危機

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 それ以降、江島は授業を受けるにも上の空で、まったく教師の話に集中できなかった。  ただ江島の頭には、冬城の奇妙なあの笑顔が去来しているのだった。  そして気づいたときには最後の授業は終わり、いつの間にか教室には自分だけしかいなくなっていた。  事件以降、2―Eの教室は移され、窓から見える景色がいつもと違うのが、落ち着かなかった。 「江島。まだ教室にいたのか」 机に肘をついてぼんやりとしていると、ドアが開き、副担任の速水がしかめっ面で現れる。 「ああ、すみません」 「いや。実は、君と話したいという人が来ていてな。刑事だそうだ」 「刑事」  江島は速水の吐いた言葉を繰り返した。ぼーっとしすぎていて、一度聞いただけではその言葉の意味が理解できなかったからだ。  また、あの男か。  江島はいい加減しつこすぎる冬城に、呆れる。  「廊下で待っているらしい。じゃあ、俺はここで」  ドアが閉まり、窓から速水が去っていくのが見えた。  意味もなく窓を眺めていると、今度は長身の影が映る。  ドアがゆっくりと開かれた。姿を現したのは言わずもがな、冬城拾壱郎である。   「‥‥‥」  「もはや、何も言うことがなくなりましたか」  「捜査は順調?」  「捜査?」冬城はしばらくして納得したように頷く。「真壁さんの事件なら、まあ順調な方ですね」  「そういえば、現場に指紋などはあったんですかね?」  江島は、ふと気になって訊いてみた。すると冬城はふっと微笑む。  「ええ、とてもありました。何せ教室ですからねぇ、生徒たちの指紋があちらこちらに」  「‥‥‥ああ」  何も手袋をはめる必要はなかったらしい。確かに、冬城の言う通り、現場は教室として使われていたのだから。  「あと——」  「そうそう、思い出したことがあったんです」江島はあらかじめ考えておいた台詞を口にした。「昨晩話したアリバイのことなんですけど」  「はい」  「七時四十五分から十時の間でしたっけ。昨日、家に帰って思い出してみたんですけど、その時間帯、やっぱりぼくは学校に行っていました」  「どこの学校ですか?」  「それはもちろん」  そう言って、江島は床に人差し指を向ける。本当は知っている癖に、何を訊いてくるのだ。怒りを抑えながら、冬城の反応を窺う。  「やはり、そうでしたか。というのも、実は昨日、聞き込みを行いましてね。すると、八時十五分ごろに、プレハブを出て行く江島くんを目撃している人がいたんですよ。ちなみに、何をしていたんですか?」  「帰る途中で忘れ物に気づいて、戻ったんです」  「つまり、2―Eの教室に入ったという事ですね」  「は、はい」  そういうことになるな。と、江島はそこで気づいた。  「どうでしたか。教室に何か異変はありませんでした?」  「思い出す限りでは」  「限りでは?」  「誰もいなかったし、なかったと思います」  「ほうほう。それで、あなたが教室を訪れた時間は、八時十五分ごろで、間違いない?」  「まあ、そのくらいだと思います」  冬城は内ポケットからメモ帳のようなものを取り出し、ペンで何かを書く仕草を見せた。  しかし、ペンの動きからして、それはあくまでメモを取っているフリだと、江島は気づいた。  こいつ、何のつもりだ。  「ありがとうございます。では」  「‥‥‥」  江島は長身の影がドアに向かって行くのを、横目で見ていた。  ドアの持ち手に、手をかけようとしたが、そこで影は固まった。  そこで、手を叩く音が一度、響いた。  「忘れてた! あと、もう一つよろしいですか?」  「何なりと」  質問など、江島にはもはやどうでも良くなっていた。  「忘れ物を取りに行く際には、何か、灯りのようなものを持っていました?」  「灯り?」  「あの夜は、だいぶ暗かったでしょう」  「ああ、ええ。スマホの照明を使いました」  「なるほど。どうもありがとう」  そう言う冬城は、どこか核心に迫ったような、そんな勝ち誇った表情をしていた。 冬城が教室を出て行ってからも、江島はしばらく席を立たなかった。  「‥‥‥なんのつもりだ」  江島は恨みのこもった声で、独り呟いた。
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