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二、旧図書室とミステリアスな幼馴染み。
信海くんは結局、十九時までずっとソファで寝ていて、帰る頃にソファの下に隠していた鞄を出して、何食わぬ顔で旧図書室を出て行ってしまった。
「俺も帰るわ。早くしないと廊下真っ黒になるぞ」
「うん。あ、荷物持とうか?」
「大丈夫。というか、お前は大丈夫か?」
ーーあ。
色々驚くことばかりで、いつの間にか涙が引っ込んでいたっけ。
これぐらいで引っ込むのならば、たいした悩みじゃなかったんだろう。
「うん。大地くんが一蹴してくれたおかげで。私は今、信海くんの方が心配だよ」
まあ私なんかよりきっと色々考えているんだから、心配してもしょうがないんだろうけどね。
大きくため息を吐いた後、先生の見回りでここに二人も居たら怪しいだろうから慌ててノートを詰め込んだ。
「今日はありがとう! 校門まで荷物持つよ」
「だから、大丈夫ってば」
くしゃっと笑った大地くんは、携帯を叩く。
「親が車で迎え来るから。姉と一緒に帰る」
あ。じゃあ、お姉さんが荷物とか持ってくれるのかな。
さっきは器用に首にバックをかけて歩いてたもんね。私のバッグを奪って歩いてくるぐらい。
「そっか。私も遅すぎたら親がうるさいから先に帰るね」
「ん。気をつけて」
優しい。
皆が大地くんを格好良いって言うのが少し理解できた。
真っ直ぐで、裏表なさそうな、人だった。
目つきが怖いとか、いつもクラスの中心で笑ってそうとか、勝手に苦手意識を持って、苦手な部分を探してしまっていたけど、実際に話してみると良い人だったなあ。
私が校門でサツキたちと待ち合わせして帰宅するときも、まだ奥の校舎の旧図書室の電気はついていた。
まだ空はオレンジ色で暗くなかったけれど、ほんのり風は、温くなっていた。
「夏空、帰るの遅くない?」
「……信海くん」
帰宅すると先に帰宅していた信海くんが、なぜか当たり前のようにうちの家でカレーを食べていた。
妹二人も、本当の兄よりもべったりだ。
何事も無かったようにカレーに福神漬けを添えている信海くんを見て、大物だと感心してしまった。
受験生なのに、妹たちの宿題チェックしてくれて、母とニュース見ながら雑談している。
元々は二ヶ月ぐらいうちで一緒に過ごしただけなんだけど、妹しかいなかったお兄ちゃんが、信海くんを本当の弟のように可愛がっていて、そして親元に帰るときも号泣して引き留めたんだよね。
うちのお父さんも、信海くんを養子にした方が良いのかとおろおろするぐらいだ。
なので兄が長期の休みになると信海くんをうちに泊まらせたり、一緒にボーイスカウト参加したりと可愛がるうちにうちにいるのが当たり前のようになった。
わざわざ信海くんの家もうちの近くのマンション購入して同じ中学に通わせるほど、甘やかしてくれるお金持ちさんだし。
まあこんなに一緒に居るのに、私は病院で仕事中のご両親しか見たことないけど。
うーん。
呑気にうちの母と西瓜を食べている場合じゃないんじゃないの。
今日は全く一ミリも勉強してないよね。
「何してるの、夏空。宿題は? 問題集は?」
「ええ、私?」
貴方の隣の三年生は、西瓜食べてるだけですよ。
「何? 信海くんは言われなくても、したいときに勉強する子でしょ」
「そんなあ」
母まで騙すなんて。
いや、騙すじゃなくてきっと今までが誰が見ても品行方正で、今更少し悪いことしても、誰もが信海くんはこんな人なんだとイメージが揺るがないんだろうな。
「夏空、もし分からないことがあったら教えるよ」
西瓜を食べながら微笑んでいる。
「……分からないことだらけだよ」
「んもう! 本当にスマホ没収するからね」
今日だけは、西瓜を食べてる爽やかな少年が、怖いと思った。
それと同時にとても遠い存在に見えた。
本当に分からないことだらけなんだ。
***
夏休みまで残り三日。
私の問題集はまだ一冊と四分の三は残っている。
サツキと美優は、吹奏楽部が毎日あるらしいし、奈々は補習で悲鳴を上げている。
七月最終日が自分の誕生日なんだけど、忙しいだろうから今年は旧図書室で過ごすかもしれない。
夏休みも、あの部屋は自由に使って良いよって信海くんが言っていたから。
本が一冊も入っていない本棚が並んだ旧図書室は埃臭くて、冷房は少しかび臭い。
なのにちょっとだけ放課後が楽しみになっていた。
「夏空」
ぼうっと外を眺めていると、奈々が私の名前を呼んだ。
少し焦った様子で、他の二人もざわざわしている。
「なに?」
「三年の先輩が、夏空を呼んでる」
「え」
三年生が私を?
