春疾風

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春疾風

3a227d49-c09f-4b7a-8068-7e6e3b828d22  風の強い夜だった。  四月の半ば。校舎の東側に生えそろった木々は身を揺らし、うめき声を上げている。四月に入り、気温はだいぶ暖かくなってきた。しかし急激な気圧変化によってもたらされる春疾風が厄介である。  風が吹き荒れる中、江島証(えじまあかし)は校舎の並木道を進んだ。 そしてプレハブを右手に確認すると、彼は木々をすり抜け、プレハブに入る渡り廊下へと移った。その際、履いていた運動靴から上履きに履き替える。  辺りは真っ暗で、ほとんど何も見渡せない。それをあらかじめ予想していた江島は、ズボンのポケットに入れておいた灯りを点けた。正面だけがパっと明るくなり、砂ぼこりが舞っているのが分かった。  江島は強風で砂ぼこりが目に入らないように顔を伏せて進む。プレハブに近づくにつれ、彼の鼓動は高まった。 「大丈夫だ‥‥‥」 江島はそっと自分に言い聞かせた。  ちょうど、渡り廊下が左に折れた場所で江島が方向転換しようとしたときである。 突如、何かが羽ばたくような音が聞こえ、振り返ると、小さな影がこちらに飛んできた。 「うわっ‥‥‥」 蛾だ。江島の持っていた灯りに誘われたらしい。江島は焦って蛾を払い、灯りを消した。虫はもともと苦手だが、中でも蛾はトップレベルだ。壁に止まっていてもいつ飛ぶかわからないし、何よりその見た目が気味悪かった。  彼は念のため着ていた制服をもう一度払ってから、目の前に見えるプレハブの入り口へ歩を進めた。  プレハブに入ると目の前に階段があったが、そのまま左に折れ、まっすぐ進んだ。  しばらく進むと右手に教室が現れる。電気は消えていた。江島はもう一度中に誰もいないことを確認すると、教室に入った。入る瞬間に、『2―E 真壁(まかべ)級』というクラス札が目に入った。  江島は教卓にたどり着くと、改めて深呼吸をし、持ってきた手袋を着用した。そんなことはないだろうが、指紋を調べられたときのためだ。  大丈夫だ。誰も見ていないのだから。  必死にそう言い聞かせ、教卓の中に手を突っ込ませて、弄った。一枚目を出すと、それは何かのメモだった。そのままそれを仕舞いなおし、新たにもう一枚引っ張り出す。  「これだ」  お目当てのものが見つかり、江島はにやりと笑顔を見せた。 それはこの学校の重要なファイルのパスワードであった。これさえ手に入れば、あとは家のパソコンでログインするだけでいい。 それでサイトをハッキングすることが可能だ。江島はその紙をそのまま盗んでしまうのは先生に気づかれてしまうため、持参したメモ帳とペンを取り出し、ファイルのログインパスワードをメモした。あとは戻して、帰るだけだ。  「やっぱり、来ると思ったわ」  そのとき、不意に背後から声が聞こえ、全身が粟立った。恐る恐る振り返り、そこで江島の担任である真壁京子(きょうこ)の姿を捉えた。 いつものように緑のデニムシャツにベージュのロングスカートという出で立ちだ。背は小柄だが、端正な顔立ち。典型的な和風美人だ。  「‥‥‥」  そのときの江島は、自分でも驚くほど落ち着いていた。もしかしたらこの時点で、江島の中では真壁を始末するという考えが浮かんでいたのかもしれない。  「そのメモ、偽物よ」  「え?」  平然とした態度で真壁に言われ、江島は思わずもう一度パスワードの書かれた紙を引っ張り出した。  すなわち、自分は罠にまんまとはまってしまった訳だ。  「去年にあの騒動があって、急遽パスワードを変更したんだけど、もしかしたら何者かが情報を盗みに来るかもしれないと思ったのよ。頭いいでしょ?」  真壁の偉そうな態度にまたしても鳥肌が立ち、腹の奥が疼く。江島は彼女のこういう態度が、前々から嫌いだった。 殺意が湧いた。  「‥‥‥先生は、何しに来たんですか?」  沈黙の中、江島はかろうじてそう訊いた。真壁はいつもの自慢気な笑みを浮かべ、  「先生はいろいろとやることがあるのよ。それで、あなたはどんな言い訳をするつもりかしら?」  挑戦的な視線を江島に送る。真壁はファイルを抱えていた。おそらく出席簿か何かだろう。しかし、真壁はすでに江島がパスワードを盗もうとしていたことは確信しているらしい。困ったものだ。 殺意が湧いた。 「‥‥‥」  「何?」真壁はまた笑う。「もしかして、しらばっくれるつもり?」  そう言って、彼女は江島の俯いた顔を覗き込む。明らかに江島を見下している表情だった。殺意が湧いた。  「いえ、あそこに‥‥‥」江島は、教卓のさらに奥を指さした。「ゴキブリが、隠れましたよ」  江島が指さした方向には、今はまだ何もしまわれていない、小さな棚があった。  ちょうど江島くらいなら一人で持ち上げられる程度の、手ごろなものだ。  「え、どういうこと? もしかして、話題を変えようとしてる?」いきなり真壁は真面目な顔になった。「あたし、これでも教師なの。馬鹿にされると、困るんだけど」  馬鹿にしているのは、そっちの方だ。 殺意が湧いた。  しかし一応確認するつもりなのか、真壁は出席簿を抱えたまま江島を通り過ぎ、棚にかがみこむ。  「その棚の、奥です」  江島も棚に向かった。そして、棚の両端に手をかける。  「本当に?」    真壁は疑いの視線を江島に向けた。しかし、かがんだ態勢をしたままだ。  「害虫ですから」あなたが。「殺しましょう」あなたを。  江島はそのまま棚を持ち上げた。