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一、旧図書室と人気者の君
夏休み一週間前。
うちの母が買ってきた問題集二冊を抱えた放課後。
私は影が伸びた長い廊下を歩きながら、図書室へ向かっていた。
正確には旧図書室。来年から図書の本もバーコード管理するらしく、去年から購入している本はバーコード化され、旧図書室の本は業者に依頼して夏休み中に終わるらしい。
なので七月中に全ての蔵書の返却が行われる予定だ。
本棚だけが並んだ埃臭い旧図書室は、夏休み中は生徒会が体育祭の準備室に使うと、信海くんが言っていた。
そこに呼び出された私は、少しおどおどしながら挙動不審で廊下を歩いていたと思う。
誰にもすれ違わない学校の廊下は、とても不気味だった。
中に入ると、カーテンが開いていて、大きく風に揺れている。窓が開いているようで、外で部活しているサッカー部の声が聞こえてきた。
太陽の光で、空中の埃が浮かんでいるのが見える中、空の本棚の向こうのテーブルと入り口入ってすぐのカウンターに、今週返却された蔵書が数十冊置かれている。
それとーー。
「あんた、誰?」
冷たく乾いた声に、図書室に入る前に立ち止まった。
窓辺の机の上に、大きな部活鞄が置かれ松葉杖が立てかけられている。
「あっ」
一年四組の橘大地(たちばな だいち)君だ。 驚いて問題集を落としてしまった。
風によってページがめくれているが、身動きできない。
信海くんと対照的に、猫のようにつり上がった瞳。サッカー部だからか少し日に焼けて、髪も茶色く傷んで見える。
整った顔立ちだって先輩も一年生たちも騒いでいたけど、こんな風にまじまじと観察するように見たことはなかった。
身長が私より頭一個分高くて、違うクラスなのにどこにいても目立つ存在感がある。
同じ四組の友達がいつも授業中は眠っているって言っていた。
「あの、一組の相原夏空です。生徒会長の信海くんにここに呼び出されたんだけど」
「ああ、あんたも」
彼の方は納得したようで、ドカッと椅子に座ると窓の方を向いた。
確か七月に入った頃には松葉杖だったような気がする。ただ小学校も違うから、彼とは全く知り合いの友達も居ないので話すタイミングは今までなかった。
それにサッカー部の男子ってクラスの中でも一番声が大きくて騒がしくて、どちらかといえば苦手だ。
私と対極的な人だと思っている。
彼もいつも男子に囲まれているし、一年生なのにサッカー部のレギュラーに入っているって聞いたけど。
あまりに情報が少なすぎるし、関わりがない。
ここに入っていて良いのか、居心地が悪い。入り口に立ってもじもじしてしまった。
信海くんはいつ来るのかな。早く来て欲しい。
「生徒会長も、ただの真面目くんかと思ったら、すげえよな」
にやりと笑う橘くんが怖くて、小さく身体が揺れた。
どんな意味だったのかな。
ただ少し悪意を感じて図書室に入るのを戸惑った。
「ああ。俺が邪魔か」
急に冷たい声になったと思うと、テーブルの上に置いてあった鞄を首に提げて片足で立ち上がった。そして松葉杖を腋に挟んで器用に歩いて行く。
「……通れないんだけど」
「あっごめんなさい」
避けるために一歩図書室に入る。
大地くんはそのまま無言で出て行ってしまった。
こ、怖かったあ。
自分がいると私が入れないって分かって不機嫌になって出て行ったって事は、怒らせてしまったかな。
うわあ。どうしよう。
発言力がありそうな人を怒らせてしまった。
「お、夏空。突っ立ってなにしてんだ」
「信海くん」
大地くんが出て行った反対側のドアから信海くんが旧図書室に入ってくる。
そして中を見て怪訝そうに眉をしかめた。
「もう一人、呼び出してたんだけど来てなかった?」
「うん。来てたんだけどごめん。私が驚いたから、出て行ってしまった」
そうか。彼も信海くんに呼び出されてたんだ。
「困ったな。明日から二人はここで作業して貰うからさ。仲良くしてよ」
困った、と言いながらも何故か嬉しそうに苦笑している。
明日から私と彼はここ?