部活にも入っていないし、私は知り合いがいないと思うんだけど。
恐る恐る教室の入り口を見ると、ストレートの艶やかな髪を掻き上げながら立っている美人な三年生が立っていた。
私と違ってスタイルも良いし、スカートも先生が注意しにくいほどのギリギリの短さ。うっすらと桃色に塗られた唇と、驚くほど小さな顔に長い足。
そして目力が強い。睨まれていないんだけど、真っ直ぐ見られると、身体がこわばってしまう。
サツキと奈々と美優も同じなのか、私の頼りない背中に隠れてしまった。
「生徒会長が妹みたいに可愛がってる夏空って子は君で間違いない?」
「え、あの、はい。幼馴染みです」
美人に、つま先から頭の天辺までなめ回すように見られ、緊張で固まってしまった。
私は今、美術室に置かれている石像よりも堅い。
「ふうん。なるほどなるほど。あのさ、これ。この髪の毛を結ぶゴムあるでしょ。百円ショップにあるやつ」
美人な先輩は、千切れにくいゴムっていう大量に入っているゴム袋を取り出すと、私に左手を差し出してきた。
「タイ貸して。これ真ん中にゴムを通しておくと、後ろの襟から見えたりしないよ」
「えーーっ」
私の不格好なタイを引っ張って解くと、数回折り曲げた後、ゴムを通して真ん中に結んだ。
「夏空?」
心配そうに私に声をかけてくれるので、私も緊張して足がふわふわしている中、頷く。
「昨日、セーラー服の後ろの襟からタイが見えちゃってて。それで二年生の先輩に彼氏募集中じゃないのってこそこそ陰口叩かれちゃって」
「はあ、なにそれ!」
「どの二年? ありえない!」
「彼氏募集中なら、私も襟から出そうかな」
友達三人が騒ぐ中、美人な先輩はそちらには耳も傾けず、黙々とタイにゴムを結びつけてくれた。
「できたよ」
「あ、ありがとうございます!」
「何個か胸ポケットに入れといて、自分でも外れないように注意してね」
「すみません。ありがとうございます」
ありがとうございます、しか言えない。
あわあわしていると、ようやく美人な先輩はにっこり笑った。
「つまんない因縁つけられないように自己防衛手段も取るの大事だよ。女の集団って陰湿なの多いし」
ばっさりと切ってくれて、昨日の不安や恐怖も一緒に粉々になってくれた気分だ。
三人は、私が三年生に苛められていないのを確認してから各々の部活や補習に向かった。
ゴムで留めても襟が膨れてもっこりしないので、この方法ならば二度と油断して彼氏募集中にならないはず。
「でもなあ。まだ彼氏募集中とか言ってる馬鹿いるんだなあ。私が三年になった歳にはそんな馬鹿は締め上げようと思ってたんだけどぉ」
うーんと考えるように腕を組む姿さえも美人だ。
でも、ちょっと分かってきたかも知れない。
「あの、大地くんのお姉さん、とかですか」
この目力、この美貌、そして事情も知らない見ず知らずの私に超親切なこの様子。
昨日の大地くんと重なった。
「そう。正解。一年生が苛められたと知ったら、守ってあげたくなるじゃない」
「すみません。昨日は混乱しちゃいまして。大地くんにもお礼を伝えてください」
「いやいや。本人に言ってあげてよ。私は橘星璃(たちばな りり)。困ってたら直接私に相談していいよ」
綺麗なのに優しい。こんな先輩ばかりだったら学校も怖くないなあ。
「そういえば、最近、信海さあ、どこに隠れてるの? 旧図書室?」
「え、えーっと」
