? 大きな動きはないようですけど」  「ちょうど今朝、捜査本部を立ち上げました」  「はぁ?」  そんな様子、まったくなかったではないか。  しかし、衝撃的なこともいともあっさり口にしてしまう人だ。その呑気さがうらやましい。  「大きな動きがないように見せているのは、罠ですよ。犯人を焦らせないようにするための」  あれが、罠?   しかし、それを江島に言ってくる時点で彼は自分を疑っていない、ということだろう。江島は心の中で安堵した。  「それで、話とは?」  「ああ、忘れてた」冬城はそう言って優しく微笑む。「まあ先に言っておくと、決してあなたを疑っているわけではありませんからね」  「はあ」  それは十分心得ている。  「僕も話を聞いたときは信じられなかったのですが、小学生の頃はかなりの問題児だったようですねぇ。教卓にカエルの死骸、ですか」  〝カエルの死骸〟という言葉を聞いた途端、全身が粟立つのを感じた。江島は思わず目を見開く。  「調べたんですね」  「ええ。あくまで興味本位ですよ」それが逆に気持ち悪いのだ。「それで、あなたの過去について、僕はすべて知っていると思ってください。嘘を吐くと自分の首を絞めることになります」  「分かり、ました」  「よろしい。で、これに見覚えは?」 そう言って冬城が取り出したのは、一枚の紙きれだった。  一瞬、あっと声を出しそうになってしまったが、息を止めて抑え込んだ。  冬城が持っていたのは、学校の重要ファイルのログインパスワードが、正確には偽のログインパスワードがメモされた紙だった。  教室の教卓の中にあったものだ。真壁の罠にまんまとはまってしまった悔しさがこみ上げ、腹が疼いた。 「ない、です」 そして江島は、嘘を吐かないと誓って早々、一度目の嘘を吐いた。 「なるほど。では説明しましょうか。これは現場の教卓の中に入っていたものです。何か、思い出しません?」 「あー」江島は考えるふりをした。「思い出しました。そういえば前に真壁先生が、教卓を覗こうとした生徒に、『ここには大事なパスワードが入っているから見てはいけない』と注意してました。それですか?」 「ご名答、と言っても僕はそこまで分からないのですが。江島くん以外の2―Eの生徒にも聞いてみたところ、やはりみんな同じようなことを言っていました」 「それで、何のパスワード何ですか?」 「僕もそれが気になってメモをよく見てみたんですが、この隅に、『サイトログインパスワード』と書かれているのに気づきました」 「じゃあ、それってもしかして学校の重要ファイルとかの?」 「いえ、試しに学校のサイトにログインをしようとして見たのですが、どうやらこれは偽のパスワードのようです」 「偽の?」  冬城はここまでたどり着いているのか。  江島は顔には出さなかったが、心の中で彼の洞察力に感嘆していた。 「そこで僕はある仮説を立てました。あえて教卓の中に大事なパスワードがあると公言することによって、真壁さんはサイトをハッキングするような不当な輩を捕まえようとしていたのではないかと」冬城はちらっと江島の顔色を窺い、それから続ける。「それで、ひょっとしたらと思って聞き込みを行ったんですがねぇ、どうやら去年、学校のサイトがハッキングされる騒動が起こっていたらしいのですよ! それで思いました。真壁さんは、その犯人をおびき出そうとしたのではないか、とね」 「‥‥‥」 「そして問題のあの夜です。ログインパスワードが教卓の中にあると聞きつけた犯人が、教室に訪れます。真壁さんは待ち伏せでもしていたのでしょう、犯人の前に現れ、これが犯人をおびき寄せる罠だったことを告げる。そして、何とかこの場から逃げようと考えた犯人は咄嗟に事故死に見せかけて殺害する方法を思いつき、実行した——。こう考えれば教卓の中のプリント類が乱れていたのにも説明がつきます」冬城はそう言って、顎を撫でる。「しかし、冷静すぎるんです」 「‥‥‥冷静」 「ええ。常人にはあのような状況で、事故死に見せかけて真壁さんを殺害するなんていう計画を瞬時に立てられるはずがないんですよ。あれを成功させるには、そうだな、多少の狂った思考回路が必要です」 「‥‥‥」  もはや江島には、冬城の話を黙って聞く手しか残されていなかった。