「なんで?」
「大地は、足の骨折で体育が二ヶ月見学だったから、レポート提出があるんだけど、全く出してないから。ここなら自由に書けるし。サッカー部の練習が見えるだろ」
そっか。足が怪我しているから部活に参加できないんだ。
そういえばさっき、窓越しにサッカー部の練習を見ていたのかも知れない。
「でもなんで私も?」
「家で勉強できないんだろ。雅兄(まさにぃ)も受験でピリピリしてるって言ってたし」
「えええ。なんで分かったの」
一階は妹二人が五月蝿いし、上では大学受験の兄がピリピリしている。一ヶ月ぐらい、会話らしい会話をしていない。
「わかるよ。雅兄は夏休みから毎日塾だろうから、七月中はここを使って良いよ。夏空も七月中に問題集を終わらせないと、携帯が使えないの困るでしょ」
「ありがとう! わーん。持つべき物は、素敵な幼馴染みだね」
海信くんの回りをぴょんぴょん跳ねると、信海くんは穏やかに微笑んでいた。
「もちろん、お願いはあるよ。大地がレポートを書き終わるように見張っててもらいたいってお願いが」
なるほど、なるほど。
それぐらい、スマホを解約されなかったことと比べれば朝飯……。
大地くんのレポートの監視?
「む、無理! 怖い。怖かった! 大地くん、怖いってば」
「あはは。怖くないよ。大地は目つきが悪いだけで基本的に良い奴だし」
「でもお」
「レポート三枚だから、監視してればすぐに書き終わるんだよ。大丈夫。でもまあ夏休みまでに書き終わらなかったら大地は赤点だからさ、頼むよ」
赤点。
運動神経良さそうな彼が体育赤点は確かに可哀想。
でも今まで一言も喋ったことないし。
関わりがない人とずっとこの旧図書館で一緒って気まずい。
他の人にばれたら、からかわれたりしないかな。私なんかとからかわれたら更に大地くん、怒りそうだけど。
「これはさ。夏空にしかできないことなんだ」
「ええ……でも」
「俺でも、大地の友達でも、先生でも、親でも駄目。これは夏空にしか頼めないことなんだよ」
なぜ私なんだろう。
信海くんは、それだけは私に教えてくれなかった。
信海くんは、生徒会の引継ぎと、体育祭の準備を夏休み中は手伝うらしく、そのまま生徒会室へ戻っていった。
私は、勉強して良いよって旧図書室に取り残された。
信海くんが冷房は好きに入れていいよって壁に差してあったリモコンを渡してくれた。
古い冷房からは乱暴で大きな稼働音がする。窓を閉めた今、蝉の声よりも私の耳を支配していた。
埃臭く生暖かい風を感じながら、問題集を広げてみた。
「……あれ」
先ほどまで大地くんが座っていた席の四人掛けの机の引き出し。
その引き出しの中に、ボロボロになった大学ノートが一冊入っていた。
最初の二枚は破れた痕がある。
そして何も書かれていないページをめくると、急いで書いたような走り書きが一言。
『君と話がしたい』
誰の文字だろう。かくかくした字。少なくても女の子ではないな。
ただ、私はその文字の何故か見覚えがあった。vc
『夏になった日の、朝の匂いが好きだった』
また急いで書いたような走り書き。まるで誰かに見られないように急いで書いた文字だった。
そして次のページには、柔らかい丸い字。