急に話題が変わったので驚いた。
「だって生徒会室に隠れてたし二年も隠してくれてたのに、先生にばれちゃってからは一番に確認に来るようになてさ」
そうか。生徒会の手伝いや体育祭の準備を手伝うって言ってたのは、嘘か。
全部テスト白紙について毎日のように先生に呼び出されてるのかな。
知らなかった信海くんの色んな顔に、面食らってしまう。
私には、兄よりも優しい幼馴染みって面しか見ていないんだけどね。
「まあ、居場所があればいいんだよ。ありがとうね。幼馴染みの夏空ちゃん」
美人な星璃さんに、頭を撫でられてた。
なんでお礼を言われるのか分からないけれど、信海くんを心配してくれているのだけは分かった。
***
大地くんにお礼を伝えたくて、そわそわして待っていたけれど、待てど暮らせど大地くんは来なかった。
代わりに旧図書室の奥のソファに、信海くんが寝息を立てて眠っていた。
とっくに温い冷房から、かび臭い冷たい空気が吹き出しても、大地くんは現れなかった。
問題集は三ページも進んだけれど、会えないのはもどかしい。
こんなときにスマホがあれば、メールでお礼を伝え……られない!
伝えきれない!
あんな大人気で、正面にいたらドキドキしてしまう人に、メールアドレスなんて聞けない。
かと言って正面で目を見て話せるか分からない。
私って三人の賑やかな友達がいるおかげで、兄と信海くん以外の男の子ととほんど話したことが無いというか、スマホにもグループメッセージ以外の交流はない。
でも三年生の美人な先輩に頼ってねって言われたことは素直に嬉しいし頼もしいし。
やっぱ顔を見てお礼を言いたいな。
コトン
窓を眺めながらシャーペンを握りしめていたのに、奥で小さな音が聞こえた。
ソファから伸びる手から落ちたノートは、この前、私はテーブルの引き出しに見つけたボロボロのノートだった。
冷房の真下に置かれたソファ。
落ちたノートは、ふわりとページをめくった。
ぱらぱらとページがめくれる。
『もう一度会いたかった』
信海くんの文字だ。少し右上がりの、定規を使っているような真っ直ぐな字。
眠っている信海くんの顔を見上げながら、ノートを手に取った。
『誰でも良いから、このノートを埋めてほしい』
信海くんは二ページ分を使っていた。
右のページだけ書いて、裏には何も書いていなかった。
「……信海くん」
小さく呼んだ私の声に、まるで返事のように信海くんは目尻から涙を流した。
なんで泣くんだろう。何が信海くんに起こっているんだろう。
前回読んだ部分の文字は、見覚えがあるような気がしたんだけどなあ。
でも信海くんの文字ではなかった。
「青中信海はいるか」
「うわっ」
急いで立ち上がって入り口まで走った。
ドアを開けたのは、事務のおじいさんだった。
今年で定年退職だって言っていた、おっとりしたおじいちゃん。
この場所に信海くんが居ることを知っているような口調で、焦る。
居ますと言って良い相手なのか、私には分からない。
「あの、来てないです。伝言とかあるならば聞きます!」
入り口に立って、中に入らないように祈った。
「ああ、生徒会の子かな? 体育祭のモザイク画の用紙ね。発注したの届いたから、足りるか確認してねと伝えて下さい」
「ありがとうございます! 伝えます」
「二年の生徒会長に聞いても、信海くんにも確認して欲しいと言っていたからね。受験生にすまないね」
モザイク画?
