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「だろ? 本気出してりゃ間違いなく6秒台は出てたろうぜ」
彼女が尊のお気に入りなのかは知らないが、尊の評価は決して贔屓目などによるものではない。実際、僕の目にも先の彼女は7割ほどの力しか出してないように映った。
彼女が本気で走らなかったのは、なにも怠惰な性格だからではない。そうせざるを得ない事情があるのだ。
その事情とは、彼女がいつも欠かさず頭部に身につけている、あの藍色のキャップが物語っている。
「仕方ないでしょ。あの人、病気なんだから」
「そうだなー、中学の頃はあんなもんじゃなかったしな」
「へー、尊は我室さんのこと詳しいんだね」
特に他意があったわけではないのだが、尊は照れたように顔面を綻ばせた。
「別に詳しいってほどじゃねーけどよ。まあ一応は同じ中学だったし? いまも部活で一緒なわけだし?」
我室さんが尊と同じ《高田野中》出身だということは自己紹介の時に知ったが、高校で陸上部に入っているというのは初耳だった。
「あの人、今でも部活やってるんだ?」
「ああ。つっても、選手じゃなくマネージャーとしてだけどな」
へー、なるほど。それで尊は彼女のことを気安く下の名前に〝ちゃん〟付けして呼んでいるわけか。やはりチャラ男だな、こいつは。
いくらか我室さんに関する情報を仕入れたところで、僕は改めて藍色のキャップを被ったクラスメイトに目を向けた。
計測を終えた後、彼女は一緒に走ったクラスメイトからの賞賛に笑顔で答えていた。
普段は日陰で読書でもしていそうな大人しい女子が、いまは太陽のように燦然とした笑みを浮かべている。
入学式から1ヶ月、彼女と一度も会話をしたことがない僕にもこれだけはハッキリと分かる。彼女は走ることが大好きなのだ。
羨ましいな。あんなふうに満ち足りた笑顔になれるのは。
いつからか心の底から笑うことを忘れてしまった僕には、あのような笑顔は作れないだろう。
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