『私は、朝起きて貴方の文字を読み返すのが好き』
こちらは落ち着いて書いたのか次のページに微かに字の痕が着いている。下敷きを使っていないのが字の圧力が強いのかな。
どちらにせよ、一ページずつ一言しか書いておらず、あとは真っ白で、大胆な使い方というか、勿体ないというか。
『ありがとう。私のお願いを叶えようとしてくれて』
『お礼はこのノートを書き終わるまで、言わないで』
『誰かお願い。私の代わりに彼のために、書いてね』
そこでノートは終わっていて、また一ページ、ノートが破れていた。
大学ノートは三十枚綴りの薄いノート。三十枚のうち三枚は破られ、六枚が文字が書かれていた。
残り十一枚は真っ白で、何も書かれていなかった。
変なノート。
誰かのノートだとしたら古いのかな。
旧図書室だし、蔵書を業者に渡すときに発見されて、此処に無造作に置かれたような感じ。
表紙も裏表紙も名前は書いてないし、隅はすり切れてボロボロ。
不思議でヘンテコなノートだった。
「おーい。進んでいるのか?」
信海くんが呆れた声を上げながら、十冊ほどの本を持ってきてカウンターに乗せた。
そしてファイルを開けて、本の表紙の番号をチェックし出した。
「信海くんは受験生で生徒会長で、大忙しでしょ。蔵書チェックは私がしといてあげるよ」
「……赤点だった夏空には、黙って問題集を解いてて欲しいな」
辛辣。
確かにいつも学年一番の信海くんには、私に任せられないかもしれないけどさあ。
「うーん。この十冊合わせても、まだ三十冊は返ってきてないな」
「三十冊も」
「紛失リストはもっとあるよ。あと修理に出したリストや壊しちゃったり汚して読めなくなった破損リスト。紛失リストはここの図書室の歴史だね。創立から何十冊も紛失されてる」
ふうん。
そんなファイルでリスト化していたんだ。
それも夏休み後は、パソコンで管理できるんだよね。不思議不思議。
「そうだ。こんなノート見つけたんだけど、どうすればいい?」
「ん? ノート?」
ファイルと返却されたノートを交互に見ながら、信海くんはこちらに視線を向けることなく答える。
「名前も無いノート」
「ああ。誰かが取りに来るんじゃない? そのままにしといていいよ」
誰かが取りに来る、かあ。
こんな旧図書室に誰が入ってくるのかな。
明日からは私と大地くんと、信海くんしかはいってこないのに。
「古いからずっとここに置いてあるんじゃないかな」
「じゃあ尚更。そこに置いてあった方がいいのかもね。よし。チェック終わり。僕、今から会議に参加するから。夏空は部活の終わる十九時まではいていいからね」
ファイルを勢いよく閉めると、慌ただしく廊下を走っていった。
有能な人は忙しそうで大変だ。
じゃあこの大学ノートはこのままなのかな。
交互に書かれたメッセージは、なんだかとても心が引き寄せられた。
このまま、この旧図書室と共に誰にも発見されずに眠ってしまいそうで、それはそれで勿体ない気がした。
上手く言葉に出来ないけれど。
***
十九時に家に帰ると、玄関からでも分かる良い匂いに、吸い寄せられるようにキッチンへ向かった。
「あら、おかえり。先にお風呂入っちゃって」
エビフライにクリームコロッケにポテトサラダ、そしてパエリア?