モザイク画って何だろう。体育祭に使うもの?
そういえば紅組と白組で、応援団のスローガン壁画を作るって、運動場に大きな台が用意できていたはず。
「いいよ。俺が伝えとく」
色々と考えていたら、事務のおじいさんと私の間を割ってはいるように、大地くんが現れた。
「二年でやれよ。生徒会室に十年分以上の映像や資料が残ってるんだ。全校生徒の把握ぐらいしてるはずだろうし。おじいさん、悪かったな。俺から生徒会に言っとく」
はあ、と小さくため息を吐いた大地くんは、そのまま松葉杖の音を小さく立ててテーブルの方へ向かった。
おじいさんは不思議そうに首を傾げた後、私に小さく手を振って戻っていった。
「ふー。ここってこんなに冷房効くんだな。涼しい」
胸元の服を摘まんでパタパタしている大地くんは、なんだか色気があって固まってしまった。
「遅かったね」
「ん。色々とな」
言葉を濁した後、ドガッと座って、自分の正面を指さした。
「座らねえの」
「あ、うん。あのね」
正面に座ると、ん?と首を傾げて私の話を聞いてくれる。
ゴツゴツした大きな手。肘ついて、気だるげなのに、真っ直ぐな瞳が優しく滲んでる。
うわあ。
怖くないと分かると、格好良すぎる大地くんの正面に座るのは緊張する。
信海くんみたいに優しい雰囲気じゃないし、お兄ちゃんみたいに線のない頼りない雰囲気でも無い。
変な感じ。同い年の男の子と二人っきりってだけでこんなに緊張しちゃうんだ。
「んん」
いや、二人っきりではなかった。
ソファで眠っている信海くんがいた。
寝返り打って熟睡中だ。ソファの縁に眼鏡を置いてあるからして、徹底してる。
それを見て、なぜだか大地くんは苦笑していた。
「先に生徒会に話し付けとく」
松葉杖を持って立ち上がると、再び旧図書室を出て行ってしまった。
足を怪我しているのに、松葉杖を自分の足のように上手に使っている。
生徒会だって二年生で、先輩ばっかりなのに事務のおじいさんの伝言を伝えに行くの怖くないのかな。
私だけ、臆病すぎる?
大地くんが帰ってくるまで、なんだか時間がゆっくりに感じられた。
『誰でもいいから、このノートを埋めて欲しい』
ノートの真ん中に書かれた文字が、信海くんの本音のように感じられた。
心の声のように感じられた。
ぽとりと落とされた本音に、胸が締め付けられる。
小さく叫んだ声を、私は見落としたくない。
気付いたのだから、信海くんの願いを叶えたいと思えた。
『貴方の心の声を聞かせて下さい』
私もノートの真ん中に大きく書いてみた。
私の字。
サツキや美優や奈々みたいに女の子らしい丸くて可愛い字じゃない。それこそ、このノートの最初に書かれた薄い字のように丸くて女の子らしい字ではない。
祖母が小学生に書道や硬筆を教えているので、私も祖母に教えてもらったおかげで、まるで教科書のように可愛げのない文字を書く。
この文字も、教科書みたいで面白みがないな。
だからノートのど真ん中に一言書くぐらいで、ちょうどいいのかもしれない。
スマホが当たり前の時代で良かった。
ノートの字よりも、皆と同じ文字で話せる方が私は好きだ。
頑張ってはやく。夏休みが始まる前に早く。
この問題集を終わらせねば。
「はあ。生徒会メンバー、もう運動場に移動してた」
戻ってきた大地くんは、ため息を吐きながら松葉杖を机に置くと、机に倒れ込んだ。
運動場までは階段や段差がある。
松葉杖の彼には移動が大変だったと思う。
やっぱり私が変わってあげれば良かった。
「運動場で何してたの?」
「ああ、テント立て。夏休み中の部活は、テントの下で休憩するんだって。体育館の前にも二つは立てるらしいよ」