それと同時に、真壁は奥を覗きこむ。 江島は真壁がそうやっている間に、棚の角を彼女の頭へ向ける。  「どこー? やっぱり嘘じゃ——」  ゴン。  鈍い音が教室に響いた。  目の前には、うつぶせに倒れた華奢な女性の姿。そして、棚を抱える自分。  女は動かなかった。江島は数秒この態勢のまま呼吸を行い、そして棚をゆっくりと床に降ろす。  天板の手前の角が、赤く染まっていた。江島は動かない真壁に目を向けた。後頭部が赤く染まっている。屈みこみ、首筋に手を当てる。  死んでいた。  江島は、ふっと笑った。それには自分がくだらない理由で人を殺してしまったことに対する後悔と、真壁に対する嘲りが含まれていた。  江島に殺人の余韻に浸る余裕はなかった。  彼は立ちあがると、棚を引きずって元にあった場所に戻した。さらに真壁を俯せから仰向けに変えると、棚に寄り掛からせた。彼女の死に顔は驚愕に満ちていた。    それを見て、江島はもう一度笑った。    教卓に立ち、あらためてその惨状を眺める。棚に頭を寄り掛からせて倒れている死体。どこから見ても、これは事故死に見えることだろう。  凶器に殺しにくそうな棚に選んだのも、これを目論んでのことだった。  しかし、これでは何かが足りないな。事故死と言うのは分かっても、なぜ棚に頭を殴打したのか、という原因がない。  江島は冷静に考え、やがて黒板のレールに置いてあった黒板消しを床に落としておいた。  こうすれば〝黒板を消していた際に足を滑らし、棚に頭を殴打して死亡〟という状況が出来上がる。  まさか今日、人を殺してしまうなんて予想もしていなかったが、窃盗も殺人も変わらないだろう。  そこで江島は、ポケットに入れていたメモ帳を取り出す。すぐさま紙は赤く滲んだ。彼の手が(正確には手袋が)血に染まっていたのである。  しかし、このパスワードも偽物と来たか。だが、殺人を起こしてしまった今、本物のパスワードが欲しいなどとわがままを言っている余裕はない。  江島は右ポケットから灯りを取り出し、出口に向かう。そこでもう一度室内を見渡した。自分がいたという証拠は、ない。指紋も、教室に入って以降、手袋を着用していたため大丈夫だろう。 「‥‥‥あ」 そこで江島は、あることに気づいた。      * 長井葵(ながいあおい)は、退屈そうに窓の外を眺めた。しかし見えるのは春の嵐に吹かれる木々だけで、見ていても暇つぶしにはならない。  時計の秒針が打つ音さえ聞こえるほどの静寂。  B棟の三階にある2―Aの教室には、長井だけしかいない。独り教室に残りゼミの課題に取り組んでいると、いつの間にか辺りは真っ暗になってしまった。  時計に目を向けると、時刻は八時十五分。十分ほど前には、けたたましい剣道部たちの声も聞こえてこなくなり、ついにはこの学校に自分しかいないのではないか、というほどの静けさが訪れた。  まあ実際、そうなのかもしれないが。    長井は机に置かれたドリルを閉じ、深いため息を吐いた。    家に帰ってから課題に取り組むというのもできたのだが、家に帰ってもどうせ一人なので、帰宅するよりは学校に残った方がマシだ、ということでこうして教室に残っているのだが、いつの間にか日が暮れ、早めに帰宅しておいた方が良かったのかもしれない、と後悔が今更のように襲ってくる。  しかし家に帰りたくない、というのもまた本音であった。自覚はなかったが、これがいわゆる思春期なのだろうか。  そんなときだった。ぼんやりと外を眺めていると、並木道の奥にあるプレハブの渡り廊下に影が通った。彼女は思わずそちらに目を凝らす。自慢ではないが、視力はいい方である。  「江島‥‥‥?」   どうやら、人影の正体はあの江島証のようだ。向かっている方向からして、これから帰るらしい。江島は去年のクラスで同じだったのでたまたま知っていたのだが、例の騒動で犯人扱いされていたことを思い出した。    例の騒動とは、去年の夏ごろに学校の重要なファイルを何者かにハッキングされ、データが改ざんされたという出来事のことだ。  サイトのログインパスワードを盗めたのはこの学校の生徒しかありえないということで、先生たちの疑いの目は全校生徒に向けられたのだが、そんな中その生徒の間でも密かに犯人探しが行われていたのである。  そして、最終的に疑われたのが彼、江島だった。  江島は自らパソコンが趣味だと語っており、さらに普段から同級生の椅子のネジを外したり、人を怪我させても謝らないなどと奇行が目立っていた。  あのときの江島に向けられた同級生たちの目線は差別的で、無慈悲なものだった。そして、その中の一人に自分もいた。  それから長井たちは江島のことを透明人間扱いしはじめた。いわゆる村八分というやつだ。しかしそれでも江島は動じる様子もなく、むしろどこかこの状況を楽しんでいるようでもあった。  長井にはそれをずっと奇妙に思っていた。  それ以降、あの騒動がどのような終焉を迎えたのか、はたまたまだ終焉していないかは知る由もない。  それから数分、何となく外を眺め続けているとまたしてもプレハブの渡り廊下から出て行く影があった。  今度は、2―D組の宮崎夏帆(みやざきかほ)だ。彼女とは部活が一緒なので、たまたま覚えていた。  二人そろって、こんな時間に何をしていたのだろう。自分が言えたことでは到底ないのだが、長井は顔をしかめて、そんなことを思った。                    
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