栄養やバランス無視のメニューに首を傾げる。
「全部、お兄ちゃんの好きなおかずでしょ」
母の機嫌がいいし、言葉の端々が踊っている。
エビフライを一つつまみ食いしたら、怒られたけど諭すように優しい口調。
なるほど。受験生である兄の成績がとても良かったんだ。
それとは正反対で成績の悪かった私はスマホ解約の危機だった。本当に天と地の差がある。
エビフライの尻尾を三角コーナーに捨てながら、二学期はもう少し成績を上げようと決めた。
兄は、いつもならご飯おかわりするぐらい好きなおかずにも関わらず、後で食べるからと食卓に現れなかった。
「そんなに雅兄の成績良かったの?」
妹二人がエビフライに飛びつきながら、不思議そうに尋ねると母はやはり上機嫌で頷いた。
「そうね。県で百番以内って言っておこうかしら」
「百番!」
学年でさえ百番からはみ出した私には、県の成績なんて分からない。
「お兄ちゃん、国立医大に受験するらしいから応援してあげて」
「医大っ」
お兄ちゃんは大学は遊ぶって宣言してたのに。ラーメン研究部ってサークルを作って毎晩ラーメンを食べるって宣言していたのに。
体力があまりないので、喘息で偶に入院してしまう兄は学校を休みがちだったので、少しずつ体力がついた今、遊びたいと言ってた。
医大に受験って、今までお医者さんになりたいって行ったことなかったのに。
大学でバイトして海外を旅して回って、石油を掘ってお金持ちになるって笑い話もよくしていたのにね。兄の大学のイメージは遊びつくすって感じで、難しい医大とはかけ離れている。
医大かあ。
お兄ちゃんが働く病院に行ったら、安く受診できるのかな。
なんて、呑気な事を考える私は、未だに問題集は一ページで止まったままだった。
明日はもう少し問題を解いていかなければいけない。
熱くて寝苦しい夜だったけれど、お父さんからパソコンを借りて、メールを確認した。
うー。
やっぱスマホみたいにすぐに確認できないのは不便だなあ。皆が会話で盛り上がっているグループメッセージを確認しつつ寂しくなった。
昔から仲良しだし、私の成績が悪かったことも知っててくれている。ただ一緒に盛り上がる時間を共有できないのが寂しいんだよね。
問題集頑張ろう。
問題集が終わったら夏休みの宿題も沢山出ている。
問題集のせいで宿題が苦しくなるために頑張ろう。
その晩、私の夢に問題集が現れて、漬物石のように私にのしかかった。
***
蝉の声が五月蝿くて、プールの酸素の匂いが鼻を掠める。
教室の冷房が効きすぎているので、セーラー服ではなく中間服から夏服に衣替えが出来ずにいる。
そんな中途半端な夏の中、家に持って帰るプリントが増えたとか、体育祭の各色分けやモザイク画の募集などで、夏を見つけていた。
「夏空、今日も放課後は生徒会の手伝いなの?」
「赤点って大変だよね」
「赤点って五つ以上は補習って話だけど、夏空は大丈夫なの?」
放課後、人が減った教室は、冷房の効きが更に良くて寒かった。