そうなんだ。
確かに外は冷房ないのに、太陽の光が眩しいもんね。
本当に疲れたのか、むくりと起きるとスポーツバッグを手で凹ませてから、枕のように顔を埋めた。
「ちょっと疲れたから寝る。夏空が帰る頃に起こしてもらっていい?」
「まって。寝るのストップ!」
急いでノートを閉じて、そこに置くと今にも船をこぎそうな顔の大地くんを見る。
「んー?」
「あのね、今日、大地くんのお姉さんが来てくれたの。ありがとう! 心配してくれて、お姉さんに相談してくれたんだね」
「……ああ。俺はただ、本当にくだらねえルールがあるのか聞いただけ。姉さん、気が強いからそれ聞いて怒ったんだよ」
「それでも、相談してくれたおかげで、あんな素敵な先輩とお話しできたし、アドバイスもらえたし、大地くんのおかげだよ」
ありがとうって伝えると、大地くんは更に顔をバッグに埋めてしまった。
顔が見えないので、素直な気持ちを伝えることが出来た。
「もういいから、寝かせろ」
ほのかに耳が真っ赤なのは、外まで松葉杖で歩いたからなのかな。
今日も彼は、レポートをする様子もなく、ひたすらにマイペースだった。
私よりは頭が良いから、余裕なのかな。
大地くんが寝息を立てた後、机の引き出しに慌てて隠したノートを取りだして、信海くんの背中に乗せておいた。
信海くんも大地くんも、何を考えてるのか不思議だ。
***
問題集は半分も進んだ。
基礎だから、簡単な問題ばかりで助かった。
けど、この後の応用編は地獄のような気がする。
もし分からなければ、大地くんに聞いてもいいのかな。
いや、あの人もあの人で全くレポートしてないから、迷惑かけれないし。
「夏空」
とうとう明日から夏休みという日だった。
宿題が追加され、私の鞄が大きく膨れ上がっていた。
放課後。
友達四人で、読書感想文の宿題のために、本を回し読みするか、県立図書館に借りに行くか話していたときだ。
ファイルを持って、信海くんが一年の教室に入ってきた。
他の生徒の視線を全く気にもせずに、堂々と入ってくる。
「信海先輩だ!」
「せんぱーい」
「久しぶりですね」
サツキたちが嬉しそうに寄っていく。学校内では常に人が居たり忙しそうだったので、こうやって話すのは久しぶりだから皆、嬉しそうだ。
「あはは。皆に先輩って言われると照れるね」
全く照れていない様子で、爽やかに笑う。
その爽やかな笑顔は、なんだか無駄に顔に貼り付けているような、すぐ顔に貼り付けれるような、作られたように見えた。
「じゃあ生徒会長!」
「それも外れ。僕は前生徒会長だよ」
信海くんは、私の鞄の上にファイルを置くと、微笑んだ。
「先生に色々と仕事を頼まれるのが面倒でさ。しらばく県立図書館で勉強して帰る。この旧図書室の未返却リスト、夏空に頼んでいい?」
「え! 私?」
「図書委員は、バーコード化した本の整理の手伝いで忙しそうだし。旧図書室を貸してるだろ」
「そうなんだけど」
三人にも、ふわっと伝えている。
受験生の兄とうるさい妹二人の面倒を見ていたら問題集が終わらない私のために、旧図書室を信海くんが貸してくれていること。
「でも宿題も問題集も山盛りだよ」
「大丈夫。未返却はあと数冊なんだけど本人に呼びかけてる。夏空に頼みたいのは、一人だけだから」
じゃあねと、信海くんは言うとさっさと教室から出て行ってしまった。
なんだろう。
未返却リスト。
「なんか二年も会ってないと、信海くんまじで先輩って感じだよね」
「うん。背も伸びてて、ぐっと格好良くなってた」