無意識に手を搔きながら、ただ冬城の声を聞いていた。  「もしこの仮説が正しければ、犯人は教卓の中にパスワードが入っていることを知り得た者です。すなわち、2―Eの生徒の中の誰か、ということになります」  「‥‥‥そうとは限らないでしょう」  「ほう?」  推理の隙を見つけ、江島は瞬時に噛みつく。この能力こそが、冬城の言う〝狂った思考回路〟なのだろう。  「2―Eの生徒の中の誰かが、他のクラスの生徒に情報を漏らしたということだって考えられる」  「なるほど。それは盲点でした。やはり、あなたに訊いてよかった」  「‥‥‥もういいですか?」  冬城が尋問に電車の中を選んだのは、こういうわけか。  確かに、江島は今すぐにでも逃げ出してしまいたい衝動にかられている。  しかし、この電車という密室空間では、逃げ出すことなど不可能だ。  江島は殺意にまみれた目で、冬城を見据えた。  冬城はそれに気づいていないのか、やはりいつもの余裕そうな笑みで、細長い人差し指をあげる。  「もう一つ、いいですか?」  「いいえ、と答えたら?」  「愚問でした」冬城は続けた。「去年の騒動で、江島くんが犯人扱いをされたと聞きましたが、それに関しては?」  「そう来たか‥‥‥」江島は今日で何度目かわからないため息を吐いた。「認めます。あの騒動の犯人は、このぼくです。しかし、真壁先生の罠にまんまとはまってしまうほど、ぼくも馬鹿じゃない」  嘘だ。自分は惨めに真壁の掌で操られていた。  「やはりそうでしたか。しかし、なぜ?」  「ああ、もう‥‥‥!」滅茶苦茶である。自分が何なのかすら、理解できなくなってくる。「自分がいけないことをやっているというスリルが、楽しくてたまらなかったからですよ! これがぼくなんです。もう分かったでしょう?」  お帰りください、と勢いで言ってしまいそうになるも、ここが電車内だと気づき、息を呑みこむ。  そして冬城を見た。  冬城はこれまでに見たことがないような、怯えたような表情で、江島を見下ろしていた。  「‥‥‥」  「あ、すみません。つい、カッとなってしまって」  「‥‥‥もうすぐ駅ですよ」  そう言う冬城の顔は、すでにいつもの呑気な表情に変わっていた。  ‥‥‥今の表情は、なんだったのだろう?  駅員のアナウンスが流れる。江島の家の最寄り駅 だ。    しかし、自宅の最寄り駅まで知っていたなんて、 冬城はよほど自分のことを調べたのだろう。  本当に、自分のことを知り尽くしているのか。  電車が止まり、ドアが開くとともに閉鎖空間からようやく解放される、と安堵した。  しかし、江島が立ち上がるのと同時に冬城が立ち上がったのを見て、彼はがくりと頭を垂らす。  「あの、いつまでついてくるつもりですか?」  「もう一つ、質問がありまして。一昨日の夜、七時四十五分から十時までの間、どこに?」  アリバイ確認か。  江島はここで正直に学校に来たと言うべきか、それとも家にいたと嘘を吐くべきか、迷った。  先程とは裏腹に、冬城が江島を疑い始めているのは確かだ。つまりここで正直に学校に来た、と言ってしまえば疑いが増すのも確か。しかし—— 「そのときなら、家で、勉強していました」 「あなたのご家族は?」  「母子家庭で、母はその日は夜遅くまで働いていたので」  そのとき、聞き覚えのあるバタバタと何かが羽ばたく音がした。嫌な予感がして、慌てて振り返ると、街灯の周りで蛾が飛び交っていた。  「うわあっ!」  思わず声を上げてしまう。  「どうかしましたか?」  「すみません、虫が大の苦手で‥‥‥」  「そうですか。それにしても、今日は風がおとなしいようですねぇ」  「え?」  「いえ。では、おやすみなさい」  「そちらも」  江島は蛾のいるエリアを早足で通り過ぎ、もう一度後ろを振り返る。  冬城のスラっとした影がなおも立っていた。その影は動いていない。こちらをじっと眺めているようにも見えた。  江島はぞっとして、駅の階段を足早に駆け下りた。
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