幼稚園からの友達である美優とサツキと奈々が、私の問題集をペラペラ見ながら本当に心配してくれていた。
「赤点は三つ。でも全教科平均点以下だった」
言いながら悲しくなって、ため息が出る。
奈々が眼鏡を指先で押しながら、不敵に笑う。
「大丈夫。私は赤点五つの補習決定者で、更に水泳レポートだから」
「奈々……」
この中の見た目では一番頭が良さそうな奈々は、今は青春を謳歌したいと勉強を放棄中の大物だ。赤点五つって私より悪いのに、何故か自慢げだし。
「あれ、でも水泳のレポートって?」
「水泳って七月に三回しかなかったでしょ。その三回とも生理や体調不良で休んだら、点数付けられないからってレポート一枚提出だよ」
「そうなんだ」
「二回以上休んだらレポートだから、結構レポートの人多いよ」
へえ。
でも水泳三回を半分以上見学したらレポート一枚なんだ。
だったら大地くんの体育のレポート三枚枚って結構甘くしてもらったんじゃないのかな。
少なくても二ヶ月以上は体育を休んでいるんだからレポート数枚もっとあってもいいと思うんだけど。
「それで、どうして夏空は浮かない顔してんの」
「そりゃあスマホ没収されたら浮かないよね」
「えっとね」
ちょっと怖い大地くんと旧図書室でこれから夏休みまで一緒の空間にいなきゃいけないのは、言っても大丈夫なのかな。
幼稚園からの親友なので、言いふらす人たちではないけど、変な噂が出たら怖いしな。
「わー、見て見て。サッカー部がバス乗ってる」
サツキが窓から身を乗り出して、校門前のバスを見ている。
サッカー部はどこかと練習試合なのだろうか。乗り込んで行っている。他の窓や校門前にもサッカー部を見ている女の子達がいる。
「やっぱ今年はサッカー部がダントツでイケメンだよね」
「分かる! 部長の佐々木先輩と二年の高田先輩と、あといっちばんは四組の大地くんだよね」
「あー。大地くんは絶対にモテるよね。小学校の時もサッカークラブで部長してたけどファン多かったよ」
うわあ。私は内心怖いと思っていたけど、友達三人には、やはり大地くんは格好良いって思うんだ。
「怪我もさ、練習試合で相手に蹴られて、なんだっけな。膝のお皿が割れたんだって。六月の終わりに手術してたよね」
「一週間ぐらい見かけなかったよね」
そうだったんだ。
皆、違うクラスなのによく知ってるなあ。
「うち、お母さんが病院で働いてるけど、生徒会長がお見舞いに来てたってよ」
「え、信海くんが?」
美優が働いているのは、ここら辺で一番大きな神野宮総合病院だ。お兄ちゃんが喘息で入院していたときもそこだった。
しかも兄は六月に一週間ほど入院してる。信海くんは大地くんではなく、お兄ちゃんのお見舞いだったんじゃないかと思う。
そういえば、どうして大地くんと信海くんは知り合いだったんだろう。お見舞いするほど仲が良かったのかな。
それとも一年生でサッカー部のレギュラーだから学校を代表して期待の応援?