「笑顔も可愛い」
三人はなんて呑気なんだ。
この暑さを、冷房の中で忘れてしまったせいで感覚が麻痺してしまっている。
こんなに大量の宿題がある中で、のんきに信海くんの成長を感じている場合ではないはずなのに。
ファイルを開けてみると、黄ばんだ未返却リストが数枚挟んでいるだけ。
赤い印が押されているのは、返却された本なのかな。
最近のリストは、特に問題なさそう。
二枚ほどめくったら、作成日が四年前になっていた。
これが今度から本の管理がバーコード化したなら、楽になりそう。
「四年前までリストが載ってるよ。すごいよね」
「えー。四年前?」
私が他の三人にも見せると、皆、中を覗き込んだ。
「うちと夏空のお兄ちゃんも四年前なら学校にいるじゃん」
サツキがリストの名前を、指でなぞっていく。
サツキのお姉さんは、うちの兄と違ってしっかり者だから、このリストには名前なんて載らないと思うけどなぁ。
「四年前の返却してない人、一人だけだね」
黄ばんだリストの中、唯一返却済みの判子が押されていない名前があった。
御園 水音
なんて読むのかな。みずねさん?
「うちのお姉ちゃんに聞いてみようか? 四年前だから記憶薄そうだけど」
「確かに四年前だったら覚えてなさそう。でもうちはお兄ちゃんが受験でピリピリしてるから聞くの無理かな」
朝も早く出て行くし、夜はご飯に出てこない。
反抗期ではなくて、寝る以外は勉強に時間を注いでいるからだって母は言ってた。
「受験で苛々してるんだ。うちは指定校推薦ってやつで面接と論文ってやつだからお姉ちゃん、勉強してないよ」
「そうなんだ」
うちは下に三人もいるせいで、兄が私立は嫌だと豪語して国立大学狙ってたもんね。
勉強頑張らなきゃ行けないのは分かってる。
会話が少なくなるのは寂しいけどね。
「まあ聞いてみるね。御園さん、御園さん」
五年も貸し出し中で、今みたいに先生達から何か連絡無かったのかな。
***
放課後は、運動場から部活の声が聞こえてくる。 蝉の声をかき消すようにサッカー部の声が聞こえてくる。
大地くんも信海くんもいない旧図書室。
大分、この埃臭い冷房の匂いにも慣れてしまった。慣れてしまえば、廊下のむんとした熱風よりも我慢できる。
カウンターにあった大量の本が無くなっていたので、バーコード化されるために持って行かれたのかな。
中学に入学して初めての夏休みなのに、考えることが多くてパンクしそうだった。
青空の下、吹奏楽部のトランペットの音が響いて、ストレッチする陸上部の声が聞こえ、渡り廊下ではセーラー服を靡かせて、走る姿。
窓からそんな場面を眺めながら、重たい手を動かして問題集を説いた。
なんだろう。
夏休みが始まるからだろうか。
胸がざわざわしている。
落ち着かない。
私にはまだ少し難しい。
信海くんが、優秀でありながらテストを白紙で出す理由。
そして大地くんが、そんな信海くんの姿を咎めないこと。
そして怖いと思っていた大地くんが、沢山話してくれること。
実は優しい人なんだなって、分かった。
あの鋭い瞳は、お姉さんの星璃さんも同じだし、私以外は怖いと思ってなかったし。
クラスは違うし、いつも色んな人に囲まれて人気ものだから、こんな場所でしか会話できない。
今日は来ないのかな。
昨日もあまり話せてない。
ここで大地くんと会話してるんだよって皆に言ったら羨ましがられちゃうんだろうな。
不思議。
そして心はざわざわして落ち着かなかった。
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