よく分からないけど、お見舞いにくるぐらい接点があったんだ。
「大地くん、二学期には復帰出来ると良いね」
「うん。三人抜きしてる大地くん、めちゃくちゃ格好良かった。また見たいな」
私みたいに彼が怖いという意見はなかった。
ということは、私が変な色眼鏡で見てしまっていただけなんだよね。
「じゃあ私部活行くね」
「私も」
サツキと美優は吹奏楽部、奈々は補習へ。
私は旧図書室へ行くしかない。
「夏空、タイが解けているよ」
奈々が階段を下りながら、私のセーラー服の中心の三角タイを指さした。
「え、えー」
急いで結んだけれど、斜めになってしまった。
サツキがふわっと可愛く上手く結んでくれるので、やってもらったら良かったけど、もう別れてしまったし。
結びながら歩いていると、二年生の二人組とすれ違った。
二人はふわりと可愛く結べている。
更に焦って何度も何度も結び直していると、すれ違いざまに笑われてしまった。
やっぱタイぐらい結べないのはおかしいよね。 恥ずかしいよね。
「今の子」
ほら、やっぱり。
「ウケる。彼氏募集中じゃん」
「あんな地味なのに?」
「襟の後ろからタイが見えてたら彼氏募集中の印でしょ。必死で出してて可哀想」
え。
えええ。
怖くて振り返れなかった。
「一年のくせに生意気」
ーー生意気。
笑い声が消え去ってから、背中に手を伸ばすと、襟からタイが見えちゃっていた。
三角に折ったあと少し丸めて襟の中に入れ込むのに、丸めてなかったから三角の角の部分が見えてしまったんだ。
どこかで落ち着いてゆっくりすればよかった。クスクスとあざ笑う声が怖い。
彼氏募集中なんかじゃないのに。
ーー生意気。
そう言われてしまい、恐怖と恥ずかしさから涙がこみ上げてきた。
知らなかっただけなの。
目立とうと思ったわけじゃないのに。
「おい」
涙を拭くことも出来ずに俯いていたら、廊下をカツンカツンと叩く音が聞こえてきた。
「具合悪いのか?」
顔を覗き込まれ、ハッとする。
大地くんだった。
大地くんは私の顔を見ると、目を大きく見開いた。
切れ長の少しつり上がった瞳は、間近で見ると迫力がある。
昨日は怖かったけど、今日はその瞳が揺れていた。
「悪い。この足だから保健室まで運んでやれない。どうしたんだ?」
「いや、違うの。大丈夫」
ごしごしと目を擦ると、大地くんはまだ慌てている。
「本当か? 泣いてるじゃん」
「いや、その、知らなくて。恥ずかしいし怖かっただけで」
言いながらまた涙が零れてくる。
こんな姿見せても、困らせるだけなのに。
「歩けるなら、旧図書室行こう。行けるか?」
肩にかけていたスクールバッグをするりと奪うと、自分の首に提げた。
自分は松葉杖なのに、私の荷物まで持って歩いて行こうとしている。
「わ、私が持つよ、大地くんの分まで」
バッグを返して貰おうとしたけど、凄いスピードで歩いて行ってしまった。
松葉杖を自分の足のように動かしていて、凄い。
追いつこうと私も必死で走った。
大地くん。
怖いと思っていたけど、私を覗き込む顔は本当に心配してくれていたと思う。
誤解していた彼の背中を、私は今、必死で追いつこうと走っていた。
***
「うっわ。この部屋だけむわっとするな」
「大地くん、お願いだから座っててよ」
旧図書室に入ってすぐ、大地くんはテーブルに松葉杖を置くと、片足で跳ねながら窓を開けた。
それでも骨折しているならば、安静にしていてほしい。
涙も引っ込んで、慌てて止めると、くしゃっと笑った。
「良かった。もう泣いてないじゃん」
「う。ごめんね。心配してくれてありがとう」
ははっと笑ったつもりが、まだ怖くて涙がこみ上げてきて冷房をつけるふりして顔を背けた。
「びっくりした。あんたって泣くんだな」
「な、泣きます。泣くよ。だって」
中学に入学して、勉強に部活に先輩との上下関係にひいひいしてた。
だから、入学する前に軽く噂を聞いていた『透明の傘を持ってきたら生意気だから折られる』とか『スカートが短すぎると体育館の裏に呼び出される』なんて関係ないって思っていた。
「大地くんって、制服の襟からタイが見えていたら、彼氏募集中って知ってた?」
「は? 何それ。タイ?」
「これ。女の子は解いて、リボン結びにしなきゃいけないの。……でも私、後ろの襟から見えちゃってたみたいで。彼氏募集中って笑われちゃって、怖かったの」
話してみるとくだらないかも。
でもあの瞬間は本当に怖かった。びっくりしたしちょっとパニックになっていたのかもしれない。
「くっだらねえ」
冷たい大地君の声に、心臓がぎゅっと握りつぶされた。
そうだよね。確かにくだらない。
それぐらいであんな場所で泣いてておかしいよね。
「そんなルールなんてくだらねえだろ。誰が決めたんだよ。総理大臣かよ」
「大地くん」
「そうだろ。そんな法律がこの中学にあんの? あるならだっせえから廃止してもらおうぜ。優秀な生徒会長がいるんだからよ」
髪を掻き上げると、うっすらと汗が滲んでいる。
気だるげに私の悩みを一蹴してくれた大地くんに見とれてしまった。
なんか私の一歩二歩を先に行くイケメンだ。
皆にもてるのもうなずけるほど優しい人だ。
「大地くんがモテる理由が分かった気がする」
「俺がモテる? どこが」
「皆、きゃーきゃー言ってるよ。私も今、素敵だなって思った」
ははっと笑うと、大地くんはしかめっ面で私を見る。
うーん。その表情はどんな気持ちなんだろ。
その表情はちょっと怖いかも知れない。
「俺は中学は居る前から、同じサッカークラブの先輩に声かけられて部活参加してたからさ。ルールとか法律とか知らねえよ」
「ふふ。法律はね、ないよ。あとね。日本に総理大臣はいないんだよ」
「は? じゃあ、誰だよ」
「首相っていうんだよ。ふふふ。大地くんってば赤点三つの私より知らないの」
面白くてクスクス笑っていると、古い冷房が大きく稼働しだした。
空気を入れ換えているために開けていた窓を閉めようと立ち上がった。
背中に大地くんの視線を感じながら、カーテンはどうしようか、握って考えていた。
「だっせ。赤点三つかよ。俺は一つも無かったよ」
言い方は意地悪だけど、クスクスと大地くんも笑っていた。その笑い方は優しくて、私の心臓が本日二回目。今度は甘く締め付けられた。
彼はこんなに優しい人だったんだ。
今日はなんだか表情も柔らかくて、昨日とは別人みたい。
「べ、勉強しなきゃ」
「赤点だから?」
「ちが、スマホ没収されてるの。この二冊を終わらせなきゃ、返してもらえなくて」
鞄から問題集を取り出す。
大地くんは、その問題集を手に持ちながら自分は何も出そうとしない。
テーブルの隅に置いてあるスポーツバッグはサッカー部が皆持っている鞄。
肝心のスクールバッグはぺっしゃんこで、その部活のバッグの下敷きになって息も絶え絶えの姿だ。
「大地くんはレポートでしょ?」
「なんで知ってんだ」
私の問題集を覗き込んでいた目が、私を見る。
「私は信海くんから、大地くんの監視を仰せつかったので」
シャーペンをカチカチしながら得意げに言うと、彼は少し驚いた様子だった。
けれどその後、なんだか満足そうにため息を吐く。
「俺に監視じゃなくて、生徒会長を監視した方がいいんだけどなあ」
謎めいた言葉に首を傾げる。
前日から大地くんはやけに信海くんに意味ありげな発言をする。
成績優秀、文武両道、先生達からの信頼も厚く、ご両親は多忙中の多忙で忙しいけど両方お医者様。信海くんが受験する高校は、ここら辺では難関中の難関高校でもし受かれば、うちの中学から初の合格者だって騒がれていた。
どんなに騒がれても、持ち上げられても、褒められても、信海くんはプレッシャーにも感じず爽やかに笑って流す。
私の中で信海くんはもう七週ぐらい転生していて、子どもながらに上手に生きている大人のように見える。
「なんも知らないのはおかしくねえの? まあ、先生達が箝口令敷いてるって姉ちゃんも言ってたから、ごく僅かしか知らないのかな」
「ねえ、一体なんのこと?」
「えー。俺が言うの? 俺が言うのは違うじゃん。俺だって生徒会長には感謝してる部分あるしなあ」
「でも知りたい。誰にも言わない。内緒にする」
信海くんは幼馴染みだ。二歳年上だとしても、私が信海くんのことで知らないことがあるのってなんだか嫌だな。
お兄ちゃんは五歳上だから、私がついて回っても相手にしてくれなかったしいつも置いて行かれていた。同じ年齢の子達と遊ぶ方が楽しいのも分かるし、喘息持ちで身体が弱いから、遊べるときは羽が生えたように飛んでいってしまう。
だから置いて行かれた私の面倒を見ていてくれていたのは、いつも信海くんだった。
私には大切な幼馴染み。
知らないのは嫌だよ。
「でもさ、お前に知られたくないかも知れない。俺の口からは言えない」
大地くんは、急に真面目な顔になって問題集を閉じだ。
「もしかしたら、あんたの兄ちゃんの方が知ってるかも知れない」
お兄ちゃんが?
大地くんは私の顔を真っ直ぐに見た後、零すように言った。
「俺はあんたが誰か知りたかった。だから、昨日、誰か聞いただろ」
「うん。クラスも違うし私は大地くんと違って地味だから気付かないよね」
「まあ、あんたにとってはそんな距離なんだろうな。俺たちの距離はさ」
そのままスマホを取りだして、何か操作し出した。
「俺は、病院にお見舞いに来ているアンタを見て、絶対に名前が知りたかった。それでもっと話をしてみたかったんだ」
私と話をしてみたい?
私の名前を聞いた理由?
分からなくて、何から大地くんに聞いて良いか迷っていた。
部屋の中はようやく冷房が効いて涼しくなってきた感じ。
それなのに私だけすっきりしなくて。
未だに夏なのか分からなくて、必死で季節が変わった場所を探している時みたいな中途半端な状態。
部屋の中は冷房で涼しいけど、一歩外に出たら広がるむわっとした熱風みたいに、温度差が私たちにはある。
難しいけど、私と大地くんには距離があった。
「わー、大地、夏空!」
「信海くん?」
汗を垂らしながら、旧図書室に駆け込んできた信海くんは、急いで本棚の奥へ逃げてしまった。
「どうしたの?」
「もう生徒会の仕事も体育祭の仕事も、俺に聞いてばっかでさ。ちょっと休憩させて。俺を探しに来る人が居ても居ないって言ってよ」
本棚の奥で、ずるずると座り込んだ信海くんは、はっと思い出したようにカウンターの奥のソファを本棚の奥へ引きずる。
入り口のドアの方に背もたれを向けて、ソファの上に寝転ぶ。確かに、その位置ならば入り口からは見えない。わざわざ奥に入ってソファを上から覗き込まなければ気付かれない位置。おまけに冷房の真下だ。
「ねえ、本当に生徒会長の仕事が多忙なの?」
わざとらしく大地くんが聞くけど、ソファに寝転んだ信海くんは、「そうだよ」と素っ気なく言う。
「あんたの大事な幼馴染みが、先生達の箝口令の話を知りたいって言うんだけど、教えていい?」
「だ、大地くんっ」
慌てた私の言葉と、むくっと起き上がった信海くんはほぼ同時だったと思う。
信海くんは、伝う汗も拭うこともせずに私をまっすぐ見る。
そして目をカッと見開いて、無表情だった。
「信海くん?」
「悪いことをしてみたかっただけだよ」
「え?」
「もうどうでもよくてさ。医者にもならないし一番になる必要も無いし、誰かの評価を気にして生きるのが億劫というか、面倒というか、超怠いなって」
「……信海くん?」
驚いた私に、信海くんは爽やかに笑った。
「先生達が慌てふためく姿が見たくて、全教科白紙で出してみちゃった。大変だったよ。一日目の呼び出し、二日目の呼び出し、三日目の親の呼び出し。来ないけど」
全教科、白紙。
先生にその都度呼び出されても、白紙?
信じられなくて目を丸くしていると、大地くんは穏やかな顔で微笑んでいて、それも驚いた。
普通なら、驚くことじゃないのかな。
「なんか、もう僕、疲れちゃったから、寝るよ」
クスクス笑った後、引っ張り出してきたタオルケットを手に持つと顔まで覆い隠してまたソファの上に眠ってしまった。
え。
えええ。
なんで。どういうこと?
何が信海くんに起きているんだろ。
いつも皆のお手本だったのに。
「面白いな」
「面白くないよ! 三年生のテスト結果って受験に響くってお母さんも言ってたのに」
うちの親は呑気に兄の好物を作っていたし、信海くんの助言に賛成してくれていたから、このことは絶対知らないと思う。
先生達も、信海くんが超難関校に受かるの楽しみにしていたのに。
「あのさ、夏空」
え。
いきなり呼び捨てで呼ばれ、思考回路が停止した。
「俺はサッカー好きだから怪我しても手術しても頑張れるんだけど、もういいんじゃねえの」
「何がいいの?」
「生徒会長は誰のためでもなくて、今までは自分のために努力してたって事じゃん」
うん。
うん?
どんな意味なんだろう。
首を傾げると大地くんは少し困ったような顔で微笑んだ。
「大地くんは信海くんのことを沢山考えてくれているのかもだけど、自分は大丈夫なの? レポート」
相変わらずスポーツバッグに潰された鞄からレポート用紙を取り出す様子もない。
「それ。レポート用紙一枚でも良いから出せってうるせえけどさ。水泳も入れたら三枚だろ。まあ、書きたくなったら書くけど」
何か不満らしい。
何か自分の考えがあって受験生で大事な時期にテスト白紙の信海くん。
何か不満でレポートをやろうとしない大地くん。
やる気はあるのに、頭が追いつかない私の問題集。
埃臭い冷房の中、奇妙な三人が集まってしまったなって印象だ。
「外は暑いんだろうなあ。出たいけど、出たくねえな」
彼は今日はやる気が無いようだ。
片肘を付き、外を眺める大地くん。
その横顔は驚くほど整っているのに、何だか私より遙かに大人っぽくて、心がざわざわした。
私の問題集は、ようやく四ページと少し。
大地くんが目の前に居ない方が、沢山問題解けるのになって思った。
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